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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

牧師室より#370「神の国の割り算」_convert_20180127003006 


『神の国の割り算』


神の国には、この世とは違う計算方式があります。たとえば、私たちが経験する「悲しみ」や「喜び」は、神の国の割り算の公式を用いると、「悲しみを二つに割れば半分に減り、喜びを二つに割れば二倍に増える」ということになります。割り算は、何をどのように割るかによって、その結果も変わります。

   

聖書の神は素晴らしい神です。ご自身の御子をさえも惜しまずに私たちの罪のために死に渡された神は、神の国の割り算を用いて、私たちにとって益となるものは増やし、無益なものは減らそうとして下さるのです。


 ①神が分離されたもの


神は、天地創造の時から今日に至るまで、様々なものを分離して来られました。それは神に属するものと属さないものとの分離であり、また神の創造の御業と秩序を示すための分離でした。


まず天地創造の際になされた分離ですが、創世記1章4節は光とやみとの分離です。また6-7節は大空の下の水と上の水との分離です。さらに14節は、昼と夜との分離です。


次に、ノアの時代には、神は洪水を用いて全世界の人々をさばき、彼ら自身の選択を用いて、さばかれる者と救われる者とを分離されました。アブラハムの時代には、アブラハムをカルデヤ人の中から分離し、彼と彼の子孫を神の聖なる民とされました。モーセの時代にも、神は何度も神に属するものと、そうでないものとを分離されました。


それから新約時代に入っても、神は様々な分離をなさいました。信じる者と信じない者との分離。また教会にいる人を、羊と山羊に分け、右と左に分け、賢い娘たちと愚かな娘たちに分け、最後には天国と地獄との分離です。


このように神は、天地創造のとき以来、この世の終わりに至るまで、神に属する者と世に属する者を分離させながら、救いの計画を実現して来られたのです。


 ②分離できないもの


 この世には神が定められた分離の法則があり、あるものは分離できません。たとえば、どんな数字も、どこまでも割ることが出来ますが、ゼロは割ることができません。そのように、あるものは分離できないという基本原則があります。


 まず、分離できない一つのものは、神が結び合わせた夫婦です。神は、結婚の神聖な法則を立て、一夫一妻主義、一心同体思想を明らかにされました。そして、この神聖な夫婦の関係は、霊的な意味では、キリストと教会の関係を表します。ですから、この関係は絶対に分離できないのです。


 次に、分離できないものはキリストの体である教会です。パウロはコリント教会の分派の問題を厳しく戒め、またエペソ書では、教会全体が一致の心を持つよう求めました。

  

 さらに分離できないものは心です。つまり、神様に仕える心と、この世に仕える心を同時に分離して持つことはできません(マタイ6:24)。また疑いの心を持つ祈り、二心を持った祈りは聞かれません(ヤコブ1:5-8)。あるいは、同じ口から賛美と呪いの言葉を言うべきではありません(ヤコブ3:8-12)。


 ③私たちから分離されるべきもの


 この世の数学では、持っているものを与えればなくなりますが、神の国の数学では、持っているものを与えればさらに豊かになります。


 まず私たちが分け与えるべきものは、キリストにある救いの福音です。福音宣教の働きは分け与えなければならないクリスチャンの義務です。福音は分け与えても減らないばかりか、与えれば与えるほど豊かにされます。福音を分け与えなければ、間接的殺人になるとさえ聖書は教えています(エゼキエル3:17-19)。

 

 信仰は与えれば成長します。希望も人に分け与えれば更に大きな希望に膨らみます。私たちの愛を他人に与えれば、私たちの愛は増し加わります。私たちの喜びを分け与えるなら、喜びが増し加わり、私たちの平安を分け与えるなら、平安が増し加わり、受けた恵みを分け与えるなら、神はその恵みをさらに私たちの内に増し加えて下さるのです。



今日の一言:神の国の割り算を生活に取り入れよう


鶴田健次


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2018.01.27 01:05 | お知らせ

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『心を治める者は人生を治める』


私たちのすべての言動・行動は私たちの心に支配されています。ですから、もし私たちが自分の心を治めることができれば、私たちは人生を治めることができるのです。では、どのようにすれば心を治めることができるでしょうか?


 ①御言葉によって心を治める


御言葉を心の中にいつも満たしておけば、悪い思いが心に入って来れません。御言葉をなおざりにするなら、悪の誘惑に惑わされ、心が揺さぶられます。ヘブル4章12節に、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができる」とありますが、御言葉は人の心を鋭く見抜くのです。ですから、御言葉によって心を守らなければなりません。御言葉で心を治めることができれば、人生を治めることができるのです。


かつてのイギリスの首相ウイリアム・グラッドストーンは、「私はこの時代に、世界的な人物95名を知っているが、その中で87名は聖書に従順な人である」と言いました。聖書の御言葉がいかに人の心を治めることができるかという証拠です。


 ②信仰によって心を治める


私たちの五感で心を治めようとすれば、心は揺れ動く海の波のようで、いつも変化が激しくなります。環境を見て心をそこに置くなら、環境は絶えず変化するので心も変化します。朝に変わり、昼に変わり、夜に変わるので、終始一貫した心を持つことができません。ですから、心はいつまでも変わらない信仰によって治めなければなりません。


 神様の御言葉を信じるのです。そうすれば、この世的には何の解決の手掛かりがなくても、心を治めることができます。イエス様は「信じる者には、どんなことでもできる」と言われました。信じれば、その信仰によって心を治め、その心が神様の御手を動かすのです。 


12年間、長血をわずらった女性が心の中でイエス様を信じ、イエス様の恵みを受けようと慕い求めるや否や、イエス様が彼女の家の前を通られ、イエス様の着物にさわり、長血が癒されたのです。彼女が癒されたのは、イエス様に対する信仰が与えられたからです。


私たちは環境が変わることを待つべきではありません。心が変われば環境が変わるのです。心に絶望があれば、どんな環境でも希望はありません。心に悲しみがあれば、どんな環境でも喜びはありません。まず心が変われば環境が変わるのです。信仰でしっかりと立てば環境が変わるのです。 


 ③夢によって心を治める


85歳になったアブラハムの心は揺さぶられ、心が真っ暗でした。なぜなら、まもなく死ぬであろうに、後継ぎの息子がいなかったからです。ところがある夜、神様はアブラハムを外に連れ出し、天を見上げて空にある星を数えなさいと言われました。そして「あなたの子孫はあの星のように多くなる」と仰ったのです。そこでアブラハムは心の中に夢を得たのです。体は85歳です。妻は75歳です。体が若くなったのではありません。夢を持ったのです。


 夢が心を治めると、体は以前と同じ85歳の年老いた体ですが、心が変わり、その夢を求めて生きるようになるのです。夢が心を変えたのです。あなたが十字架を見上げるならば、神様が下さる夢を見るようになります。そうすれば、心が変えられ、体も変えられ、環境も変えられてきます。これは本当に不思議な世界です。 心を治める者は人生を治めるのです。


今日の一言:油断せずに心を守ろう


鶴田健次


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2018.01.19 18:14 | お知らせ

    牧師室より#368「愛は神から出たもの」 

愛は神から出たもの


 明治時代に、二葉亭四迷という有名な作家がいました。翻訳家でもあった彼がツルゲーネフの翻訳の際に「アイ・ラヴ・ユウ」というフレーズの適切な訳が思いつかず、悩みに悩んだすえ、「あなたのためなら、死んでもいい」と訳したという有名なエピソードがあります。


 「あなたのためなら、死んでもいい」 これはまさに、神の愛を表すアガペーの愛に似ています。神の愛は、愛する者のために命をも捨てる愛です。それでは今回は、第一ヨハネ4章7-12節から愛について学びたいと思います。


 ①愛は神から出たもの 


 なぜ、人は愛されることを求めるのでしょう。第一ヨハネ4章7-8節では、それは神が愛だからだと教えています。人間は神に愛されるべき存在として造られました。もし神がいないなら、人間は偶然に存在していることになり、愛される理由も愛する理由もありません。もし神がいないなら、人は偶然に生まれ、死んでいくわけなので、人は愛がなくても生きていける筈です。


 しかし、現実はそうではありません。人は愛されなければ生きていけないのです。人間は愛されなければ、心が傷つき、心が病んできます。人間は愛を求める存在で、そのことがまさに人は神によって造られた存在であることを指し示しています。愛は神から出ているものだからです。


 ②神の愛は惜しみなく与える愛


 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して下さった」とあります。つまり、神を知らず、自分勝手に生きてきた私たちを救うために、私たちの罪の罰を御子イエスに負わせようとして、御子を天から遣わされたのです。ですから、私たちが切に求めている愛、その愛の源は、まさに御子イエス・キリストが私たちのために命を捨てて下さった事実にあるのだというのが聖書の主張なのです。


 『惜しみなく愛は奪う』という評論を書いた有島武郎は、純愛の名のもとに、人妻と心中をしてしまいます。自分たちの愛は純粋なものだと言っても、残された者からすれば、赦しがたい、身勝手で、自己中心な理屈です。


 それに対し、本当の愛、神の愛は、惜しみなく奪って他の人を不幸にする愛ではなく、惜しみなく与えて人を幸せにする愛です。自分が満足するために奪う愛ではなく、相手を満足させるために惜しみなく与える愛、それが神の愛、アガペーの愛です。


 イエス・キリストは、永遠の死刑宣告をされた私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んで下さいました。そして、その事が本当にこの私のためであったということを信じる人の罪を赦し、その人に永遠の命を与えることとされたのです。


 ③神の愛を完成させる責任 


 ヨハネは、もしクリスチャンたちが神からいただく愛をもって互いに愛し合うなら、その愛し合うクリスチャンたちの中に神の愛が完成するのであると言っています。そして、それを完成させるのは私たちクリスチャンの責任であり、それは私たちが互いに愛し合うことによってなされるのだというのです。


 神がおられる所には愛があります。神は信じる私たちの内に宿られ、また神の愛も私たちの中に宿ります。ですから、もし本物の愛がその人の中にあるなら、神もその人の中におられるということです。そして、そういう人々は互いに愛し合い、そこに神の愛が完成するのです。


 時どき、クリスチャンの中にも、「あの人には愛がない」などと言う人がいますが、そのような人が考えている愛は「奪う愛」で「与える愛」ではありません。神の愛は与える愛です。その愛を私たちも頂き、互いに愛し合いながら神の愛を完成させていきたいものです。


今日の一言:本当の愛は与える愛


鶴田健次


 

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2018.01.06 05:40 | お知らせ

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