レビ記23章の黙想
「これは、あなたがたの後の世代が、わたしがエジプトの地からイスラエルの子らを導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを知るためである。」(43)
34節に、「この第七の月の十五日には、七日間にわたる主の仮庵の祭りが始まる」とありますが、仮庵の祭りは、イスラエル人が40年の荒野の生活を思い出し、無事に約束の地に入れたことを仮の住まいに住むことによって覚えるものです。また同時にそれは、私たちは肉体という「仮庵」に住む存在であり、主の恵みなしには生きていけない者であることを覚えるものでもあります。
仮庵の祭りはまた、主イエスがこの世に来られた事を象徴する祭りでもあります。ヨハネ1:14に、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」とありますが、「住まわれた」は「仮庵となられた」という意味です。主イエスが来られたことで神と人との和解がもたらされました。ですから仮庵の祭りは、和解の祭りでもあるのです。
さらにまた、仮庵の祭りは、その年の収穫の完了を祝う祭りで、救いの完成の型でもあります。黙示録21章3節には「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる」とあります。この「神の幕屋」とは仮庵のことです。ゼカリヤ書14:16を見ると、千年王国において全世界の人々が仮庵の祭りを祝うために、エルサレムに上って来るとあります。つまり、「私たちも大患難を経て、約束の御国に入ることができる」ことを暗示しているのです。
今日の一言: あなたの救いの御業はなんと完璧でしょう。
鶴田健次
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『出エジプト記35章の黙想』
「モーセはイスラエルの全会衆を集めて、彼らに言った。『これは、主が行えと命じられたことである。六日間は仕事をする。しかし、七日目は、あなたがたにとって主の聖なる全き安息である。・・・・』」(出エジプト記35:1-2)
モーセは、民に幕屋を造る作業を始めさせますが、その前に安息日に関する規定について語っています。それは、彼らが本当に大切なもの、第一にすべきものを見失わないようにするためでした。それは主を礼拝すること、言い換えれば、主ご自身を求めることです。主のための働きは、主を礼拝する心の上に築き上げられていくべきものなのです。
クリスチャン生活における様々な活動の中心は、主を礼拝することです。どんなに活動に力を入れても、主を礼拝することがその中心に据えられていなければ、すべてが空回りしてしまいます。礼拝こそが信仰生活の中心であり、礼拝によってこそ信仰が強められ、励まされ、燃やされ、クリスチャンとしての歩みを全うできるのです。
また、モーセは5節でイスラエルの全会衆に、主への奉納物を持ってくるように命じ、その心構えを伝えます。それは、「進んで献げる心のある人に、主への奉納物を持って来させなさい」というものでした。義理や義務感からではなく、心から、喜んでささげる者から受け取るようにということです。
これが献金についての原則です。献金について聖書の中で貫かれている原則は、自分にとって尊いものを主に献げると同時に喜んで献げるということです。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです(Ⅱコリント9:7)。
今日の一言: 主よ、私をあなたに喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてお捧げします。
鶴田健次
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マタイ6章34節の黙想
「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(マタイ6:34)
このマタイの福音書6章34節は、イエス・キリストによる有名な教えの一つで、多くの人々にとって心の平安と生き方に関する深い洞察を与えてくれる御言葉です。口語訳聖書では、この節が次のように訳されています。
「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」
それでは、この御言葉の意味、またそれが私たちの日常生活にどのように適用されるか、そしてこの教えがもたらす精神的・心理的な益について考えてみます。
この御言葉は、主イエスが山上の説教の中で弟子たちに語られた一連の教えの一部です。主イエスは、心配や不安や思い煩いが信仰生活においていかに障害となるかを指摘し、信者たちに未来の不確実性に対する過度の懸念から解放されるように勧めます。主イエスのメッセージは、私たちが今という瞬間に集中し、神が備えて下さる日々の必要に感謝することの重要性を強調しています。
この教えの背後にある中心思想は、未来のことを心配することが現在の幸福を損なうことになるという認識です。多くの人々は、未来に起こるかもしれない負の出来事に対して過剰に心配し、その結果、今を生きる喜びを感じることができません。主イエスの言葉は、未来の不確実性を受け入れ、それに対する恐れを手放すことで、より平和で充実した生活が可能になることを教えています。
この御言葉の教えは、ストレスや不安を管理する現代の心理学の原則とも一致しています。心配や不安は、心理的な不調の原因であり、過度な心配はストレスの増加、抑うつ症状、またさまざまな健康問題につながることがあります。主イエスの言葉は、これらの感情に対処するための道筋を提供し、信仰において神を信頼することで心の平和を見出す方法を示してくれます。
マタイ6章34節はまた、感謝することと今という瞬間に集中することを促します。私たちが今持っているもの、今経験している瞬間を受容し、感謝することで、私たちは自然と心の平和を感じ、未来に対する不安を軽くすることができます。またこの教えは、私たちが日々の生活の中で直面する困難や挑戦を乗り越える力を与えてくれます。一日一日を自分が見つめるべき時として受け入れ、その日の問題に焦点を当てることで、私たちはより効果的に今を生き、より積極的に未来に向かうことができます。
さらに、この御言葉は教会という神の家族との関わりにおいても重要な意味を持ちます。他人との関係を大切にし、相互支援の精神を育むことで、私たちは不安を共有し、互いに励まし合うことができます。主イエスの教えは、個人主義が強調されがちな現代社会において、コミュニティの価値と、互いに対する思いやりの重要性を再確認させてくれます。
心配事を手放し、神の恵みに信頼を置くことは、信仰の旅路の中で繰り返し学んでいく重要な教訓です。マタイ6章34節は、神が私たちの日々の必要を知り、守り導いて下さるという信頼に基づいています。神への信頼を深めることで、私たちは不確実な未来への恐れを超え、神が用意して下さった平和と喜びの中で生きることができるのです。
結論として、マタイ6章34節は、心配や不安や思い煩いから解放され、神の恵みの中で今を生きることの価値を教えてくれる貴重な教えです。この教えは、信者だけでなく、日々の生活において平和を求める全ての人々にとって、心の安らぎを見つけ、より意味のある人生を送るための指針となります。この教えを心に留め、日々の生活に適用することで、より充実した人生を送りましょう。
今日の一言: 未来の心配は今日の幸福を損なう。
鶴田健次
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信仰を理由に殺害されたキリスト教徒
キリスト教迫害監視団体「オープンドアーズ」はキリスト教徒に対する迫害状況をまとめた報告書「ワールド・ウォッチ・リスト」を発表しました。それによると、2022年10月から23年9月までの1年間に信仰を理由に殺害されたキリスト教徒は4998人に上るとのことです。
キリスト教徒や教会に対する暴力は世界各地で増加しており、教会やキリスト教施設に対する攻撃は、少なくとも上記の1年間で1万4766件に上り、これは前年の7倍で、このような攻撃は2023年に急増しています。
このような迫害に直面しているキリスト教徒の数は世界で3億6500万人を超え、これは世界のキリスト教徒の7人に1人の割合になります。
米キリスト教メディア「クリスチャンポスト」によれば、キリスト教徒に対する暴力が増加している理由の一つとして、加害者が処罰を恐れずに行動できる状況があるのではないかということです。
ところが悪が教会を迫害することは実際には逆効果で、多くの場合、そのような迫害がむしろキリスト教徒を立ち上がらせ、勇気付け、彼らの信仰を強める結果になっているのです。
迫害国のランキングでは、キリスト教徒が信仰を実践する上で最も困難な国として、北朝鮮が前年に続きワースト1位になりました。北朝鮮は、2022年こそ2位だったものの、それ以外は過去20年以上にわたって、世界最悪の迫害国とされています。北朝鮮では、礼拝のために会うことはほとんど不可能であり、礼拝は極秘のうちに、大きな危険を覚悟で行わなければなりません。
アフリカのサハラ砂漠以南の国々においては、26カ国が高いレベルの迫害状況にあり、そのうちの18カ国では、上記の1年間で少なくとも4606人のキリスト教徒が信仰を理由に殺害されたということです。このうち最も多くの人が犠牲になったのはナイジェリアで、サハラ砂漠以南の国々における死者の9割に相当する4118人が命を奪われたとのことです。
中国は19位でしたが、教会に対する攻撃件数では上位10カ国にランクインしています。中国では1万もの教会が閉鎖され、閉鎖された教会数が圧倒的に多いのは、中国の「家の教会」です。
教会には、祈りによって他教会の兄弟姉妹を支える責任があります。自分たちは忘れられていない、自分たちは一人ではない、祈りによって自分たちを支えてくれる兄弟姉妹が世界中にいると知るだけで、どんなに大きな励ましとなることでしょうか。
ワールド・ウォッチ・リスト(2024年版)に掲載された迫害国上位50カ国
1. 北朝鮮 |
26. バングラデシュ |
今日の一言:主の聖徒たちの死は、主の目に尊い(詩篇116:15)
鶴田健次
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出エジプト35章の黙想』
「これは、主が行えと命じられたことである。六日間は仕事をする。しかし、七日目は、あなたがたにとって主の聖なる全き安息である。」(出エジプト35:1-2)
モーセは、民に幕屋を造る作業を始めさせますが、その前に安息日に関する規定について語っています。それは、彼らが本当に大切なもの、第一にすべきものを見失わないようにするためでした。それは主を礼拝すること、言い換えれば、主ご自身を求めることです。主のための働きは、主を礼拝する心の上に築き上げられていくべきものなのです。
クリスチャン生活における様々な活動の中心は、主を礼拝することです。どんなに活動に力を入れても、主を礼拝することがその中心に据えられていなければ、すべてが空回りしてしまいます。礼拝こそが信仰生活の中心であり、主が最も喜ばれるものです。また礼拝によってこそ信仰が強められ、励まされ、燃やされ、クリスチャンとしての歩みを全うできるのです。
コロサイ人への手紙で、パウロは、安息日は来るべきものの影であって、本体はキリストにあるのだと言いました(コロサイ2:16-17)。この安息は、私たちの救いのために、神がイエス・キリストにあってすべての働きを成し遂げられたことを意味しています。私たちが救われるために必要なことは、イエス・キリストが十字架につけられたことによって完成したのです。したがって、私たちは今、イエス様が行なって下さったところに休むことで安息を得ることができるのです。
モーセは5節でイスラエルの全会衆に、主への奉納物を持ってくるように命じ、その心構えを伝えます。それは、「進んで献げる心のある人に、主への奉納物を持って来させなさい」というものでした。義理や義務感からではなく、心から、喜んでささげる者から受け取るようにということです。
これが献金についての原則です。献金について聖書の中で貫かれている原則は、自分にとって尊いものを主に献げると同時に、喜んで献げるということです。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです(Ⅱコリント9:7)。
今日の一言:主よ、私をあなたに喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてお捧げします。
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