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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

牧師室より#378「二つのものの比較」_convert_20180323220323 

『二つのものの比較』

  

皆さんはミズスマシという昆虫をご存知ですか? 池とか沼の静かな水面を素早く泳ぎ回る黒い豆粒のような昆虫です。このミズスマシの目は人間と同じ二つの目が一対になっていますが、ミズスマシは二対の目を持っているので、合計四つの目があることになります。しかし、なぜミズスマシには目が二対も必要なのでしょうか。


ミズスマシはいつも水面に浮かんでいて、水の上の空間と水の中の空間の境目に住んでいます。ですから、ミズスマシは二対の目をもって、一対の目で水の上の世界を見、もう一対の目で水の中の世界を見るのです。  


同じように、クリスチャンも実は二対の目を持っています。一対は外なる世界を見るため、そしてもう一対は内なる世界を見るための目です。つまり、クリスチャンも、二つの世界に住んでいるのです。  


  1. 「外なる人」と「内なる人」との比較


コリント人への第二の手紙4章16節に、「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」とありますが、聖書によれば、クリスチャンの中には「外なる人」「内なる人」という二人の自分がいるということです。


この「外なる人」とは、年と共に体力も能力も衰えていく生まれながらの自分のことです。それに対して、「内なる人」とは、キリストを信じる信仰によって霊的に新しく生まれ、神の子とされた自分、また永遠の命を約束された自分のことです。


そして、生まれながらの「外なる人」は、時間と共に衰え、死に向かって進んでいきますが、この「内なる人」は、聖霊によって日ごとに新しくされ、清められ、永遠の恵みに向かって、日ごとに成長していくのです。そのために、クリスチャンは日々、聖霊に満たされ、魂の呼吸である祈りと、魂の糧である聖書の学びを忘れてはならないのです。 


  1. 「今の時の軽い患難」と「重い永遠の栄光」との比較


 4章17節で、「今の時の軽い患難」ということと「重い永遠の栄光」という対比がなされていますが、聖書は、私たちが人生において経験する様々な患難は、やがて私たちが神からいただく永遠の栄光に比べれば一時的であり軽いものだと言っています。この言葉は、私たちにとって大きな慰めであり励ましです。


人は誰でも、人生において色んな患難を経験します。人によってその患難や試練の種類は違いますが、どんな試練もその人にとっては大変な問題であり大きな重荷です。しかし、聖書は、私たちが経験する地上での患難は永遠から見れば一時的で、天国における恵みに比べれば取るに足りないものだと言っているのです。


たとえ一生涯、何かの重荷を負い続けなければならない役割を神にいただいたとしても、その苦労とは比較にならないほどの永遠の栄光を、神様はやがてあなたに与えて下さるのです。その事実が解かれば、患難の只中にありながらも、今までとは全く違う天国の視点から現実を解釈することができ、感謝と喜びと希望の中で生きることができるのです。  


  1. 「見えるもの」と「見えないもの」との比較


4章18節に「見えるもの」「見えないもの」という表現があり、「見えるもの」は一時的であり「見えないもの」はいつまでも続くとあります。この「見えるもの」とは、私たちの周りにある五感で感じ取ることのできるものです。しかし、それらは時間と共に過ぎていくものです。


ところが聖書は、「見えるもの」がすべてではなく「見えないもの」があり、その「見えないもの」こそ永遠に続くもので、そこに私たちの心の目を向けなければならないと教えるのです。


この「見えないもの」とは、神の国、永遠の命、神の導き、また神ご自身です。見えないものは見る対象ではなく、信じる対象であり、信じることによって心の目で見えるようになるという実に不思議な信仰の世界です。


この世界が解かると、たとえ私たちの目に見える状況がどんなに困ったように見えるものであっても、神が意図しておられる見えない神の計画をもう一対の目で見ることができるのです。    



今日の一言: 見えないものに目を注ごう



鶴田健次                          


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2018.03.23 22:05 | お知らせ
牧師室より#377「神にできないことはない」_convert_20180316160836 

『神にできないことはない』(マルコ10:17-27)


この世の中に絶対に間違いのない統計が一つだけ存在します。それは人間の死亡率が100%であるという統計です。 皆さんは、この死という100%確実な現実と向き合っても希望がありますか。あるいは、死の病に伏している人に向かって絶対的な希望の言葉を語ることが出来ますか。


もしそれが出来るなら、あなたが同じ立場に立たされた時に、あなたには希望があります。しかし、もしあなたが死を前にしている人に自信を持って希望の言葉を語れないとしたら、あなた自身、その立場に立たされた時、あなたには希望はありません。  


 さて、マルコの福音書10章17-27節 に出てくる人物は、この死に対する備えがない人でした。この人物は金持ちの役人で、何不自由ない生活をしていましたが、人から見た姿とは裏腹に心の中は不安と恐れで一杯でした。


17 節で、「永遠の命を得るためには何をしたらいいでしょう?」と聞いていることから、彼は立 派な行いをすれば天国に行けると思い、一生懸命に善行を積みながら生きていたのです。ところが、一向に天国に行けるという確信がない。そこで、彼はイエス様のところに来て、永遠の命を得る方法を尋ねたのです。


イエス様がこの役人に、あなたの知っている通り神の戒めを守りなさいと言われると、役人は、それはすべて小さい時から守っていますと答えます。そこでイエス様は、「あなたに足りないことが一つある。持ち物をみな売り払い、貧しい人々に施して、わたしに従ってきなさい」と言われたのです。  


役人は、その言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去って行きます。彼には多くの財産があったからです。そこでイエス様は、その一部始終を見ていた弟子たちに、「財産のある者が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」と言われたのです。


弟子たちは、その言葉に驚いて、「それでは、いったい誰が救われることができるのだろう」と言いました。そこでイエス様は、「人には出来ないが、神にはできる。神は何でもできるからである」とおっしゃった。そういうお話です。  


「財産のある者が・・・・・」というイエス様の言葉は不思議な言葉ですね。この言葉に対する反応で、弟子たちが金持ちの役人の出来事をどう受け止めたかが分かります。彼らは、この言葉を聞き、驚いて、「それでは、だれが救われることができるのか」と言いました。


彼らには財産などないのになぜ驚いたのでしょう。それは、弟子たちが、イエス様が言われた「財産のある者」という言葉が、単にお金を持っている金持ちというだけではなく、自分の善行や正しさを人生の豊かさとし、その豊かさに依り頼んでいる者のことであると理解したからです。そして、そういう意味での豊かさを求め、そこに拠り所を置こうとする思いが自分たちの中にもあると彼らは気づいたのです。


実は、これは生まれつき人間の中にある、潜在的な、天国を目指す方法なのです。誰もが、心のどこかで、良い行いによる自分の豊かさによって天国に行けるのではないかという期待を持っています。天国も地獄も信じないという人でも、心のどこかでそう思っているのです。


そういう私たちに対して、イエス様は、「あなたが神の国にはいるよりは、・・・・・・」と言われたのです。つまり、「あなた方は絶対に天国にはいけない」という意味です。では一体、誰が救われるのかということになる。そこで、イエス様は、「人にはできないが、神にはできる」とおっしゃるのです。


人は、自分の努力や良い行いでは永遠の命を得ることなど出来ません。しかし、そんな人間に永遠の命を得させることが、神様にならおできになる。実は、これはイエス・キリストの十字架の福音を指しているのです。


人間ならば、他人のために自分の全財産さえ捨てられないところを、イエス様は、財産どころか、ご自分の命までも捨てられた。この、人にはできない神にしかできない十字架の業によって、らくだが針の穴を通る以上に救われる可能性のなかった私たちが救われる者となったのです。 


今日の一言:神にできないことはない


鶴田健次


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2018.03.16 16:48 | お知らせ

牧師室より#376「神のなさることは時にかなって美しい」_convert_20180310000447 


神のなさることの美しさ



昔から多くの思想家たちが人類の歴史の意味を探し求め てきましたが、多くの学識者たちが神の存在を抜きにしては世界の歴史は語れないと考えています。英語で歴史のことをHistoryと言いますが、Historyという言葉は、Hisとstoryという二つの言葉が合わさってできたと言われます。


Hisという言葉は、文章の途中で Hを大文字にして書くと 英語では「神」を表します。またstoryは「物語」ですから、 History は「神の物語」、あるいは「神がつづられる物語」という意味で、この概念は、「神が歴史の背後におられる」という聖書の教えからきています。 


伝道の書3章1節に、「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」とあります。つまり、この言葉が伝えているメッセージは、神が創られた世界でのすべての出 来事には神が定められた時があり、人間のすべての営みはその定められた「神の時」の中で導かれているのだということで す。   


聖書に記されている、この世の始まりから、この世の終わりに至る人類の歴史の物語は、実に雄大なドラマです。そのドラマは、言ってみれば、地球という大きな舞台で演じられているものですが、それは定められたフィナーレに向かって進んでいます。


そして、そのドラマを神の摂理的な歴史支配という観点から見るときに、はじめて私たちは、地上のすべての出来事には神によって定められた時があること、またその出来事の背後には一貫した神の計画があることを見ることができます。   


神が歴史を支配しておられるという事実は、いろいろな観点からの説明が可能ですが、その一つは聖書預言の成就を通して、つまり聖書の預言が預言通りに的中したということから説明することができます。聖書の中には非常に多くの預言がありますが、その預言の的中率は100%で、その成就の仕方も驚くべきものです。 


たとえば、近年における預言の成就のひとつの例は、イスラエル国家の回復に関する預言です。イスラエル民族は、西暦70年にエルサレムがローマ軍によって破壊されて以来、約1900年もの間、世界各地に離散し、流浪の民として生きていました。しかし 20世紀になって、彼らは次第に祖国に帰り始めるようになり、ついに1948年、イスラエル共和国の独立を宣言しました。


この出来事は、全世界を驚かせるものでした。1900年ものあいだ国を失い、流浪の民であった民族が、どこに行っても民族としての純粋性を失わずに再び国家を再建するということは、他のどの民族にも絶対に見られない奇跡的なことです。 


もし日本人がアメリカに移住した場合、三世、四世にもなれば、日本語も話せなくなり、日本人としてのアイデンティティーも失い、アメリカ社会に同化し、日本に住みたいという思いすらなくなってしまうでしょう。そうなるのに100年もかからないかも知れません。


ですから、1900年間も、世界各地に離散していたイスラエル民族が、どの国に行っても、神の民としてのアイデンティティーを失わず、ひとつの思いを抱き続けながら、やがて自分たちの国を再建するということは現実にはあり得ない筈のことでした。   


しかし、西暦70年に彼らが離散したことも、現代になって国家を再建したことも、実は、聖書の中にあらかじめ預言されていたことでした。このイスラエルの回復の預言は、今から2600年前に預言者エゼキエルが神の霊感を受けて預言していました


そして、その預言のとおり、イスラエル民族はパレスチナに帰って来ました。今の時代に生きる私たちは、この預言の成就の目撃者であり、神の民イスラエルの歴史がこうして神の計画どおりに展開していく現実をこの目で確認し、人類の歴史が神の支配の中にあることを確信せざるを得ないのです。神のなされることは何と美しく、驚くべきものでしょうか。



今日の一言: 神のなさることは時にかなって美しい



鶴田健次


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2018.03.10 00:05 | お知らせ

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