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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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夢の実現


 皆さんは、新年をどのようにお過ごしですか。新しい年を迎えると、新鮮な思いが与えられ、それぞれに新しい夢と目標をもって生きようという気持ちになりますね。どうか皆さんが、その気持ちを大事にされ、ぜひ夢の実現を目指していただきたいと思います。


 夢を持ち続け、そのための新しい習慣を続ければ、その習慣がもたらす結果(夢の実現)を自分のものにすることができます。今の時代は、色んな意味で難しい時代です。しかし、こういう困難な時代にあっても、夢を持ち続けることのできる人はピンチをチャンスに変え、新しい道を切り開いていくことができます。


 夢を実現させるにはいろいろな要素がありますが、ひとつの大事な要素は明確な目標を持つことです。目標のない人生は成り行きまかせの人生で、いつまでも堂々巡りで前進がありません。明確な目標があってこそ目標に向かって前進することができ、前進を続ければ必ず夢を実現できるのです。


 中世の時代の、ある修道院での出来事です。多くの志願者が修道士になりたいと言って修道院に入って来ました。ところが、しばらくすると落伍者が続出して、残ったのは僅か数名だけでした。そこで、以前からいる修道士たちが院長に尋ねました。「院長、多くの人たちが修道士になろうとして入って来ましたが、大部分の人たちが途中で出て行きました。これは一体どうしてでしょう?」 


 すると、彼らを静かに見つめていた院長が言いました。「実はこんな話があります。猟師が猟をするとき、多くの猟犬を連れて猟をします。その中の一匹がウサギを見つけたら、吠えながらそのウサギを追っていきます。すると、ほかの猟犬たちも一斉に吠えながら、その後を追っていくようになります。しかし途中で、大部分の猟犬たちは主人を振り返りながら、その場に立ち止まります。ところが、最初に飛び出していった猟犬は最後までウサギを追いかけて行って、それを捕まえて帰ってきます。 それは一体なぜでしょう? 最初の猟犬には、ウサギという明確な目標があったのです。しかし他の猟犬たちは、最初の猟犬につられて飛び出しただけで、はっきりした目標がなかったのです。多くの人たちが修道院に入って来ますが、確実に一生を修道士として生きるという目標もなく入って来たので、途中で辛いことがあると落伍するのです。しかし、明確な目標を立てて入って来た人は、最後まで努力し、それで立派に耐え抜いて、ついには立派な修道士になれるのです。」


 これはあらゆる夢の実現にも当てはまることではないでしょうか。多くの人がいろいろな夢を持って生きています。しかし、それがもし漠然とした夢で、はっきりした目標でなければ、人は困難に出くわしたときに夢の追求を諦めてしまいます。それに対し、明確な目標があれば、どんな困難に出会っても、その人は目標に向かって前進し続けることができ、やがて夢の実現を果たすことができるのです。


 どうか皆さんが、この新しい年を、夢の実現を目指して生きていかれますように。


今日の一言: 明確な目標をもって生きよう



鶴田健次



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2020.01.17 03:16 | 鶴田健次牧師より

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‘絶対幸福’



 今日は、‘絶対幸福’ということについて考えてみました。


 幸福といっても相対的幸福の定義は十人十色、百人の人がいれば百の幸福の定義があるかも知れません。通常、私たちが思う幸福とは、「苦しみがなく、人や物事が自分の願い通りに動き、自分にとって都合のいい状態、喜ばしい状態」を指すのではないでしょうか。確かに、嫌な事がなく、経済的に恵まれ、健康で、地位と名誉、美貌や権力などに恵まれれば、人生は楽しいでしょう。だから人は、誰でも本能的にそのような生きる条件をよくして、楽に生きたいと願い、自分を取り巻く条件が満たされることこそ幸福だと思うのです。


 しかし、そのような幸福と思える状態は長続きせず、そういう状態を必死で求めれば求めるほど、辛いことも増してくるのが人生です。他人の目にはどう映ろうが、この世に生きているかぎり、苦しみを経験しない人はありません。条件がすべて整っているように見える人であっても、心の虚しさを覚えていることがよくあるもので、幸福とは苦しみから切り離しては成り立たないようです。つまり幸福とは、人生に組み込まれている苦しみをどう受けとめ、どう向き合っていくかという姿勢と大いに関係がありそうです。


 また私たちは、幸福は今、手の内にあるのではなく、いつか希望や条件が満たされたときに実現するものだと考えがちです。そして胸のわくわくする喜びこそ幸せであると思います。しかし、人生には曇りも雨も嵐の日もあります。幸せは移ろいやすく、常に高揚した気持ちでいることはできません。そして生きているのは、昨日でも明日でもなく今だけです。


 そんな現実の中で、幸福になる秘訣をメーテルリンクは、こう教えています。

「どんな些細な事柄にも輝かしい瞬間があるということを知ること。最も不幸な者たちでさえ、あるいは最も貧しい者たちでさえ、現実の彼らがどうあろうと、魂の奥底には無尽蔵の美の宝を持っている。大切なのは、ただそこから美を取り出そうと常に心がけることだ」


 また、新約聖書の多くの書簡を書いた使徒パウロは、こう言っています。

「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」


 こうしたことを手掛かりに、‘絶対幸福’というものを得る秘訣を身につけましょう。



今日の一言: 絶対幸福を手に入れよう



鶴田健次 


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2020.01.11 03:10 | 鶴田健次牧師より

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チャンスとは手繰り寄せるもの

 

 先日、瞑想の中で、「チャンスって何だろう?」ということを暫く考えていると聖書のこの言葉が頭に浮かんできました。

 

 「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」(2コリント418

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 なぜこの言葉が思い浮かんだのか判りませんが、おそらくチャンスだと思えた事が必ずしも好転に結びつかず、逆に問題だと思えていた事が大きなチャンスに変わるということが人生にはあるものだ、というようなことを考えていたからでしょうか。

 

 私たち人間は、どうしても目に見えるものに大きく左右されがちです。しかし経験的にも分かることは、見えるものは一時的な場合がしばしばで、結局のところ、多くの事柄が普遍的な原理に基づいて展開されていくということです。ですから私たちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ必要があるのです。

 

 一万回以上の実験に失敗しながら白熱電球の実用化を成し遂げたトーマス・エジソンは、失敗を失敗とは考えず、「一回一回の失敗は、単に上手くいかない方法を確認し消去しているに過ぎず、失敗を重ねるごとに一歩ずつ成功へ近づいているのだ」と考えました。つまり、見える失敗にではなく、見えないもの(Vision)に目を注いでいたということです。「問題は何かを示す指針であり、やめろという標識ではない」と誰かが言いましたが、あらゆる問題には、別の面でのチャンスがあるということです。         

                                        

 カルフォルニア州のパシフィック大学には、正門から入るとすぐに、空に向かってそびえ建つ新ゴシック風の建造物があり、ここを訪れる来訪者たちは誰でも高さが50メートルもあるこの塔に目を奪われてしまいます。ところが、ほとんどの人は、これが給水塔であることに気づきません。

 

 さて、この美しい給水塔が建設されるに至ったこのような逸話があります。あるとき、大学内で水不足が深刻になり、何か対策が必要になりました。技師たちは、議論を続けた結果、正門を入ったところに高い給水塔を建てる以外に方法はないとの結論に達しました。しかし学長には、その案は受け入れがたいことでした。なぜなら、巨大で醜い鉄の給水塔は、キャンパスの美しい景観を壊してしまうからです。

 

 そこで、議論が重ねられた結果、この不格好な建物を荘厳な建物にする案が出されました。それは全体をコンクリ-トの建物とし、その上の給水塔の部分はステンドグラスで囲み、下の部分は9階に分け、役員室、会議室、放送室などに使うというものでした。こうして、この大学の職員たちは窓から素晴らしい眺めを楽しみながら仕事をしています。数多くある大学の中でも、このような素晴らしい建物で大学に来る人を歓迎しているところはまれです。

 

 この話は、たとえどんな問題が生じても、その問題解決には多くの創造的な可能性が秘められていることを示しています。見える問題に心を奪われ、考えを縛られるのではなく、見えない可能性に目を向け続けるなら、思いもよらない可能性の門が開けてくるものです。チャンスとは、見えないものに目を注ぐ心が手繰り寄せるものだと言えるかも知れません。

 

 

今日の一言: チャンスとは手繰り寄せるもの

 

 

鶴田健次    

 

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2020.01.04 10:58 | 鶴田健次牧師より

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今日は、‘贖罪の原理’ついて考えてみました。

 

贖罪とは、元来、犯した罪に対して償いをするという意味ですが、キリスト教においては特に重要な意味を持ちます。それは、自分の力では償いをすることができない人間に代わって、神の子キリストの命が犠牲として捧げられ、その代価によって神に対する人間の罪が償われて、両者の間にあった敵対関係に和解がもたらされることを意味します。

 

 もし殺人の罪を犯して終身刑の罰を受けるとしたら、それは一生を棒に振る絶望的なことです。ところが、すべての人間が原罪という罪のために永遠の滅びが定められているという事実は、実は終身刑どころの絶望ではありません。そんな私たち人間が、救い主キリストを信じるだけで罪を赦され、永遠の滅びではなく永遠の命を頂けるとしたら、それはあまりにも分の良い話ではないでしょうか。しかし、この分の良い話がどれだけ有難いものであるかは、そのために払われた犠牲を抜きには語れません。

 

 病院の待合室に二組の家族の姿がありました。片方の家族は二十歳前後の若者たち4、5人とその母親で、その若者たちは革ジャンを着て、髪の毛を染め、どことなく荒々しい雰囲気がありました。部屋の反対側には、品の良い男性が白衣を着て妻と娘と一緒に座っていました。彼らの顔は暗く沈み、深い悲しみの中にあるようでした。そこに一人の女性新聞記者がいて、何やら特ダネになりそうなことをその男性から聞きながらメモを取っていました。

 

 一組目の家族の若者たちは、「ゲシュタポ」と呼ばれるギャングの一味でした。彼らの中には一つの慣わしがあり、新しいメンバーになるには、走る車の中から誰かをピストルで撃って殺し、“男”であることを証明しなければなりません。その「ゲシュタポ」のメンバーである兄弟たちには、リックという心臓病を患っている弟がいて、心臓移植だけが助かる道でした。しかし彼らには、お金もなく、保険もありません。それに心臓の提供者もなく、リックが助かる見込みはどこにもありません。ところが、夕方になって突然、心臓の提供が可能になったということで病院に呼び出されたのです。

 

 もう一方の男性は有名な心臓病の専門医でした。彼は緊急の心臓移植のために病院に呼ばれ、病院に駆け込んで来て初めて、死んだばかりの心臓提供者が自分の息子であることを知ったのです。しかも、これが新聞記者にとって特ダネとしての価値があったのは、心臓を提供する相手がこの男性医師の息子を殺したギャングの弟だったからです。

 

 そこで問題は、この一部始終が分かった今、果たしてこの男性医師が自分の息子の心臓を息子を殺した犯人の弟に提供するかどうかということでした。この医師と彼の家族はクリスチャンで、このいきさつが分かって暫く病院のチャペルで祈っていました。もし彼が息子の心臓をこのギャングに与えるとしても、手術はどうするのかがもう一つの問題でした。一体どこに自分の息子の心臓を息子を殺した犯人の兄弟に与える者がいるでしょうか。また誰が殺された息子の父親にその移植手術を頼めるでしょうか。待合室の緊張はどんどん高まってきました。たとえその医師が息子の心臓をそのギャングに与え、手術をするにしても、彼らには高額の医者代を払うことなど出来ないのです。

 

 待合室の緊張が頂点に達した時、その男性医師はリックの母親を自分の方に呼び、こう言いました。「私が手術をしましょう。息子の心臓をあなたの息子さんに提供します。医者代は要りません。なぜなら、神様も私に同じ事をして下さったからです。」

 

 待合室に歓声がわきあがり、彼らは大声で、「リックに新しい心臓が与えられた!しかもタダだ!おい信じられるか!タダだぜ!」と叫びました。その医師は、そこにかがみ込み、体を震わせながら泣きました。警察官は大喜びをしているギャング達に向かって、「確かに君たちにはタダだが、この人にはタダではない」と言いました。彼は、息子の命という大きな代価を払ったのです。そして、その息子の心臓を息子の命を奪った者に与えたのです。


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 神の恵みとは、こういう事です。神の恵みの本当の意味を理解するには、恵みは確かにタダでも、そのために神がどれだけ大きな犠牲を払われたかを知らなければなりません。神は、無情な群集たちに大切な独り子イエス・キリストの命を取らせ、いわば罪も汚れもないキリストの心臓を、キリストを殺した者たちの魂に移植をされたのです。だから、この偉大な医師である神が、この移植を可能にするために、どれ程までの犠牲を払われたのかが解らなければ、神の恵みの大きさと、その有難さを理解することはできないのです。あなたはこの‘贖罪の原理’が解りますか?

 

 

今日の一言: 神はあなたのために大きな犠牲を払われた

 

 

鶴田健次


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2019.12.28 03:48 | 鶴田健次牧師より

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クリスマスの教えは失うこと


 クリスマスとは、御子イエス・キリストの降誕を祝う日です。しかし、なぜキリストの降誕がここまで世界を挙げて祝われるのでしょうか。それはキリストの降誕が、絶望の世界に希望をもたらし、暗黒の世界に光をもたらしたからです。つまり、罪のために永遠の滅びが定められているすべての人に、キリストを信じる信仰によって罪が赦され、永遠の命が与えられる道が開かれたからです。


 しかし、人間にとっては有難すぎるこの救いが与えられるために、神の子キリストはご自身の命を身代わりとして捧げなければなりませんでした。つまり、言い方を替えれば、イエス・キリストはご自分の命を失うためにこの世に来られたということです。


 ですから、クリスマスのメッセージは、失うことがもたらす恵みということです。だからこそイエス様は、愛する私たちが救われるという、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、自ら進んで十字架につかれたのです。


 新約聖書にたくさんの教会が登場しますが、中でもマケドニヤの二つの教会が輝いています。その理由は、その二つの教会が失うことの喜びを知っていたからです。その二つの教会とは、ピリピ、そしてテサロニケの教会です。


 彼らは、迫害と貧しさ、偶像礼拝などに悩まされました。しかし、否定的に思えるそれらの環境は、教会がめげてしまう要因にはならず、逆に教会に力を与えてしまう結果になりました。パウロがコリントの教会に出した手紙にこう書いてあります。


 「さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。」(2コリント8:1-2)


 実に彼らは失うことを恐れるどころか、喜んだのです。それは、キリストにあって、失うことがもたらす計り知れない恵みを知っていたからです。世界にで働く宣教師、伝道者、そして彼らを派遣する教会も、それをよく知っています。


 アライアンス教団にメーベル・フランシスという女性宣教師がおられました。1880年、ニューハンプシャー州の牧師の家庭に生まれました。彼女が幼いとき、毎朝祈る母の言葉が彼女の耳に刻まれました。


 「主よ、どうか極東の島国、日本という国に宣教師を遣わし、その国民を救ってください。」


 ある朝、彼女は母に告げました。「お母さん、私が日本に参ります。」 そして彼女は成長し、宣教師として、日本を選んだのです。彼女は、四国においてキリストの器として、素晴らしい足跡を残しました。


 多くの教会を生み出し、牧師を育て、戦争中も帰国せずに日本に留まり、日本人のために働きました。戦後、孤児達を助けた功績により、日本政府から表彰されました。その際、昭和皇后の前に招かれた彼女は、皇后に向かってこう言われたそうです。「あなたは、救われていますか?」


 彼女は自分の人生を神に捧げ、日本人のために時間と労力を捧げつくしました。彼女の問いは、キリストからのあなたへの問いそのものです。 「あなたは、今、救われていますか?」


 クリスマスの教えをどう位置づければよいでしょうか。 贈り物? 家族愛? 施し? 人間愛でしょうか? 

いや、そうではなく、クリスマスの教えは「失うこと」ではないでしょうか。


 神は人間のために、最も大切な独り子を失ってくださいました。キリストは天にある神の座と栄光を捨てて、この世に降りて下さいました。新約聖書は、失うことこそ愛だと言っています。与え、捧げ、ゆだね、託す。そしてイエス様は弟子達に言われました。


「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マルコ8:34)


 私たちの苦手は、失うことです。人間ならば、誰でもそうだろうと思います。得ることを望みます。受けることを求めます。与えられることに喜びを感じます。そのためには日夜祈ります。しかし、失うために祈ったことはあるでしょうか? 


 考えてみると、いつも得ることを求めていたように思います。「祝福をください。癒してください。覚えてください。恵み給えてください」とばかり祈ってきたような気がします。


 キリストは、私たちのために、すべてを失ってくださいました。人生も命も、私たちのために。それも人間の内側を支配する醜い罪のためにです。


 イエス様がお生まれになった理由は、与えること、失うことを抜きに語ることはできません。十字架に向かって生きられた33年間、人間のためにご自身のすべてを失ってくださいました。クリスマスの真の意味はここにあります。


 すべてを人類に与えつくして、主イエスは生涯を終えられました。家畜小屋に生まれ、飼い葉おけに寝かされ、ひっそりと眠る御子イエスを拝んだ羊飼いたちと博士たちは、どんな印象を持ったことでしょう。


もうじきクリスマスが来ます。失うためにお生まれになったキリストに出会うために、静かな心で、その日を待ちたいと思います。



今日の一言:クリスマスの教えは失うこと



鶴田健次




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2019.12.25 01:17 | 鶴田健次牧師より

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