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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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  キリストの公生涯の期間は一般には3年半ほどと言われていますが、実際には断定できる情報はありません。公生涯の期間ですから、公生涯の始まりと終わりが分かれば、簡単に計算できそうな気がしますが、実はそう簡単ではないのです。

  公生涯のスタートはルカの福音書が記しているように、「皇帝テベリオの治世の第十五年」(ルカ3:1)と単純に言いたいところですが、ルカが記しているのはバプテスマのヨハネが活動を開始した年代なので、そこから一体どれ位の期間が過ぎてキリストが洗礼を受けられたのかは記されていません。仮にほとんど数ヶ月もしないうちに洗礼を受けられたとしても、問題が二つ残ります。

  一つは、「皇帝テベリオの治世の第十五年」が西暦では何年のことかという問題です。皇帝テベリオはその前の皇帝アウグストと共同統治の時代がありました。第十五年というのはその共同統治も含めてのことか、それとも単独の統治になってからのことかは不明なのです。

  二つ目の問題は、公生涯の終わりに関して、年代を推測できる確かな情報がないということです。もっとも何もないわけではなく、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督の時代に、ニサンの月の14日が金曜日になるユダヤ教の暦の巡り合わせから、キリストの十字架は紀元27年、30年、33年、36年のいずれかという可能性が挙げられています。

  キリストの公生涯がどれ位であったのかというその不確かさは、ルカの福音書が記している、公生涯の初めがおよそ30歳であったとする記事から出発して考えてみても結果は同じです。キリストの十字架が何歳の時であったのかが記されていないので、結局、公生涯が何年続いたのかは分からないままなのです。
 
  では、一体どんな方法でキリストの公生涯の期間を知ることができるのでしょうか。それは、キリストが公生涯の中で何回過越の祭りを過ごされたかという記述に基づいて公生涯の長さを推測する方法です。ヨハネの福音書によれば、まず2章13節に最初の過越の祭りについての言及があります。そのときキリストはエルサレムに上られました。 二回目の過越の祭りについての言及は6章4節です。五千人の人々に五つのパンと二匹の魚から食べ物を分け与えられた奇蹟をキリストが行なわれたのは、過越の祭りが近づいた頃であったと言われています。そして、三回目の過越の祭りは、十字架につけられたときです。
 
  さて、これだと、過越の祭りから過越の祭りまでの年数は二回分しかありませんから、公生涯の期間は二年と言うことになります。ただ、最初に言及される過越の祭りの前にどれくらいの時間が経過していたのかは分かりませんから、公生涯の期間は長く見積もっても三年未満ということになります。

  ただし、ヨハネの福音書5章1節に出てくる「ユダヤ人の祭り」を過越の祭りと考えると、もう一年増えますから、三年以上、四年未満ということになるわけです。キリストの公生涯が一般に三年半であると言われるのは、この方法で計算したものなのです。

  では、マルコの福音書で同じ方法を使ったらどうなるでしょうか。マルコの福音書には一度しか過越の祭りのことが出てきませんから、どんなに長くても公生涯は一年未満と言うことになってしまいます。というわけで、キリストの公生涯の期間は、ヨハネの福音書の記述をもとに三年ちょっと、学者によってはマルコの福音書の記事だけをもとに約一年というふうにも考えられるわけです。

鶴田牧師


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2016.12.20 03:12 | キリスト教 Q & A
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  これはよく聞かれる質問ですね。なぜ神はサタンがアダムとエバを誘惑するのを許容されたのか。この質問の裏には、神はサタンよりも力ある方なので、サタンの誘惑を阻止することができたはずだ、という思いがあるかも知れません。
 
  しかし、神がサタンの誘惑を許容されたのは、神とサタンのどちらが強いか、という力の問題だったのでしょうか。もし力の問題ならば、神はサタンの誘惑を決して許さず、直ちに退けてしまわれたでしょう。ところが、これは力の問題ではなかったのです。聖書によれば、サタンは二つの倫理的な異議を申し立てました。その一つは、人間の側の倫理的問題に関する異議であり、もう一つは、神の支配や導きの妥当性に関するものでした。

  まず、人間の側の倫理的な問題に関してサタンが提出した異議について見てみます。旧約聖書のヨブ記を見ると、ヨブの信仰を自慢する神に対し、サタンは、「ヨブは理由なしに神を信仰するでしょうか。彼は理由あってそうしているだけです。あなたが彼の財産を増し加え、物質的に富んだ者とされたからです。試しにヨブを貧乏のどん底に突き落としてご覧なさい。彼はきっとあなたを呪うでしょう」と異議を唱えました。そこで神はサタンに、一定の枠内で、ヨブに災いが下ることを許されたのです。
 
  次に、神の支配や導きの妥当性についてサタンが提出した異議について見てみます。サタンは、人間の命や幸福が神の支配と導きに依存していることに対して異議を唱えました。まずサタンは、「それを食べると必ず死ぬ」と神が言われた木の実を食べても「決して死にません」と言うことにより、神を偽り者として、神の命令や助言や導きなど不用であるとしたのです。言い替えれば、人間は神の命令や導きに従わなくてもちゃんと生きることができると異議を唱えたのです。
 
  さらにサタンは、禁断の実を食べるなら、「あなたがたは神のようになる」と誘惑しました。「神のようになる」とは、主権者のようになるという意味です。それは、他に依存せず、自らの意志を貫く主権者のことです。つまりサタンは、「あなたがたは神のようになれるのだ」と言ったことにより、「あなたがたは、神の支配なしでも幸福になれます。私の言う通りにすれば、神の支配など受けずに、独立して自分が神のようになれるのです。そうすれば、自分の思うように、主権者としてふるまうことができますよ」と言おうとしたのです。
 
  サタンはこうして、真の神の支配や導きを拒み、神から独立するように人を誘惑しました。サタンは、神中心ではなく自己中心な生き方こそ幸福への道だとしたのです。神の支配や導きのもとにある必要はない。自分で自分たちの社会を築きなさい。人間自身が神になってこそ幸福になれるのだ、と人間の幸福が神の支配や導きに依存することに異議を唱えたのです。
 
  したがって、これは神とサタンのどちらが強いかという、力の問題ではなかったのです。そしてこの重要な倫理的問題は、全被造物を証人として、その前で決着がつけられる必要があり、神はこのとき、「女のすえ」と呼ばれるキリスト者たちのことを心に留めておられました。
 
  つまり、神は彼らが、神に従うことがたとえ苦難を意味する場合でも、なおも神を愛することを知っておられたのです。また彼らが打算からでなく、神を神であるがゆえに拝し、愛するようになることを知っておられたのです。さらに神は、神なしの世界では、結局は悪と不幸は無くならず、真に平和で幸福な社会とはなり得ないことを全被造物の前に実証できることを知っておられたのです。
 
  こうした理由から、神はサタンの誘惑を許容されましたが、それによって、天と地の最大の問題に決着がつけられ、この事が必ず神の栄光を現わすものとなることを、神は知っておられたのです。
  
鶴田牧師


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2016.11.29 03:33 | キリスト教 Q & A

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使徒パウロは、神の霊感を受けて、エペソ書61112でこのように語っています。

 

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

 

つまり、霊の戦いというのは、神を信じ、神の側に属する者と神に敵対する、天上にいる悪の霊との戦いのことです。

 

私たちクリスチャンは罪が贖われたことで霊的に生きる者とされ、今まで感じなかった霊的な存在、つまり神の臨在と同時に悪魔や悪霊の影響を受けている現実に徐々に目が開かれていくようになります。ですから、私たちが霊的な世界に心を向ける際には特別な注意が必要で、神の武具を身に付けていなければ簡単に悪魔の策略に惑わされてしまい、その事にも気づいてない場合がしばしばなのです。

 

悪魔は私たちの心に、不安な思い、疑いの思い、恐れの思い、高慢な思い、裁く思い、嫉妬の思い、憎悪の思いなどを投影することができます。私たちは自分の頭に思い浮かぶものは、すべて自分の思いだと思い込んでいますが、実は悪魔や悪霊が蒔いた思いである場合もあります。悪魔は私たちの思いの中に囁きかけることができるのです。


悪魔が私たちを誘惑するときは、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りという三つのチャネルを巧妙に使い分けます。たとえば、最初の人アダムは、この三つのチャネルからの誘惑に屈して罪を犯しました。それに対し、第二のアダムであるイエス様は同じように誘惑を受けられたにも関わらず、決して罪を犯すことなく、悪魔に勝利されました。

 

イエス様は、荒野で悪魔からの誘惑を受けられたとき、すべて「聖書に・・・と書いてある」と宣言し、悪魔に対抗されました。ここで注意すべき点は、イエス様が御父から独立した形で、イエス様の意志で自らの行為をなすように悪魔が仕向けたのに対して、イエス様はそれを御言葉によって拒否し、あくまでも御父に対する信仰と従順を選ばれたということです。

 

またイエス様は、聖書の御言葉を説明されたのではなく、御言葉そのものを宣言されました。なぜなら、悪魔が最も恐れるものは御言葉そのものだからです。

 

そのように、悪魔は私たちの御父に対する信頼を揺るがし、私たちが自らの方法で必要を満たし、結果としてすべての功績を自分に帰することを企てるように誘導するのです。もし私たちがそのような誘導に乗るならば、それは御父に対する信仰を放棄したことになり、御父の私たちに対する愛、祝福、憐れみ、励まし、必要の満たしなどを否定することになってしまいます。これによって私たちと神との関係は壊れてしまうのです。


悪魔はこのことを実現するためには手段を選びません。神と人の間の麗しい関係を破壊するためには、悪魔は何でもします。特に、悪魔は私たちの最も弱い部分を狙い撃ちし、私たちの思いの中に彼自身の思いを投影させることで巧妙な誘惑を仕掛けてきます。

 

したがって、私たちの思いこそが戦いの最前線であり、私たちは油断することなく自分の心に浮かぶ思いを監視しなければなりません。一体その思いが誰からのものか、神からか、自分からか、悪魔からか、十分に監視すべきです。そしてすべての思いをキリストの思いに従わせる事が大切です。そのためにキリストの言葉を心に豊かに住まわせる必要があるのです。なぜなら、すべての善悪の確かな判断の基準は御言葉にあるからです。


もし、自分の心にある思いが悪魔からのものである場合、私たちの意志力や知識や心掛けは何の役にも立ちません。イエス様ご自身がなさったように、御言葉をもって悪魔の思いに対抗しなければなりません。悪魔はただ語られる御言葉を恐れるのです。悪魔の誘惑を受けた時には、ただちに適切な御言葉を用いて、「聖書に・・・と書いてある」と大胆に宣言しましょう。そのためには日頃から御言葉を豊かに蓄える必要があります。


基本的に、悪魔からの思い、あるいは自分の肉の思いは、私たちの心の安息や平安の障害となり、もしそれに屈するならば、私たちは聖霊の臨在を失い、私たちの思いは暗くなり、平安を失います。それに対し、神からの思いに自分を従わせていくならば、安息と平安が増し加わり、聖霊の臨在に触れて、私たちの思いは明るくなり、希望が湧いてきます。

 

ですから、自分の心の状態を吟味すれば、自分が誰からの思いに従っているかが判るのです。すでに私たちはキリストにある勝利者です。自分で勝利するのではなく、すでに得ている勝利を信仰をもって宣言することが大切なのです。


LVJCC牧師:鶴田健次


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2016.10.24 11:05 | キリスト教 Q & A

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