FC2ブログ

LVJCC Blog

ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

frmOlive1aaa.jpg

9日目の午前中はオリーブ山を散策しました。この写真は、オリーブ山から神殿の丘と旧市街を見たエルサレムの代表的な景色です。

下の写真はオリーブ山に広がる広大な墓地。エルサレムの東の城壁に面して、想像を絶する数のユダヤ人の墓があります。全て神殿の方向を向いているそうです。ユダヤ教ではメシヤ(救世主)が地上に現れた時、死者が復活すると言われています。メシヤが来られると、今は閉ざされている黄金門が開き、そこから第三神殿が建っている(であろう)城内へ入城する、といいます。新約聖書にも、第Ⅰテサロニケ4:16~17に一部書かれています。
15911a6Mt Olivea 15911a5Mt Olivea

話は変わって2000年前、イエス様がロバの子に乗ってエルサレムに入城する少し前の場面で、イエス様と弟子たちは、オリーブ山まで来た時、冒頭の写真のような光景を見ました。当時は、現在の岩のドームの場所に第二神殿が建っていて、弟子たちは神殿や都を見て喜んだのですが、イエス様はそれを見て「泣いた」と聖書に書いてあります。(ルカ19:41-44)その時のイエス様は、目の前の美しい光景に重ねて、この先起こるであろう壊滅的な惨事と、凄惨な状況をご覧になっていたのでしょう。事実、紀元70年、神殿はローマ軍によって跡形もないほど徹底的に破壊されました。(ルカ19:41~44)
こちら(下)がその時のイエス様の涙を形にした、「主の涙の教会・Dominus Flevit Church」です。
Olive1ba.jpg Olive2a.jpg

主の涙の教会から坂道を下って行く途中で、神殿の丘をバックに集合写真を撮りました。
15911a8Mt Olivea

次は、この坂道を下り、オリーブ山の麓辺りにある「ゲッセマネの園・Gethsemane」に行きました。
ここはイエス様のいつもの祈り場ですが、最後の晩餐の後も、イエス様はここで祈られました。そして、イスカリオテのユダに裏切られ捕らえられた場所です。

ゲッセマネにあるオリーブの木は、イエス様時代からある木が何本もあるそうです。
オリーブの木の特徴は、根元から新しい芽がどんどん出て来て、元木の幹とくっ付いて太くなり、中は空洞になるようです。
ゲッセマネの一角に凄い人ごみができ、1本の太い幹のオリーブの木を見ていました。この木は特別なのでしょうか・・・
15911a20MtOliveGetha.jpg Olive4a.jpg

ゲッセマネの園の片隅に、血の汗を流すほどの苦悩の祈りをされたイエス様の像がひっそりとありました。
Olive3a.jpg 15911a21MtOlive Getha

すぐ隣はカソリックの「万国民教会・Church of All Nations」が建っていて、イエス様が祈られた岩が祭壇の前に大きく四角に囲まれてありました。
15911a22MtOlive 万国民教会a 15911a24MtOlive 万国民教会a
15911a31MtOlivea.jpg15911a25MtOlive 万国民教会a

万国民教会の出口に立つと、ちょうど正面に黄金門が見えます。将来オリーブ山に再臨される主が入城される黄金門。万国民教会の横の庭に集まっている皆さんの後ろにも黄金門が見えます。(黄金門のある東の城壁に沿って墓がありますが、それはユダヤ人の墓ではなくアラブ人の墓です)
15911a30MtOlive 万国民教会a 15911a27MtOlivea.jpg

さて、次はバスで「園の墓・The Garden Tomb」へ移動しました。位置は、北城壁ダマスカス門から北へ400m位の距離です。
園の墓はプロテスタントの英国国教会が管理している、ゴルゴダの丘とイエスの墓があるとされる施設です。古代の石切り場の崖の一部がドクロ(ゴルゴダ)のように見えることから発掘調査をしたところ、聖書との整合性が数多く認められたといいます。
sono4a.jpgsono5ba.jpg

聖書ヨハネの福音書19-14に、「イエスが十字架にかけられた所には、一つの園があり、そこにはまだ誰も葬られたことのない新しい墓があった。」とあります。
更に、聖書で記されている特徴を認めることができるそうです。その特徴は、天然の洞窟ではなく、硬い岩を掘って造られていること。墓の入り口に大きい石を転がして封印できること(同墓は、石を転がすための溝が掘ってあった)。数人の哀悼者が墓の内部に入ることができる事、これらの条件を満たしているとされます。
sono3a.jpg
15911b8GardenTomba.jpg 15911b9GTomba.jpg

園の墓は、古代の石切り場の一部で、ユダヤ人による石打ち刑、またローマ人による磔刑の場所として使われていたそうです。
同園には、約百万リットルを誇る貯水池があり、イエス様時代のオリーブ園、果樹園、ブドウ園などの労働園だった証拠を示しているのだそうです。1924年には、良好な保存状態のぶどう酒を作る酒舟が発掘され、ここがブドウ園であったことを示唆しているということです。下のひょうたん型にぶどうを入れ、足で踏んでぶどう汁を窪みに集めます。
15911b6GardenTomba.jpg 15911b6aGardenTomba.jpg

園の墓はとても美しく手入れが行き届いたところです。花や木々の間に礼拝ができる涼しい場所が各所に設けられ、そこで田辺先生が聖餐式を行ってくださいました。ぶどう酒の器は、オリーブの木で作られた杯でした。
sono24a.jpg sono25a.jpg

イエス様が十字架にかけられた場所と葬られた墓は、ここ「園の墓」と「聖墳墓教会」の2箇所の説がありますが、イエス様以降、2度に渡ってエルサレムの壊滅的崩壊を経験した地は、断定できる確固たる物理的証拠は既に消されています。そして、それを許されたのは主ご自身です。そのように考えるなら、そこから導きだされるものは、実際に起こった場所が大事なのではなく、主自ら進んで十字架にかかり、私たち人類に罪の赦しが与えられたという神の大いなるご愛とご計画にあったことを思います。

さてさて、ランチタイムとなりました。この日のランチは「園の墓」にも近い、「ノートルダムセンター・Notre Dame of Jerusalem Center」のレストランへ行きました。ここはキリスト教徒のために建てられたホテルで、礼拝堂もあります。ですが、キリスト教徒でなくても泊まれます。旧市街は目と鼻の先、新市街もすぐ近く、各地に向かうバスターミナルも近所にあるという便利なロケーションに建っていました。
sonoLunch1a.jpg
sonoLunch3a.jpgsonoLunch2a.jpg


次週8/24の更新は、イスラエル博物館を予定しています。

(Mi)   


下のアイコンのクリックで応援をお願い致します。
✨✨👇✨✨👇✨✨👇✨✨👇✨✨
2016.08.17 11:55 | イスラエル聖地旅行
15911a9Mt Olivea

次に向かったところは「The Temple Institute・神殿研究所」です。旧市街のユダヤ人地区にあります。
神殿研究所は、神殿の丘に聖なる第三神殿を再建することを目的としています。そのための研究や準備をしている団体です。(別名、神殿再建財団)

神殿研究所のディレクターであるラビのハイム・リッチマン氏はこのように語っています。「メシア思想とソロモン第三神殿の再建は、ユダヤ教で最も大事なことです。その再建はモリヤの山でなければなりません。これは神が定めたことであり、預言されたことですから、人間の考えによって変えることはできません。しかし、現在そこには岩のドームがあります。第三神殿再建のために我々は、暴力によって神殿を築こうとは思っていません。ただ、今準備できることをしているのです。」

第二神殿ba

ユダヤ人にとっての「神殿再建」とは、過去の歴史に二度存在したソロモン神殿のことです。
第三神殿(ソロモン神殿)の再建予想図は出来上がっています。それは旧約聖書やタルムードや聖書考古学などの正確な情報を入力し、コンピュータ・グラフィックを使って細部にわたって作り上げました。
また、来るべき日に用いられる祭司の服や神具なども忠実に製作し、すべて出来上がっています。
下の写真はメノラー(燭台)です。純金製で42キロあるそうです。 

      第3神殿9a

神殿に仕える祭司のための「祭司養成所」が設立され、レビ人の子孫約200人の生徒が学びました。そのうち、大祭司となるのは代々アロン家の血筋とされており、生徒の内15人が純粋なアロン家の子孫だということです。訓練は終わり、祭司、大祭司の準備も既に整いました。
また、民数紀19章1-10節にあるように、神殿の落成式に必要な「赤い雌牛」も備えられ、その灰も用意されています。

ラビ、ハイム・リッチマン氏は、「トーラーは、第三神殿建設を人類全体と神との霊的な和解を媒介するものとみなしています。現在、私達は第三神殿の時代に入っています。この時代はイザヤ書の中で、人類史上比類ない時代、神と和解しひとつになる時代です。多くの人が、平和を望んでいます。ならば、神が約束した唯一のチャンスを試してみてはどうでしょうか。預言者ハガイによると、神はこの場所に平和を築くと言いました。神殿が建つ時、それはユダヤ人だけのものではありません。」と語っています。

FrmOliveToDomea.jpg

私達は神殿研究所を出た後、「西壁(嘆きの壁、Western Wall)」に向かいました。

モリヤの山である神殿の丘にBC 950年頃、ソロモン王は神殿を建設しました。BC 586年、エルサレム陥落と共にバビロンのネブカデネザルにより神殿が破壊され、BC 516年にバビロン捕囚から帰還したユダヤ人が第二神殿を再建しました。BC 20年にヘロデ大王が神殿を改修・拡張しました。これも第二神殿と呼ばれています。AD 70年、ローマ軍により神殿は再び破壊され焼き払われました。部分的に残った石垣が現在の西壁・嘆きの壁です。

西壁は、ブロック石の大きさが三段に分かれているのがご覧いただけますでしょうか。下部の大きいブロック石はヘロデ時代のものです。中間部分のブロックは正方形っぽい形が多く、ビザンチン時代の石垣です。上部の小さいブロック石はムスリム時代のものだそうです。地下には更に17段が埋もれています。
  WW.jpg

石壁の間に見える草はヒソプという植物で、花と葉に芳香があり、副食物や薬用にも使用されます。また、茎を束ねて清めの儀式に用いたりもします。
十字架上のイエスに、ローマ兵が酸いぶどう酒を海綿に含ませて口元に差し出した時に用いたのが、束ねたヒソプでした。
15910g5西壁a15910g3西壁b
15910g2西壁a15910g4西壁a

現在の西壁の高さは約19m、全長約60m、男女別に仕切られており、女性の祈祷所の方は狭かったです。
西壁は以前から行きたいと思っていて、実際に西壁と間近で対面した時には、少なからず感動しました。あのヘロデ式の石灰岩エルサレム・ストーンの壁に手を置き頬をつけ目をつぶると、石に吸い込まれるような感覚がとても心地良くて、忘れることができません。主に感謝の祈りをし、イスラエルの祝福とユダヤ人の救い、そして、これから起ころうとしている来るべき日のことなど、心に思い浮かんだあれこれを祈りました。最後に家族の救いを書いた紙片を石の間に挟んで、離れ難い思いで集合場所に戻りました。 

これで8日目の予定が終わりました。バスでホテルに戻り、今日の出来事などをおしゃべりしながら皆で楽しい夕食のひと時を過ごしました。

次週8/17は、オリーブ山と園の墓を予定しています。

(Mi)   


下のアイコンのクリックで応援をお願い致します。
✨✨👇✨✨👇✨✨👇✨✨👇✨✨
2016.08.10 12:04 | イスラエル聖地旅行
15910g9帰途車窓P9106222a

聖墳墓教会を出た後、旧市街の中をアルメニア地区まで歩き、アルメニアのレストランでランチになりました。
15910e10アルメ ニア Luncha 15910e11アルメ ニア Luncha

城壁の中は旧市街と呼ばれ、イスラム教地区、キリスト教地区、ユダヤ人地区、アルメニア人地区の4つの区域に区分されています。
アルメニア人地区は旧市街の南西に位置し、4つの地区の中で一番小さく、エルサレムに3000人以上のアルメニア人が住んでいる中、その内約500人が旧市街のアルメニア人地区で暮らしているそうです。
アルメニア人もキリスト教徒で、国は小さいですが世界で初めてキリスト教を国家宗教とした国で、長い歴史を持つ国なのだそうです。

歩いていると、アルメニア陶器の店がひときわ目を引き、その色使いの美しさと形の可愛らしさから思わず立ち止まってしまいます。なんとなく異国情緒に溢れて、静かで落ち着いた区域のような気がします。
15910e3アルメ区a 15910e6アルメ区a
15910e12アルメ区b

そんなアルメニア地区を歩きながらシオン門まで来ました。
下がシオン門です。たくさんの銃弾痕が見えます。予期せぬ光景で、時を越えて胸に迫って来るものがありました。
この銃弾痕、後に調べたところ、3つの説がありました。1)1948年第1次中東戦争時の激戦痕。 2)1967年第3次中東戦争(6日戦争)の時の激戦地。 3)両方。
いづれにしても痛々しい傷跡を持った門です。ついつい、戦いの様子を思い巡らせてしまいます。
15910e14アルメニア地区a15910e13アルメニア地区a

シオン門は城壁の南側にある門で、そこを出るとシオンの丘になります。ヘロデ時代には、シオンの丘は城壁の中にありましたが、今は城壁の外になっています。
シオンの丘で最初に目に入ったのは、お菓子やナッツを売るきれいなワゴンでした。その路地の先には、何やら大きな建物が見えて来ました。何でしょう。
15910e15アルメニア地区a 15910e16アルメニア地区a (2)

小道を歩いて行くと、だんだん姿を現して来ました。これはマリア永眠教会、というのだそうです。とても素敵な作りの教会です。エルサレムでも有数の大きな教会で、1910年に10年がかりで完成されたということです。
       15910e17アルメニア地区aa

そのマリア永眠教会の左側を歩いて行くと、琴を持ったダビデの像がありました。
その先に、最後の晩餐の部屋、というサインがあり、サインに従い階段を上って行くと、そこは大きくて美しい広間でした。ここが最後の晩餐の部屋ということです。
建物の造りは十字軍様式なので、当時のものではなく、この場所が、最後の晩餐の部屋として伝承されているのでしょう。
15910e18アルメニア地区a 15910e19最後の晩餐の部屋a
15910e20最後の晩餐の部屋a 15910e21最後の晩餐の部屋a

最後の晩餐の時、イエス様は12弟子と一緒に、この場所で過越しの食事の席に着き、ご自身がこれから受ける苦難をお話しになり、ユダの裏切りを宣告し、主の晩餐が始まりました。
種無しパンを裂いて弟子たちに与え、これは私の体です、食べなさい、と仰いました。また、ぶどうの実から作った杯を弟子たちに与え、これは私の契約の血、罪を赦す為に多くの人のために流されるものです、飲みなさい、と言われました。こうして新しい契約に生きることを教えられました。
その後、オリーブ山のゲッセマネに行かれたのです。

また、この場所は復活されたイエス様が現れた場所、そして、聖霊降臨の場所でもあります。

その階下に、ダビデの墓がありました。ダビデの墓がなぜここに・・・と、奇妙に思いました。(1列王2:10) 
それは、シオンの丘を誤って特定したため、という理由が一つと、ダビデ王の伝統的な墓が、使徒2:29に「・・・その墓は今日まで私たちのところにあります」、という箇所が文字通りに受け取られ、十字軍によって現在の場所に移されたことの結果だということでした。

建物を調べた人がいたそうです。1948年イスラエルの独立戦争中に追撃弾で同建物が損傷し、調査と修復にイスラエルの考古学者Jacob Pinkerfeldが送られました。彼は修理の過程で、大理石の床13cm下に12世紀の十字軍の床を見つけ、その下約4.6mではビザンチン時代(5世紀)の幾何学模様のモザイクの床を発見しました。更にモザイクの床下約10cmでは、1世紀の終りのローマの床が出土し、同建物のベースであることが分かったのです。

ダビデの墓は男女別の入り口があり、狭い部屋に大きな棺の半分が見えていました。内部も男女の仕切りで分けられています。ダビデはユダヤ人の誇りですから、ユダヤ人が熱心にお祈りに訪れています。
15910e22ダビデの墓2a 15910e23ダビデの墓a
  15910e23aダビデの墓a
 
さて、次回 8/10の更新は、神殿研究所、西壁を予定しております。

(Mi)


下のアイコンのクリックで応援をお願い致します。
✨✨👇✨✨👇✨✨👇✨✨👇✨✨
2016.08.03 15:19 | イスラエル聖地旅行

当教会は福音的プロテスタント教会です 統一協会(世界基督教統一神霊協会)やエホバの証人(ものみの塔)、モルモン教でお困りの方はご相談ください

当ブログへのリンクや画像・文章等の転載については事前にご連絡ください

新改訳聖書(c)新改訳聖書刊行会

新共同訳聖書(c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation

(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

口語訳聖書(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1954,1955

Copyright (c) 2008-2013 LVJCC Blog All Rights Reserved.