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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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本日は、10月3日の日英合同礼拝でグレッグ兄が取り次いで下さったメッセージをお送ります。

今日は、「平安、高慢、争い」と題して、争いを無くし平安に満ちた人生と人間関係を送る秘訣についてお話したいと思います。ローマ人への手紙 12:18には、「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」と書かれています。それでは、なぜ争いや分裂は、よく起こるのでしょうか。そもそもこれらはどこから来るのでしょうか。争いや分裂は、様々な原因によって起こりますが、多くの場合、神の創造の目的から私たちが離れた時に起こる、罪の性質に根元があります。

さらにサタンは、私たちの人生に争いをもたらそうと、いつも試みています。私たちは、完全に争いを避けることはできず、常に平和に満ちた出来事ばかりが起こるわけではありませんが、神は、私たちができる限り、自分に関する限り、平和を求めるよう願っておられます。問題や争いに発展する出来事が、自分のコントロールの外で起こる時もありますが、時には、私たちの内から起こる、考え、行動、何もしないこと、信念によってもたらされることもあります。

私たちは、人生のどの領域で、また知らずに行う、どんな行動によって、平安を失い争いへと発展するのかを、探求する努力をすべきです。争いを招く一つの原因は、昔起こった、虐待、辛い経験、失敗や、落胆によって、心の中で隠れた誓いをすることによりす。時には、幼い時に起こった昔の出来事であるため、隠れた誓いが潜在意識に存在し、自分自身でも気づかないことがよくあります。

例えば、両親によって虐待を受けた経験を持った人は、やがて「2度と同じ経験をしないようにしよう。だれからも虐待されないようにしよう」と誓うのです。過去に信頼していた人に裏切られた経験があると、「もうだれも信頼しないようにしよう」と誓います。貧困の中で育った人は、「二度と貧乏にならないようにしよう」と誓い、やがて自己中心に満ち、仕事に明け暮れ、物質主義に支配されるようになります。

わたしたちがこのように考える時、もはやイエス様は私たちの人生すべての主権者ではなくなり、私たちが自分自身に誓った領域内は、自分が主権者となるのです。私たちの人生で、神に委ねることを拒むとき、その部分で自分自身が主となり、それは、一種の偶像礼拝という大きな罪を犯すことになるのです。自分自身に誓った手放せない領域は、私たちが、考え方を変え、赦しを経験して、主が時にかなって全てを良きにしてくださると信じ、神に明け渡すまで、私たちの成長の妨げとなるばかりではなく、未熟のままの状態で私たちを束縛するようになります。

私は、こんな人を知っています。30年前、彼は私が聖書を引用するたびに、決まって不快感を示すことに気がつきました。彼は、聖書を引用する人を批判し、必ず別の方法で問題を定義して、解決へと至らせようとしました。彼は、幼い頃、とても悲観的で律法主義的な家族の一人が、いつも裁きの目で、見下したように、彼に聖書の御言葉を突きつけるという経験をしていました。後になって気がついたのですが、彼は、「もうだれにも二度と聖書の御言葉を突きつけることを許さない」と彼自身で誓っていたのでしょう。

30年の間に何度か彼と会って話をする機会がありましたが、この現象は、決まって起こり、私が聖書を引用すると、彼は憤慨し、わざと間違って引用したり嘲るのでした。この頃は、彼はすでにクリスチャンになって、幾つかの教会にも足を運んでいましたが、彼は、叔母から受けた経験を繰り返すのでした。かなり時間が経って、私は、彼が御言葉によってだれからも正されることを拒みながらも、彼の叔母が彼にしたように、他の人に御言葉を突きつけて、人々を正そうとしているパターンに気がつきました。彼は、彼自身が受け入れることができない、また許せない、まさに彼の叔母のようになっていたのです。また私は、彼が、多くの時間を使って、他の人の問題について語って、批判しているのに、自分自身の問題については、全く責任を持たないことにも気がつきました。

彼のこの領域内では、まだ30年前と全く変わっていないのです。なぜなら、彼はまだ、叔母が御言葉によって彼を裁いたことに対して赦せず、神にこの問題を完全に明け渡していなかったからです。祝福をもたらすだけではなく、彼の癒しに不可欠な聖書そのものが、彼を激怒させる引き金となり、結果として神と彼の間に溝をもたらす結果となっていたのです。私は、彼が、この領域で、神に明け渡し、神の御介入を受け入れ、神がだれよりも彼を愛し、最善を望んでおられることを知れるよう、引き続き彼のために祈っています。

これは一つの例にすぎませんが、私たちの中でも、まだ癒されていない心の傷が、争いの引き金となることがあるのです。神は、時には、周りの人や出来事をきっかけとして利用することをお許しになるのです。私たちが成熟し、癒しを経験し、手放せない領域を神に明け渡す決心をするまで、神は、私たちに気づきを与えるために、私たちを苛立たせるような人々を、私たちの人生に送り続けるかもしれません。

争いが私たちの人生に入り込むもう一つの原因は、私たちの高慢です。高慢は多くの場合、自分自身でも気がつかないことがよくがあります。

あなたは過去に、「自分自身が高慢の罪から解放されるようにどうか祈ってください。」という祈りのリクエストを、誰かから受けられたことがありますか? その他の告白をすることはあっても、自分の高慢について告白することは非常に稀でしょう。高慢は、私たちの中で認めることが一番難しい罪とも言えるかもしれません。しかしながら、他の罪と同じく、高慢であればあるほど、周りの人の高慢に敏感になり、他人の高慢を侮る達人となるのです。

イエス様はこう言いました。「あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。」(ローマ 2:1)私は、長い年月の信仰生活を送る中で、この現象を幾度となく見てきました。私の知っている高慢な人たちは皆、他者の高慢を鋭く見抜いて、裁くことが得意です。また、他人の高慢を指摘する前に、自身の罪を神の前で認め、謙遜である人々に比べ、こういった人たちは、家族の中でも争いと分裂が絶えないことを見てきました。

箴言13章10節には、「高ぶりは、ただ争いを生じ、知恵は勧告を聞く者とともにある。」と書かれています。高慢は、争いをもたらしますが、高慢の反対の謙遜は、聖書全体で教えられる美徳でもあり、私達の求めて願うべき姿です。

私が覚えているマルチンルターの引用をシェアします。「私達が求めるべき敬虔な美徳の中でも、最も習得し難いものは、謙遜であることが分かった。なぜなら、自分が謙遜になれたと思ったその瞬間に、それはもはや高慢に陥った証拠となるからである。」あのマルチンルターが、このように言ったことを思い出すたびに、私は、自分自身の高慢にも気づかされ、謙遜を祈り求めること、謙遜になれるよう祈るリマインダーとして、微笑まずにいられません。言い換えるならば、マルチンルターは、自分がいかに謙遜であるかと誇ったその時に、その謙遜は、自分自身の力によって成し得たという誇りに満ち、イエス様が成してくださったことを誇る代わりに、自分自身の行いの故にもたらされた謙遜そのものを誇るようになり、結果として高慢へと至ると気づいたのです。

しかし私達が、本当の意味で謙遜になるならば、使徒パウロのように、私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っており(ローマ7:18の一部)、ちょうど美味しい葡萄の実が、ただ枝につながっているがゆえであるように、私達の人生にもたらされるあらゆる良い実は、すべて私たちに代わって十字架上で成し遂げてくださったイエス様の御業によるものであることを知るのです。

箴言にはこう書かれています。「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。]箴言16:18

私達が謙遜であるならば、神様が高みへと持ち上げてくださるので、周りからの賞賛、栄誉や報酬を得ようとしたりする必要もなくなるのです。謙遜は、私たちの人生から争いを取り除くだけではなく、私たちを思い煩いからも解放してくれます。

1ペテロへの手紙 5:5〜7には、このように書かれています。

「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」

神を信頼せず、何かを追い求める時、争いが生じます。御言葉の中に、「神があなたがたのことを心配してくださるからです。」と書かれています。私たちを愛しておられ、心配してくださるイエス様が、私たちの平安の源であると気がつく時、私たちの思い煩いをいっさい委ねることができるのです。しかし、神は高ぶる私たちに敵対され、私たちにご用意してくださった恵みを、へりくだるものに与えられます。私たちが高慢に陥った時、その高慢のゆえに、神は私たちを拒まれるのです。

私たちが高ぶる時、神は私たちを放って置かれ、思うがままに自分自身の力に頼ることをお許しになられ、私たちが神を信頼し、神により頼むことを学ぶまで、あえてご介入されません。

私たちの人生で、争いや問題を避けるためには、私たちがどんな人と時間を共にし、親しくするかということも非常に重要です。
箴言22:24、25には、「おこりっぽい者と交わるな。激しやすい者といっしょに行くな。あなたがそのならわしにならって、自分自身がわなにかかるといけないから。」と書かれています。箴言15:18ではこう書かれています。「激しやすい者は争いを引き起こし、怒りをおそくする者はいさかいを静める。」箴言16:28には、「ねじれ者は争いを巻き起こし、陰口をたたく者は親しい友を離れさせる。」

次に、私たちが人を赦さず、復讐しようとする時にも私たちは、平安を失うということをお話しします。
⇒来週に続く

(LVJCC英語部:グレッグ兄)
2015.10.12 18:46 | 礼拝
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