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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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セルフコントロール(自制)の大切さ

 

 

今日は、「セルフコントロール(自制)」の大切さについて考えてみました。

 

 

自制をできる人は自分の気持ちを支配します。

彼らは気分に支配されたりはしません。世界でなされてきたほとんどのものは、たとえそれをする気分でなくても、それを実行に移す人々によって成し遂げられています。「自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ち壊された町のようだ。」(箴言2528

 

自制をできる人は自分の言葉に気をつけます。

彼らは口を開く前に心にギアを入れます。言うべきかどうかを制御するためです。一旦、口から出た言葉は、引っ込めることができません。「自分の口を見張る者は自分の命を守り、くちびるを大きく開く者には滅びが来る。」(箴言133

 

自制をできる人は自分の反応を抑えます。

あなたは冷静さを失う前にどれだけのことができますか。「人に思慮があれば、怒りをおそくする。その人の光栄は、そむきを赦すことである。」(箴言1911

 

自制をできる人は自分のスケジュールに忠実です。

もしあなたが自分の時間をどのように使うかを決めなければ、他の人(物)がそれを決めるでしょう。そういう生き方がもたらす結果は不本意な人生です。「そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」(エペソ51516

 

自制をできる人は自分のお金を上手に管理します。

彼らは稼ぐお金よりも少ないもので生活し、残りを将来のために投資します。立てた予算の価値は、そのお金はどこに行ったのだろうと思うより、そのお金にどこに行って欲しいかを言うことにあります。「知恵のある者の住まいには、好ましい財宝と油がある。しかし、愚かな者はこれをのみ尽くす。」(箴言2120

 

自制をできる人は自分の健康を維持します。

もちろん特別な素晴らしい例外はありますが、健康であれば、より多くの事を成し遂げ、それを楽しむことができます。「各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ちなさい。」(Iテサロニケ44

 

 

あなたは、どの領域で自制を身につける必要がありますか? あなたが今日この自制の大切さに目覚めて訓練を始める決断をするなら、あなたの明日は素晴らしいものになるでしょう。しかし、自制を継続させていくためには意志の力だけでは十分ではありません。あなた自身の力よりも大きな力が必要です。それは聖霊によって与えられる力です。

 

「神が私たちに与えてくださったものは、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」(2テモテ17) 

 

 

今日の一言: 自制は聖霊の実

 

 

鶴田健次

 

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2021.09.16 02:49 | 鶴田健次牧師より

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あなたは試練にどう向かう?

 

 

人生には試練は付きものです。生きていれば誰もが試練や苦難を経験します。それが生きていることの証しです。そして、この試練をどう受け止めるかで人生の進路が大きく変わります。


「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これも、あれも神のなさること。」(伝道の書714

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。 」(詩篇11971

一般的には、苦しみは不幸と考えるのが普通です。しかし、この詩篇の記者は、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした」と言っています。それは、「苦しみ」というものの一面が、神の愛と恵みの発露だからです。

 

ルカの福音書15章に登場する「放蕩息子」は、父親から離れて放蕩三昧の生活をし、飢えと苦しみと孤独のどん底の中で、自分の間違いを認め、悔い改めて父親のもとに帰って来ました。父親は、息子が離れて行くのを止めさせることも出来たのですが、敢えてそうはしませんでした。その息子の自由意志に任せたのです。

 

しかし、その息子がいない間、父親は断腸の思いで息子の帰りを祈りつつ待っていました。それが、父親のわが子に対する本物の愛です。自ら自分の間違いに気づいて帰って来るのを、父親は一日千秋の思いで待ち続けたのです。そして、私たちに対する神の愛も同様なのです。

「神は悩んでいる者をその悩みの中で助け出し、そのしいたげの中で、彼らの耳を開かれる。」(ヨブ記3615

この御言葉を注意して読んで下さい。「神は悩んでいる者をその悩みから助け出される」とは書いてありません。神は、人を「悩みの中で」助け出されるとあります。悩みや苦しみがなければ、人はなかなか自分の人生の意味や目的を真剣に考えようとしません。

 

「これを信じれば、病気が治ります」とか、安易に約束する宗教がたくさんありますが、神は苦しみや悩みの現実の中で、その苦しみや悩みからすぐに助け出されるのではなく、その中で人生を深く考えさせ、自分から罪を悔い改めで神に立ち返らせて下さることで真実の愛を表わされる方なのです。

ヨハネの福音書9章にあるお話ですが、イエス様が道の途中で、生まれつきの盲人をご覧になられました。それを見た弟子たちは、イエス様に「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」と尋ねました。するとイエス様は、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のみわざがこの人に現われるためです」と、それまで誰も聞いたことのない驚くべき答えをされました。そして、その盲人の肉眼はイエス様の奇蹟よって開かれ、また彼の霊の目も開かれたのです。


神様の愛は、すべての人に注がれています。そして、神の究極的なご計画は、人間の神に対する不信仰の結果である罪と死(永遠の滅び)から、人間を救うことにあります。そのために、神はご自分の独り子イエス・キリストをこの世に遣わされ、人間の罪の身代わりとして十字架につけてくださり、三日目に復活させて下さったのです。

 

あなたの身代わりとして御子イエスを十字架につけられたのは、あなたに対する神の愛の現われです。なんと驚くべき神の御愛でしょうか。この愛の神に背を向け、罪の生活を続けながら、「神などいない。この世のどこに愛があるのだ」言っている人は、土に深い穴を掘って、その中に入り、その穴の上にふたをして、「太陽の光など何も見えないではないか」と言って不平を言っている人と同じです。

 

試練は、苦しむためのものではなく、その苦しみの中で神を知り、自分を知り、目が開かれて新しい人生を生きるようになるためのものなのです。

 

 

今日の一言: 苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。

 

 

鶴田健次


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2021.09.11 03:50 | 鶴田健次牧師より

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収穫の原則

 

 

 

「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます」(IIコリント910

 

あなたは、自分の必要の供給源として、神だけに頼る決心をすることの大切さを考えたことがありますか? 私たちクリスチャンは、自分の必要を満たすために、神だけを頼りにし、他の何ものにも頼らないことを神に申し上げる必要があります。

 

私たちは、供給のチャンネルを供給の源と勘違いすることがあります。神は、あなたの必要を備えるために、そのチャンネルとして、仕事から得る給料を用いられるかも知れません。しかし、あなたの雇い主は神の備えの単なるチャンネルに過ぎないのです。そして、神が望まれるなら、いつでも別のチャンネルに移すこともおできになるのです。

 

もしあなたが、自分の必要を満たすために何か別のものを頼りにし、供給のチャンネルと供給の源を間違い始めると、明らかな警告のしるしが見え始めます。それは「心配」です。

 

たとえば、供給のチャンネルの代わりに、供給の源として仕事を頼りにしているとしましょう。すると、あなたは、会社で事がある度に、「仕事を無くしたらどうしよう?」と心配し始めるに違いありません。しかし、知って下さい。供給のチャンネルは閉ざされることがあっても、あなたの必要を満たす供給の源は常に活発に働き、あなたのために備えられているのです。しかし、あなたが神以外のものを頼りにしているなら、あなたは備えていただくチャンスを神に与えないのです。

 

あなたは、自分に何が欠けているかを知ると、その必要を満たすチャンネルを選ぶ権利を神に与えなければなりません。それは、あなたが選ぼうとしているものと違うかも知れません。実際、神は、あなたが神を頼りにし続けることを学ぶために、意図的に違うチャンネルを選ばれることがあるのです。しかし、そこには大切な目的があることを見落としてはいけません。

 

神をどこまでも神として生きていくことこそ、クリスチャン生活の醍醐味です。神が、あなたの必要に対し、あなたが不可能と思っている方法で、あるいはあなたが考えたこともない方法でそれを満たして下さるのを見ることは、なんとスリルに満ちたものでしょうか。

 

 

今日の一言: 供給の源は神である

 

 

鶴田健次

 

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2021.09.03 22:38 | 鶴田健次牧師より

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恵み

 

 

今日は、「恵み」について考えてみました。

 

「恵み」という言葉は、たとえば「自然の恵み」というふうに、「恩恵」という意味で使われますが、キリスト教では、原罪を持つ私たちにただ信仰によって与えられる神の愛による罪の赦しと救いのことを「恵み」と言います。つまり、愛される資格のない者が愛されること、赦される資格のない者が赦されること、これが「恵み」です。

 

殺人の罪を犯して終身刑の判決を受けるとしたら、それはこの世の人生を棒に振る絶望的なことです。しかし、私たちの中にある罪の問題を解決しないで永遠のさばきを受けることは、終身刑どころの絶望ではありません。

 

そんな絶望の中にいた私たちが、救い主イエス・キリストを信じるだけで罪を赦され、永遠のさばきではなく永遠の命の世界に生きる者とされるというのは、私たちにとってあまりにも分の良すぎる話だと言えます。ところが、この分の良すぎる話がどんなに有難い話であるかは、神が払われた犠牲の大きさを知らずには理解できないことです。

 

ある病院の待合室に二組の家族の姿がありました。また、そこには何とも言えない張りつめた空気が漂っていました。一つ目の家族は、二十歳前後の若者たち4、5人とその母親。若者たちは、革ジャンを着て、髪の毛を染め、顔のあちこちにピアスをし、どことなく荒々しい感じでした。

 

待合室の隅のほうには、一人の警官が立っていて、彼らを監視しながらレポートを書いていました。明らかに何かの事件が起こった事が判ります。

 

部屋の反対側の方には、どことなく品の良い男性が、医者が着る白いガウンを着て、妻と娘と一緒に座っていました。彼らの顔は暗く沈み、目を赤くして、深い悲しみの中にあるようでした。そこに一人の女性記者がいて、何やら特ダネになりそうなことをその男性から聞いて、メモを取っていました。

 

一つ目の家族の若者たちは、「ゲシュタポ」と呼ばれるギャングの一味でした。彼らの中には一つの慣わしがあり、新しいメンバーになるには、走る車の中から誰かをピストルで撃って殺し、“男”であることを証明しなければなりませんでした。

 

その「ゲシュタポ」のメンバーである兄弟たちの一番下の弟はリックという名で、心臓病にかかって死にそうでした。心臓移植だけが命を取り留める方法でしたが、彼らには保険がありませんでした。心臓病の手術代は国の福祉のほうで支払われる予定でしたが、かなりの高額になる医者代は自分たちで払わなければなりませんでした。

 

しかも、心臓の提供者がまだ見つからず、彼は助かる見込みがほとんどありませんでした。しかし、その日の夕方になって、突然、心臓の提供が可能になったということで病院に呼び出されたのです。

 

一方、その男性医師は有名な心臓病の専門医でした。彼は、心臓移植のために病院に呼ばれ、病院に駆け込んで来て初めて、死んだばかりの心臓提供者が自分の息子であることが分かりました。しかも、これが新聞記者にとって特ダネとしての価値があったのは、心臓を提供する相手が、この男性医師の息子を殺したギャングの弟だったからです。

 

そこで問題は、この一部始終が分かった今、この男性医師が自分の息子の心臓を、息子を殺した犯人の弟に提供するかどうかということでした。この医師と彼の家族はクリスチャンで、このいきさつが分かってしばらく病院のチャペルで祈っていました。もし彼が息子の心臓をこのギャングに与えるとしたら、手術も引き受けるのだろうかということも大きな疑問でした。一体、この世のどこに自分の息子の心臓を息子を殺した犯人の兄弟に与える者がいるか。また誰がその父親にその移植手術を頼むことができるか。

 

待合室の緊張はどんどん高まってきました。もしその医師が息子の心臓をそのギャングに与え、手術をしたとしても、彼らには高額の医者代を払うことができません。

 

待合室の緊張が頂点に達した時、その男性医師は、死にそうになっているギャングの母親を自分の方に呼びました。部屋中のすべての人が彼の方を注目します。そこで彼はこう言いました。「私が手術を致しましょう。息子の心臓をあなたの息子さんに提供します。そして、医者代は要りません。神様も私に同じ事をして下さいましたから。」

 

待合室に歓声がわきあがりました。彼らは大声で「リックに新しい心臓が与えられた。しかもタダでだ。おい信じられるか。タダでだぜ!」 その医師は、そこにかがみ込んで泣きました。

 

そこで、警察官が大喜びをしているギャング達に向かって、「おい、君たち、確かに君たちにはタダであっても、彼にはタダなんかじゃない」と言いました。彼にとっては息子の命という大きな代価が払われたのです。しかも彼は、その息子の心臓を息子の命を奪った者に与えたのです。なぜ彼はそこまでの事をしたのでしょうか?

 

「恵み」というのは、こういう事を言うのです。神が下さる本当の恵みの意味を理解するためには、恵みは確かにタダで受け取るプレゼントであっても、そのために「計り知れない神の犠牲」があったということを知る必要があります。

 

神は、無情な人々に大切な御子イエス・キリストの命を奪われてしまいました。そして神は、いわば高価で罪も汚れもないその心臓を、キリストを殺した者たちの魂に移植されたのです。だから、この偉大な医師である神が、この移植を可能にするために、どれ程までの代価を支払われたのかが分からなければ、私たちは神の恵みの本当の意味を理解できないのです。

 

 

今日の一言: 計り知れない犠牲がもたらした驚くべき恵み

 

 

鶴田健次


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2021.08.31 10:20 | 鶴田健次牧師より

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祝福の法則

 

 

あなたは、神が人を祝福される時には、ある法則があることをご存知ですか?それは、神は人を「祝福の器」として祝福されるという法則です。「器」というのは、料理をのせる食器のように、他のものを運んだりするときに用いるものです。つまり、「祝福の器」とは、神の祝福を他の人に運ぶために用いられる道具だということです。


信仰の父と呼ばれるアブラハムは、その人生において、多くの富を得た人でしたが、それはアブラハムが自分だけの祝福を願ったからではありません。彼は神の約束の言葉を聞いたとき、その神の言葉を信じて、言われた通り、遠い見知らぬ土地に移り住みました。それは彼が75歳の時でした。

 

その神の約束の言葉というのは、アブラハムだけを祝福するという約束ではなく、アブラハムと彼の子孫を通して、地上のすべての民を祝福するという約束でした。自分がこの世を去り、後の時代に生まれて来る子孫を通して世界の人々を神の祝福にあずからせるという約束でした。つまり、自分以外の人々を神の祝福に導くという約束を受け入れ、その祝福の担い手として生きたからこそアブラハムも祝福されたのです。


ヨセフの場合はどうだったでしょうか。ヨセフは、兄弟によって奴隷として売り飛ばされるという悲惨な経験をしました。しかしエジプトで奴隷となっていたヨセフは、神の不思議な導きによって、エジプトの王パロの見た夢を解き明かし、ついにエジプトの総理大臣になりました。これはヨセフが自分だけのことを考えて生きたからではありません。神と人のために生きるヨセフを神が祝福の器として用いられたからです。

 

神は総理大臣となったヨセフを通して、7年間の大豊作のときに食物を蓄えさせ、7年間の大飢饉が見舞ったとき、多くの人々を救ったのです。さらには、自分を売った兄弟たちを飢饉から助け出し、イスラエル民族を絶滅から守ることで、祝福を運ぶ器として用いられたのです。


私たちは、自分の祝福を望むなら、自分だけが祝福されることを求めてはなりません。ヤコブの手紙にこう書かれています。「求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ
。」(ヤコブ43

 

ヤコブは、神に祈り求めても与えられないのは、自分だけの楽しみのために使おうという間違った動機で祈り求めるからだ、と書いています。自分だけの祝福を求めても神は答えてくださいません。私たちは、祝福されたいと思えば、他の人と一緒に祝福されることを願わなければなりません。

 

イエス様が男だけで5000人の人々を満腹にされたとき、イエス様が用いられた5つのパンと2匹の魚は、少年がイエス様に差し出したものでした。このように、人のためにと差し出されたものを神が祝福なさるのは、さらにその祝福が、周りの人々に広がっていくようにするためなのです。

 

 

今日の一言: 神は「祝福の器」を祝福される

 

 

鶴田健次

 


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2021.08.24 22:29 | 鶴田健次牧師より

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