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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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  私たちは、地獄の話を、火の池、または終わりのない苦しみの場所として聞きます。 これまでに、実に多くの作家たちがその事について書いています。例えば、ダンテのInfernoなどがそうです。日本と比べ、西洋の文化では、その概念に非常に身近で、映画にも、それを対象にした作品がたくさんあります。地獄の存在は、聖書の中で教えられてる確かなものです。
 
  地獄に関連する言葉として、聖書には、Gehenna(ゲヘナ)、Hades(ハデス)、Sheol(シェオル)という言葉が出てきます。ゲへナとは、アラム語のベン・ ヒノム(ヒノムの谷)からきたギリシャ語で、地獄の同義語として使われ、新約聖書に12回でてきます。また、ハデスは、新約聖書に10回でてきますが、「最後の審判まで死者が留まっている場所」で、そこは天国に通じるアブラハムの懐と、地獄に通じるゲヘナに別れています。
 
それから、シェオルは、一般的に死者が置かれる場所として旧約聖書の中に数多く見られます。ギリシャ語訳の旧約聖書ができたとき、へブル語のシェオルはハデスと訳されました。この二つの言葉は、基本的には同じ意味で、日本語では黄泉と訳されています。
 
  さて、地獄は永遠に意識のある苦しみなのか? この疑問に対する一般的な異論は、愛の神は決して永遠の苦しみの中で人々を罰することはないという考えです。しかし、私たちは神が愛であることに同意しますが、神はまた義であり、永遠です。神は悪を行なう者を罰し、その罰は永遠なのです。
 
  次に、死者は死後において意識があるのか? この疑問に対し、聖書は多くの箇所で、地獄が意識のある世界であることを明らかにしています。たとえば、民数記16:30、33などにおいては、「邪悪な者は生きて陰府に下る」とあります。マタイ8:12などでは、「泣き叫び、歯がみをしながら外の暗闇に追い出される」とあります。また、マタイ13:41-42や50では、「炎の中に投げ込まれた者は意識をもって苦しむ」ことが書かれています。さらに、黙示録14:9-11、21:8などでは、不信仰な者が「苦しみの炎の中に投げ込まれる」とあるので、これは明らかに意識のある世界なのです。
 
  それから、地獄は永遠の炎と罰の場所であると聖書は言います。マタイ3:12には、消えない炎という表現があります。マタイ5:22、29、30、18:8、9では、炎の地獄と言われています。マタイ25:41では、永遠の炎、マタイ25:46では、永遠の刑罰と言われ、黙示録20:15では、火の池と言われています。
 
  そのように、「永遠」という言葉は”aionios”というギリシャ語で、その意味は、これまでも、またこれからも、初めも終わりもないということです。また「刑罰」という言葉は”kolasis”というギリシャ語で、その意味は、厳しい苦しみの伴う罰で罰するということです。
 
  結論として、地獄は本当の場所です。それは単なる無意識の世界ではありません。それは一時的な状態でもありません。それは永遠の苦しみです。おそらく、イエス様が天国に関する話よりももっと多くの地獄に関する話をされたのは、絶対にそこに行かないようにするための警告だったのでしょう。
 
  もし、死ねばその人の存在がなくなるのであれば、なぜ人々に警告などをする必要があるでしょう。しかし、もし地獄が本当に存在し、永遠で、意識のある所なら、その警告は非常に重要な意味を持つのです。
 

LVJCC牧師:鶴田健次

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2017.02.23 03:33 | キリスト教 Q & A
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クリスチャンの中には救いの確信のない方がおられますが、キリストを信じる信仰によって自分が救われたという確信は、豊かな信仰生活をするためには不可欠なものです。
救いの確信は体験できる物であり、現在の救いに確信を持って生きることは、健全な信仰生活を送るうえで、重要な事です。救いの確信は、次の三つの事を通して得ることができます。

1.救いの本質を明確に理解することで

救いの確信を持つために欠くことができないのは、イエス・キリストの十字架上の死を通して神がなされた救いの御業に対する明確な理解です。

救いとは、人間に対する神の御業であり、人間の側の功績に関係なく、神の賜物であり、ただ神の恵みによるものなのです。

ですから、キリストが自分のために死んでくださり、キリストを信じるすべての者に提供される完全な救いが与えられていることを理解するなら、キリストを救い主として信じるという条件を満たすことによって直ちに救いの確信をもつことができるのです。

2.クリスチャンとしての経験によって

キリストが内在されているという事実に基づいて、クリスチャンは自分が信仰に立っているかどうかを自分で判断するよう命じられています。(2コリント13:5)
信仰によって救われた結果としてのキリストにある新しいいのちは、いくつかの点において現れます。
A)  神が私たちの天の父であるという知識はクリスチャンが持つ貴重な体験です。
B)  祈りが新鮮な現実となることは、確信へ導くもう一つの確かな経験である
     (ローマ 8:15-16)。
C)  聖書を理解する新しい能力は、救いに関連するもう一つの重要な経験である
     (ヨハネ16:12-15、1ヨハネ2:27)
D)  罪の深さを新しく認識することは、救われた者の正常な経験である
    (詩篇110-11)。
E)  救われていない人に対する新しい愛が生まれる
     (2コリント5:14-15、ローマ10:1)。
F)  救われた人々との間において新しい愛が経験される(1ヨハネ3:14)。
G)  救いの最高の根拠はクリスチャンの内にキリストの性格が現わされることで
      ある(ガラテヤ5:22-23、ピリピ2:5)。
H)  クリスチャン生活のさまざまな経験が積み重ねられ、キリストへの信仰を通して
      救いの自覚がもたらされる。

3.聖書の約束の確かさを受け入れることで

A)   聖書が真実であり、その救いの悪側芽確かに成就されるという信頼は、
       救いの確信にとって不可欠なことである。
B)   自分自身をキリストへの信仰と、神の約束に任せたことを疑わない。
C)   神の真実を疑わない。

したがって、確信はキリストを信じる者のための神の完全な救いの本質を理解することにかかっています。また、救いの確信は神の約束の確実性と、それらの約束に従い信仰によってキリストに自分を委ねたことの確かさにかかっています。

このように自分を委ねた者は、神の真実により頼むことができます。

神は約束を必ず守られ、決して偽りを言うお方ではないからです。


LVJCC牧師:鶴田健次

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2017.01.20 07:36 | キリスト教 Q & A
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  キリストの公生涯の期間は一般には3年半ほどと言われていますが、実際には断定できる情報はありません。公生涯の期間ですから、公生涯の始まりと終わりが分かれば、簡単に計算できそうな気がしますが、実はそう簡単ではないのです。

  公生涯のスタートはルカの福音書が記しているように、「皇帝テベリオの治世の第十五年」(ルカ3:1)と単純に言いたいところですが、ルカが記しているのはバプテスマのヨハネが活動を開始した年代なので、そこから一体どれ位の期間が過ぎてキリストが洗礼を受けられたのかは記されていません。仮にほとんど数ヶ月もしないうちに洗礼を受けられたとしても、問題が二つ残ります。

  一つは、「皇帝テベリオの治世の第十五年」が西暦では何年のことかという問題です。皇帝テベリオはその前の皇帝アウグストと共同統治の時代がありました。第十五年というのはその共同統治も含めてのことか、それとも単独の統治になってからのことかは不明なのです。

  二つ目の問題は、公生涯の終わりに関して、年代を推測できる確かな情報がないということです。もっとも何もないわけではなく、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督の時代に、ニサンの月の14日が金曜日になるユダヤ教の暦の巡り合わせから、キリストの十字架は紀元27年、30年、33年、36年のいずれかという可能性が挙げられています。

  キリストの公生涯がどれ位であったのかというその不確かさは、ルカの福音書が記している、公生涯の初めがおよそ30歳であったとする記事から出発して考えてみても結果は同じです。キリストの十字架が何歳の時であったのかが記されていないので、結局、公生涯が何年続いたのかは分からないままなのです。
 
  では、一体どんな方法でキリストの公生涯の期間を知ることができるのでしょうか。それは、キリストが公生涯の中で何回過越の祭りを過ごされたかという記述に基づいて公生涯の長さを推測する方法です。ヨハネの福音書によれば、まず2章13節に最初の過越の祭りについての言及があります。そのときキリストはエルサレムに上られました。 二回目の過越の祭りについての言及は6章4節です。五千人の人々に五つのパンと二匹の魚から食べ物を分け与えられた奇蹟をキリストが行なわれたのは、過越の祭りが近づいた頃であったと言われています。そして、三回目の過越の祭りは、十字架につけられたときです。
 
  さて、これだと、過越の祭りから過越の祭りまでの年数は二回分しかありませんから、公生涯の期間は二年と言うことになります。ただ、最初に言及される過越の祭りの前にどれくらいの時間が経過していたのかは分かりませんから、公生涯の期間は長く見積もっても三年未満ということになります。

  ただし、ヨハネの福音書5章1節に出てくる「ユダヤ人の祭り」を過越の祭りと考えると、もう一年増えますから、三年以上、四年未満ということになるわけです。キリストの公生涯が一般に三年半であると言われるのは、この方法で計算したものなのです。

  では、マルコの福音書で同じ方法を使ったらどうなるでしょうか。マルコの福音書には一度しか過越の祭りのことが出てきませんから、どんなに長くても公生涯は一年未満と言うことになってしまいます。というわけで、キリストの公生涯の期間は、ヨハネの福音書の記述をもとに三年ちょっと、学者によってはマルコの福音書の記事だけをもとに約一年というふうにも考えられるわけです。

鶴田牧師


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2016.12.20 03:12 | キリスト教 Q & A

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