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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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先週に続きまして、グレッグ兄のメッセージ「平安、高慢、争い①」をお送りします。

ローマ書12:18〜20には、「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」と書かれています。

私たちの中には、赦しは弱さを象徴し、復讐は強さを象徴する美徳と教えられて育った人もいるかもしれません。そのような環境や文化に育った人にとっては、この御言葉の概念は、非常に受け入れがたいものであるでしょう。私もこのような環境で育った一人で、その考えが私の人生の一部となり、長い間この御言葉の意味を受け入れられず苦しみました。

皆さんも経験があるかと思いますが、私も過去に、人に裏切られ、ひどい扱いを受け、濡れ衣を着せられ、責められ、だまされ、嘘をつかれ、うわさをされ、拒絶され、中傷されたことがあります。神様は、私に高慢と赦しを教えるために、私が受けたあらゆる経験を用いてくださいました。私は若い時、どうしても許せない人たちがいて、ずっと憎んで過ごしていました。しかし、イエス様によって日々造りかえられるにつれて、速やかに赦すことを学びました。同時に、自分が利用されたりひどい扱いを受けることがないように、自分を守る必要があることも学びました。これは、私たちにとって非常に重要なことです。私は、思い起こして考えました。「私を傷つけた人を、長い間赦さないことによって、私は何の徳を得たのか?」と。私にとって益は何もなく、それどころか、自分で自分の首を締め、自分の癒しを遅らせ、神の恵みを自分から拒む結果となったのです。では、赦せない人を赦した時、私は、どんな被害を被ったでしょうか? 被害どころか、むしろ私にとって益となり、平安を得ることができるのです。

皆さんは、いかがでしょうか? 過去に起こったことで、人やその出来事を赦さなかったことによって、恵みを受けたり益となった経験があると言える方はいらっしゃいますか?心のうちに、まだ恨みを持ち続けているという人も中にはいるのではないでしょうか?

一度も罪を犯したことのないイエス様を思い出してみましょう。あの十字架上で、ご自身を十字架につけた人々に対して、イエス様は、彼らがまだ自分たちのしていることがどんなに大きな罪であるかに気付く前に、また自分の罪を悔い改める前に、すでに天の御父に、彼らを赦してくださいと、彼らのために頼まれたのです。同じように今日も、罪に染まって生きている私たちを、イエス様はお赦しになられ、愛してくださるが故に、私たちもまた赦すべきなのです。なぜなら、イエス様が私たちのうちに住んでいてくださるからです。

誰かがこのように言っていました。「赦さないことは、自分が毒を飲んで、赦せない人が死ぬことを望んでいるようなものだ。」と。
赦さないことは、自分を傷つけるだけで、イエス様がおっしゃられたように、人々を赦さないとき、自分が赦された存在であることを確信することもできくなるのです。聖書は、「悪魔に機会を与えないようにしなさい。」と教えます。これは、悪魔に機会を与えるか与えないかの選択が、私たちにあることを意味しています。私達が、争いを迎え入れた時、不必要な問題や挫折が一緒に入り込んでくることがあります。

私たちは、特に自分に近い存在と、討論したり、ひどい態度を示したりしがちで、多くの場合、一番近い存在に対して、最も辛くあたってしまう傾向があります。私たちは皆、対立や意見の違いを経験しますが、心に争いが入り込むと、私たちの家族や私たちの個性や、私たちの存在にさえも、悪影響を及ぼし、気付いたときに対処しなければ、私たちの大切な家族を滅ぼす結果となりうるのです。争いによってもたらされるダメージを修復するよりも、平安と家族の一致を保つ方が、断然楽なのです。聖書には、「家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。」と書かれています。たとえ相手が自分に罪を犯したとしても、罪を見逃し、先に赦すことができるようになるには、成熟さが必要です。

悪魔やこの世、また私たちの肉は、「争いに勝つことは、誉れに値する」と私たちに語りかけます。しかし、箴言20章には、「争いを避けることは人の誉れ、愚か者はみな争いを引き起こす。」と書かれています。あなたは、常に自分が正しいことを求めますか?それとも、平和を第一に求めますか?真理のために堅く立つことが必要な時もありますが、時には、たとえ相手が間違っていても、寛容になり、彼らが間違いに気付くよう神に祈ることが必要である時もあるのです。私達が、一致と平和を守る時、私たちの人生や家族に神の恵みがもたらされます。

最後に、もし私たちがまだイエスキリストを救い主として心に迎え入れていないのであれば、永遠に続く真の平安を得るために必要不可欠な要素が欠けているということをお話しします。イエス様は、平和の君であられ、へりくだって自分の罪を認め、救い主が必要であることを知り、主と主がして下さったことを信じるすべての者に惜しみなく平和を与えて下さいます。神との和解無くして、本当の意味で自分で自分を受け入れることはできず、ましてや他人を受け入れることはできないです。

神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになるのです。もしあなたが、あなたの罪のために御子を犠牲にしてまでもあなたを救おうとされた神の救いのご計画を拒み、自分自身を信じ、神の救いなど必要でないと思うならば、聖書は、あなたの罪があなたを滅ぼし、やがて平安のない後悔の場所で目を覚ますことになると教えています。

しかし、もしあなたが、自分自身に頼ることを止め、罪を認め、救われる必要があると受け入れ、イエス様があなたの罪の代価を支払い、救いの御業を完成してくださったと信じるならば、神は、イエス様によって、義の衣をお与えになり、古いものは過ぎ去り、主にある全く新しいアイデンティティーをあなたに与えてくださるのです。あなたは永遠に神に受け入れられ、愛される存在となり、あなたの負債は全て支払われるのです。

もしここにいらっしゃる人の中で、イエス様を主として迎え入れたいと願うならば、神はあなたのその想いをご存知です。なぜなら、神が事前に、あなたが主を信じることができるように、あなたの心に信じたいと願う想いを備えられたからです。もしあなたが信じてイエス様を受け入れるならば、これから祈る祈りを、一緒に祈りましょう。

「天のお父様、あなたは、私に代わって私の罪の代価を支払うために、御子イエスキリストをこの世に送ってくださり、御子イエスキリストの血によって私の罪が赦されただけではなく、義と認められ、永遠のいのちをお与えになり、あなたの子どもとされる特権が与えられたことを私は信じます。イエス様、救いと自由を確信できるように、私の心と想いと人生に、あなたの霊を送ってください。イエス様の御名によって、祈ります。」アーメン

(LVJCC英語部:グレッグ兄)

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2015.10.19 16:23 | 礼拝
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