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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

456:天に宝を蓄える_convert_20190927230722

天に宝を蓄える



 私たちに与えられている地上の生涯には限りがあります。100歳以上まで長生きする人もいれば、20歳の若さで死ぬ人もいます。冷静に考えれば、明日の命は誰に対しても保証されてはいません。とすれば、一時的なもののために人生を無駄にしてはならないことを思わされます。


 「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(2コリント4:18)


 私たちは、どうでもいいような事のために多くのエネルギーを浪費し、永遠のためには何と僅かなエネルギーしか使っていないことでしょうか。私たちは一時的なもののために人生を無駄にすべきではありません。イエス様は、「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである(ルカ9:62) 」と言われました。また、使徒パウロは、「世の富を用いる者は用いすぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです(1コリント7:31)」と警告しています。


 何かがあなたの使命を邪魔していませんか? それが何であれ、それを手放してはいかがでしょう。ヘブル書の著者は、「私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか(ヘブル12:1)」と言っています。


 私たちはどうしたらこれができるでしょう。最も誤解されたイエス様の言葉ですが、「不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです(ルカ16:9)」とイエス様はおっしゃいました。


 もちろん、イエス様は友をお金で買いなさいと言われたのではありません。イエス様が意味されたことは、この世の富を人々をキリストに導くために使うべきだということです。そうすれば、あなたが天国に行ったときに、彼らがあなたを永遠の友として迎えてくれるだろうということなのです。それこそが、地上の人生であなたにできる最高の投資であると聖書は教えています。


 私たちはよく、「死んだら何も持って行けない」という言い方をします。まさにその通りです。しかし、聖書は、天国に行く人々のために投資することによって、それを前もって天に送ることができると教えているのです。


 「こうして、真のいのちを得るために、未来に備えてよい土台を自分のために築き上げるように、命じなさい。」(1テモテ6:19) 


 皆さんは、多くの事に心を配って思い煩ってはいませんか? 無くてならないものは多くはありません。さあ、しばらく立ち止まって、イエス様の次の言葉を瞑想してみてください。


 「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである。」(マタイ6:19-21)



今日の一言: 天に宝を蓄えよう



鶴田健次


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2019.09.27 23:10 | 鶴田健次牧師より

454:神への明け渡し_convert_20190921015701


神への明け渡し

 


今日は、自分自身を神に明け渡すことについて考えてみました。


信仰生活は戦いです。しかし、私たちが犯しやすい間違いは、創世記32章にあるヤコブのように、その戦いが、しばしば神との戦いになることです。つまり、私たちは無意識のうちに神と戦っているのです。その戦いは絶対に勝てる戦いではないのですが、それでも私たちは神との戦いとは知らず、それを試みるのです。


多くのクリスチャンが未だに同じ問題を抱え、その問題にほとんど進展が見られないということがあります。その理由は、自分の中にある心の王座を神に譲ろうとしないからです。つまり、私たちは自分を神の立場に置き、自分の思いを貫きながら、私たちの内になされようとする神の業を妨げているのです。


私たちは神ではないし、これからも絶対に神にはなれません。私たちはどこまでも人間なのです。ところが、私たちは自分の人間としての限界を頭では受け入れますが、心では受け入れようとしません。また、人間としての弱さや無力さに頭では同意できますが、心では同意できません。そのために、私たちは神の御心に素直に従うことをせず、自分の考えを貫こうとするのです。


明け渡しの意味:  

自分を神に明け渡すとは、あなたの合理的な考えを捨てることではありません。神はあなたに与えた心を無駄にはされません。神はあなたを自由意志のないロボットとして仕えさせようとは望んでおられません。明け渡しは、あなたの個性を無くすことではなく、むしろあなたのユニークな個性を用いるために必要なのです。明け渡しは、あなたの個性を抑えるのではなく、むしろそれを本当の意味で活かすものなのです。


C.S.ルイスは、こう言ってます。

「私たちが神に自分を委ねれば委ねるほど、私たちは、より本来の自分になることができる。なぜなら、神が私たちをそのように創られたからである。神は、あなたや私がそうなるべく、すべての人を違う者として創られた。そして、キリストに信頼し、キリストに自分を明け渡すとき、私たちは初めて自分自身の本当の個性を持ち始めるのである。」



今日の一言: 明け渡しは本当の自分を生きる道



鶴田牧師


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2019.09.21 01:58 | 鶴田健次牧師より
453:人間の基本姿勢(その3&4_convert_20190914043434

人間の基本姿勢(その3&4)




 さて、今日も前回の続きですが、今日は、人間が持つ以下の4つの基本姿勢の第3番目と4番目のものを考えてみました。今回は少し長いですが、とても大切な人間理解について書きましたので最後まで読んでください。


① 私もOK、あなたもOK(自己肯定、他者肯定)

② 私はOKだが、あなたはOKではない(自己肯定、他者否定)
③ 私はOKではないが、あなたはOK(自己否定、他者肯定)
④ 私もあなたもOKではない(自己否定、他者否定)


③ 私はOKではないが、あなたはOK(自己否定、他者肯定)


 この姿勢で生きている人は、厳しく育てられた、いじめにあった、そういう背景を持った人が多いようです。


 小さい頃の親や先生が厳しいということは、「まだまだ、そんなことじゃダメだ。もっと頑張れ」と言われて育つということです。テストで80点を取っても、「百点を取らなきゃダメだ」と言われたりして高い水準を求められると、それに達していない自分が責められ、やがて自分で自分を責めるようになります。だからいつも「私はダメだ」と感じるのです。うつ病などの精神疾患にかかる人には、圧倒的にこのタイプが多いようです。


 いじめに関しては、親から離れ、学校という新しい世界に入った子供にとって、クラスメイトは非常に大きな影響力を持つ存在です。そのクラスメイトからいじめられるということは、その世界で、自分の存在が拒否されることになり、世の中から「おまえはOKではない」と宣言されるようなものです。


 しかし、もっと大きな問題は、家に帰ってから、その気持ちを聞いて慰めてくれる人がいたかどうかということです。慰めてもらえる強い味方がいれば耐えられるし、やがてはいじめられない子供になります。ところが、いじめられて帰って来ても、親に受け止めてもらえなければ、あとは逃避しかありません。学校は怖いので行きたくない。ところが行かないと親が怒る。こうして、学校も家も自分にとっては攻撃される恐ろしい場所になるのです。


 家や学校は、子供にとっては「世界」の代表です。こうして、その子供は「世界は私を受け入れてくれない。それは私が価値のない人間だから」と無意識のうちに確信するようになり、その結果、無意識的に自分をいじめるようになるのです。また妄想を抱くようになります。皆が自分のことを噂しているように感じます。「あいつはおかしな奴だ。早くいなくなればいいのに」と、現実には誰もそんな話などしていないのに、そういう妄想を抱き、周りに対して心をふさいでいきます。ところが実は、これはすべて、本人が自分に向かって無意識的に語っていることなのです。


 では、なぜそんなことをするのでしょう。それは、長い間いじめられ、助けられずに、無視されたために、「私はOKではないんだ」という基本姿勢が身についてしまったからです。そのため自分自身もその「OKではない自分」を責め、いじめるようになったのです。


 もちろん、ほとんどの人はここまではいきませんが、たとえ普通に生活をしているように見えても、ちょっとした人の言葉に傷つきやすい人や、重要な仕事で必要以上に緊張して失敗を繰り返す人などは、この基本姿勢を持っている可能性があります。


④ 私もあなたもOKではない(自己否定、他者否定)


 この心の基本姿勢は、この世の中に良いものは一つもないという、人生に対する最も否定的な姿勢です。幼児期に愛されたという記憶が全くない人や、捨てられたり置き去りにされた子供は、この基本姿勢を身につけやすいようです。また、そこまで否定的に扱われなかった子供でも、成長段階で否定的な働きかけを強く受けると、②か③の姿勢からこの姿勢に進んでしまうこともあるようです。


 この姿勢を持っている人は、まず人を信じることができません。また人が好意で言った言葉でさえも、悪く解釈してしまいます。そうして誰とも親しくならずに、自分の方から原因を作って友達を失ってしまうのです。


 また、このタイプの基本姿勢の人は自分もOKではないので、自分を愛することができません。ですから、一人でいると寂しくて耐えられないので人と付き合いたくなります。ところが「人はきっと私を傷つける」と信じているので、親しくならないうちに自分のほうから無意識的に関係が壊れるようにしていくのです。


 こうして、この姿勢を持つ限り、一人でもいられないし、人と一緒にもいられない。この苦しさと空しさと寂しさは、とても他人に理解できるものではありません。安易なアドバイスなど何の役にも立ちません。そして、ついに「自分にはこの道しかない」と信じて、命を絶つことも少なくないのです。


結論:


 以上、人生に対する四つの基本姿勢を考えましたが、①を除けば、他の三つはいずれも心が病んでいる状態だとも言えます。しかも、①の姿勢を完全に自分の基本姿勢として持っている人はいないのです。現にこういう事を書いている私自身ももともとは②の基本姿勢を持つ者であり、聖書を通して神の愛を知り、人の尊さを知り、神に助けられながら①の基本姿勢で生きようと努力しているにすぎません。


 つまり、人は誰でも心が病んでいるということです。ただそれが、日常生活に大きな障害になる程度の場合を「神経症」とか「心の病」と呼びますが、それは程度の差であって、広い意味では、罪の支配の中で生まれ、生きてきた人間は、全員、心が病んでいるのです。


 ですから、私たちのそばに「心の病」を持つ人がいるときに、間違っても、「私は正常で、この人は異常だから、この人を助けてあげなければ」と考えるべきではないのです。私たちに出来ることは、その人との出会いを通して、自分の心のゆがみに気付き、自分も同じゆがみを持つ仲間として、互いに交わり、互いに成長していくことです。


 人が心の病から解放されるためには、心の自立が不可欠な要素になります。最初は人の助けが必要ですが、少しずつその助けの手から離れていかなければなりません。どんなに辛くても、その分離の痛みを通らなければ、決して自立することはできないのです。ところが、ここにジレンマがあります。心が病んだ人が良い状態になり、その状態を保つには、どうしても人の助けが必要です。しかし他方、人の助けの中にいる限り、決して直らないのです。人の助けを離れると、状態は逆戻りします。とどまるなら直らず、離れるなら逆戻りする。しかも、いつまでも人の助けに頼って生きることもできません。


 では、一体どうしたらいいのでしょう。自立とは親離れをし、自分が自分の親になることです。しかし本当の自立は、いつまでも変わらない愛で、どんな時にも共にいて下さる神を親として生きることです。そこで私たちは、人生のどこかで、この本当の意味での「親換え」をし、一生涯、頼り続けることのできる神を真の親として生きることが必要なのです。



今日の一言: 本当の自立のために、神を親として生きよう



鶴田牧師



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2019.09.14 04:41 | 鶴田健次牧師より

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