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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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 第二コリント47の黙想 

「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(第二コリント47

 聖書は、私たち人間のことを『土の器』と呼んでいます。これは、私たちのもろくて壊れやすい性質を表わしている言葉です。誰かが言った一言に、また誰かが取った一つの態度に一喜一憂してしまう、そういう弱さを人間は持っているものです。

 

 また、『土の器』という言葉は、どちらかと言うと、素焼きの器をイメージしますが、昔はこの素焼きの器を色んな物を入れるために用いました。

 

 私は田舎育ちなので、小さい頃はかなり原始的な生活をしていて、風呂やトイレは家の外の納屋にありました。風呂はもちろん五右衛門風呂で、トイレは土の中に埋められた大きな素焼きのカメに二枚の板が渡してあるという粗末なものでした。子供の背丈くらいの深さですから、間違って落ちたら大変なことになります。(笑)

 

 もちろん、素焼きのカメは、トイレばかりではなく、色んな用途に使われたわけで、味噌を入れたり、油を入れたり、醤油を入れたり、砂糖や塩や漬け物を入れたり、またある人はお金を入れるためにも使っていたようです。

 

 しかし、ここにある『人は土の器である』という人間理解は、非常に深い意味をその中に秘めています。つまり私たちは、自分という土の器の中に何を入れるかで私たちの人生が決まるということです。良い考えを入れるか、悪い考えを入れるかで、人生は大きく分かれます。どういう人生観、世界観、価値観を入れるかで、人生の進む方向が決まります。

 

 パウロは、「わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている」と言いました。そして、その宝は、神の測り知れない力であると言っています。この宝とはキリストの福音のことを指しています。

 

 私たちは、死んだら灰になってしまうような土の器ですが、そんな土の器にすぎない私たちが、イエス・キリストを救い主として信じて受け入れるときに、この測り知れない力の源であるキリストをこの土の器の中に持つ者とされます。それは、私たちの思いをはるかに超えた素晴らしい経験です。なぜなら、その事によって、私たちには永遠の命が与えられ、神の子として、永遠の天国を相続する特権が与えられるからです。これ以上の宝はどこにもありません。

 

 2021年現在で、100歳以上の日本人の数は86,510人だそうですが、元気で長生きというのは本当に素晴らしいことです。しかし、このキリストの福音という宝をこの土の器の中に持つことができれば、何年生きようが、それは大した問題ではなくなります。

 

 私たちはよく、子供が親より先に死ぬことほど、親にとって辛いことはないと言います。確かにその通りです。しかし、そういう考え、そういう見方は、人間は死んだらそれでお仕舞い、という死生観に立っての考えです。たとえ10年生きようが、30年、50年、70年、90年生きようが、結局はやがてみんな死んでしまうのです。

 

 ですから、大事なことは、生きている間に、永遠の命を得るためのイエス・キリストという『宝』をこの『土の器』の中に持つことです。そうすれば、10年の人生であろうが、90年の人生であろうが、どちらでも変わりはないという世界がそこに開かれていくのです。この『宝』には、それほどまでの力があるのです。だからすべての人が例外なしに手に入れるべきものなのです。

 

 またパウロは、この『宝』が『土の器』の中にある理由を、この『宝』が持っている測り知れない力が、神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためであると言っています。

 

つまり、クリスチャンには尊い使命と責任があるということです。壊れやすい『土の器』に過ぎない私たちが、患難を受けても窮しない生き方、途方にくれても行き詰らない生き方をすることによって、私たちの内に生きて働くキリストが証しされていく。そのことのために、神はこの『宝』を『土の器』の中に入れておられるのです。

  

今日の一言: あなたはこの宝を持っておられますか?

 

 鶴田健次

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2023.08.13 21:34 | 牧師室より

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マタイ13:24-30の黙想

  イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。 ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。 麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。 それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』  主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』  だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。 だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」(マタイ132430

 

 

中国の故事に「市虎」(しこ)と呼ばれるお話があります。『市虎』というのは、町の中に現われた虎のことです。

 

ある時、魏の王に仕える家臣が、「王よ、まちに虎がでました。こういう報告がはいったら信じますか」と尋ねます。そこで、魏の王は答えます。 「信じるものか」

 

そこで家臣が言います。「もう一人、報告にきたら」

王は「信じない」ともう一度言います。

そこでまた家臣が、「それではもう一人、虎が出ましたと報告したらどうです」と尋ねると、「ウーン、信じる」と王は答えてしまいます。

 

そこで質問をした家臣は、こう言います。

「王よ、あなたは虎がいないと、わかっているのです。それなのに、三人も報告にくると、信じてしまわれた。私はこれから派遣されて、遠方にまいりますが、わたしの悪い噂を耳うちする者がいても、信じないで下さい。」

 

こう言いおいて、この家臣は出掛けて行きました。 数年たって帰国してみると、王は接見してくれなかったという話です。

 

よく知られているこの中国の故事は、噂がどんなに恐ろしいものであるかを教えています。

 

噂の魔力については、「曽参(そうさん)人ヲ殺ス」 というのもあります。曽参が人殺しをしたという告げ口を、曽参の母親は信じませんでした。しかし、三人めがかけこんできて告げ口をすると、ついに現場をめざして走り出したという話です。

 

このように噂というのは、その真実性には関係なく、聞いた人に大きな影響を与えます。旧約聖書の箴言に、「わきまえのない者は何でも言われた事を信じ、利口な者は自分の歩みをわきまえる」という御言葉がありますが、うわさ話の聞き方を心得ている人と、いない人がいます。うわさ話の聞き方を心得ている人というのは、事実関係を確かなところで確認するまでは信じませんが、心得ていない人というのは、うわさ話を確認もしないで鵜呑みにしてしまいます。

 

また、うわさ話だけではなく、他人に関する評価についても、心得のある人とない人がいます。心得のある人は、人の振る舞いを見て、その背後にある事情を理解しようと心掛けますが、心得のない人は、その振る舞いだけを見て、その人にレッテルを貼ってしまいやすいものです。

 

あなたは如何でしょう? あなたは心得のある人ですか? 

 

聖書もこう命じています。「いかなる咎でも、いかなる罪でも、すべて人が犯した罪過は、一人の証人によって立証されてはならない。二人の証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。」(申命記1915

  

今日の一言: 早まった裁きをしない

  

鶴田健次


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2023.08.06 08:26 | 牧師室より

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マタイ18:1-6の黙想

 

 

「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」(マタイ183

 

 

マタイの福音書18章のテーマは、「教会における人間関係」ということです。パウロは、第一コリント1227で、「あなたがはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです」と言いました。

 

私たち自身がキリストのからだです。ですから、私たちとキリストの働きを切り離すことはできず、主は私たちを通して働かれます。また、私たちひとりひとりは器官です。ですから、クリスチャンは単独で生きるのではなく、必ず他の信者を必要とし、自分と他者との関係の中にキリストが働かれるのです。

 

そこでイエス様は、私たちが兄弟姉妹に対して取るべき態度を教えておられます。その一つが1816の「へりくだり」ということです。自分を小さい者とみなし、他の人をキリストにあって受け入れることの大切さが語られているのです。


まず1節に目を向けると、弟子がイエス様に「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか」と尋ねています。弟子たちはイエス様が王として支配される国が地上に打ち建てられることを期待していました。彼らが言った天の御国とは、そういう意味での地上の王国を指していました。

 

ですから、この弟子たちの質問は、イエス様が王となられたあかつきには、弟子たちの中の誰が

No.2になるのか、という意味だったのでしょう。その弟子たちの質問に対するイエス様の応答が2節以下です。 

 

弟子たちの質問は「誰が天の御国で一番偉いのか」ということでしたが、イエス様はここで、まず天の御国に入るための条件を語っておられます。それが「悔い改めて子どものように」なるということです。


「悔い改め」とは、原語のギリシャ語では方向転換を意味する表現で、聖書では「罪」との関係で用いられています。また、「罪」(ハマルティア)は「的外れ」という意味の言葉です。要するに向くべき方向を正しく向いていない状態が「罪」であり、向くべき方向とは、天地万物の創造者である神様です。

 

つまり、神様に背を向けて生きている状態、それが的外れの生き方であり、最も基本的な罪の姿です。そして、そのような状態から方向転換をして、正しく神様のほうを向いて生きていく決心をすることが「悔い改め」ということです。ですから、ここで言われている天の御国に入るための条件とは、罪人である自分の姿を認め、そこから方向転換をして、まっすぐ神様の方に向かうということです。

 

また「子どものようになる」という表現ですが、4節を見ると、「子どものようになる」というのが「自分を低くする」と表現されています。これは自分の弱さを認めることで、悔い改めとの関係で語られていることを考えれば、ここで認めるべき弱さとは自分の「罪」のことであり、自分が罪人であることを認めることを言っているのです。


それからイエス様は5節で、「また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです」と、ご自分と子どもとの関係を語っておられます。

 

ここでは「このような子ども」とありますが、これは誰を指しているのかというと、6節に「わたしを信じるこの小さい者たち」とあるので、イエス様に対する信仰を持っている人のことです。

 

そして、ここからイエス様の話題は「普通の子ども」から、ご自分のことを信じる、ご自分の弟子たち、いうなれば信仰によって神の子どもとされた人たちのことに移って行くわけです。

 

ですからこの個所を言い換えると、イエス様を信じる人々を受け入れることは、イエス様を受け入れることになるということなのです。

 

 

今日の一言: 神様のほうを向いて生きていく決心をしよう

 

 

鶴田健次


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2023.06.22 23:40 | 牧師室より

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マタイ10:1623の黙想

  

「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」(マタイ1016

 

主イエスは、十二弟子をイスラエルの失われた人々のもとに遣わされるとき、彼らに向かって、「わたしが、あなたがたを遣わす」とおっしゃいました。つまりそれは、主イエスを信じ、主イエスの弟子である私たちクリスチャンも遣わされている者であることを意味します。

 

そして、遣わされている者であるということは、もはや自分自身のために存在しているのではなく、遣わして下さった方のため、また遣わされている対象のために存在しているということです。

 

私たちは主のため、また誰かの救いのために存在しているのです。主は救いの業のために、私たちをお用い下さるのです。だから、そのために生きなければ、教会の意味も、クリスチャンの意味もないのです。

 

1920節を見ると、「人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです」と言われていますが、必要とあらば、聖霊が私たちを通してお語りになります。そのように神が私たちを用いて、ご自身を世に現し、この世界に信仰をもたらそうとしておられるなら、まず私たちが信仰に生きていなければなりません。

 

22節に「最後まで耐え忍ぶ者は救われます」とあります。この「最後まで」という期間は、私たちに与えられた大切な期間です。私たちがキリストに似た者に変えられ、そのような私たちを神が用いて下さるために必要な期間なのです。

 

あるいはまた、この世界の救いのため、誰かの救いのために、神が私たちを通して働いて下さるための期間です。意味のない苦難や試練の期間はありません。神の大きなご計画の中で、尊い意味を持っている尊い期間です。

 

そこで大事なことはただ一つ、耐え忍ぶことです。留まること、信仰に留まることです。絶対に希望を捨てないことです。どこまでも主を待ち望むことです。

 

 

今日の祈り: 主よ、この世の救いのために私を用いて下さい。

 

 

鶴田健次


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2023.06.02 10:55 | 牧師室より

残された時間は短い


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わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。」(ヨハネ94

 
 人生は霧のように現れては少しの間姿を現し、消えてしまうものです。もし私が20歳の頃に誰かが人生はとても短く、あっという間に過ぎ去るものだと言っても、さほど真剣に受け止めなかったでしょう。そして今、私が若者たちに同じことを言っても、彼らは真剣に受け止めないかも知れません。若者たちに人生がどれだけ短いか、どれだけ早く過ぎ去るかを理解してもらうことは難しいような気がします。
 
 私たち全員が1日に与えられる時間は同じで、1日に24時間、1週間に168時間、一年間に8,760時間です。 神様は私たちに80年の命を与え、興味深いのは、医学の進歩にもかかわらず、人間の寿命はあまり変わりません。一般的に平均寿命は80年前後でしょうか。自分に与えられた一生がすぐに終わってしまうと考えると、何とも言えない気持ちになります。 私たちは自分の人生の優先順位を書き出して、それを守ることが大切だと思います。
 
 自分を必要としている家族との時間をもっと過ごすべきです。書こうと思っていた手紙を送るべきです。お金を神と人と自分のために有意義に使うべきです。勉強する時間をちゃんと確保すべきです。伝道すべき人がいるなら、今すぐ伝道しましょう。時計が動くたびに、今が最期になるかも知れないという意識を持つことも大事です。明日の命は誰にも保証されていないからです。
 
 時間は私たち全員にとって切迫しており、優柔不断になる時間はありません。二つの意見の間で躊躇してはなりません。愚か者は時間が長いと言います。毎朝私たちは、自分が費やし、投資できる時間が86,400秒あります。そして毎日、時間という名前の銀行が私たちのために新しい口座を開設します。残高は許可されず、オーバードラフトもありません。もしもあなたがその日の時間を無駄に使ってしまった場合、損失はあなた自身が被るだけです。
 
 イエス様は、わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます」と言われました。 あなたの人生にも必ず夜がやって来ます。しかし、私たちはイエス様の人生から教訓を得ます。それは人生の質であって、長さではありません。 イエス様はわずか33年しか生きられませんでしたが、その最後には、ご自分の働きを完了したと言われました。世の人々からは敗北者と思われていたかも知れませんが、その生涯は崇高なものでした。あなたがあと5年、10年、または20年生きるとして、あなたの働きは完了するでしょうか。あなたの働きは質の高いものでしょうか。
 
もしあなたが、十一献金をするのと同じように、与えられた時間の十分の一を主に捧げることができたら、どうでしょうか。あなたの時間は豊かに祝福されるはずです。祈りと御言葉の生活を大切にしましょう。聖書を知っている人たちこそ、今日の力を持つ人たちです。
 
私たちは、時間の短さと緊急性を認識し、自分たちが持っているわずかな時間を神の国に投資する者でありたいと願います。
 
 
今日の一言: 残された時間は短い
 
 
鶴田健次


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2023.05.18 09:25 | 牧師室より

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