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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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今日は、去る5月3日の礼拝で英語部のグレッグ兄がシェアしてくださったお証を、ブログを通して皆様にお届けします。

私は、母が41歳の時に7人兄弟の末っ子として生まれました。直ぐ上の兄とは6歳の差があり、周りは、私の誕生は思ってもみなかったものだったそうです。私が1歳の時、父の仕事の関係でニューメキシコに引っ越し、ほとんどがメキシコ人という環境の中で育ちました。

私の両親は、大恐慌や第2次世界大戦の時代に育ちました。父はバプテスト派の家族の中で育ちましたが、結婚した後、多くのことに疑問を持ち迷い、信仰を失ってしまいました。母はルーテル派の家族の中で育ち、聖書、祈り、イエス様についての基本的な知識などを教えられて育ちました。母は運転をしませんでしたので、父は車で母と私たちをルーテル教会へ連れて行ってくれましたが、父は礼拝に参加することはありませんでした。 

私は母から、大恐慌の頃の経験をたくさん聞きました。母の幼かった頃は、食べる物や住む所さえ確保することが難しかったそうです。雨の日に学校に行く時にはダンボールを持って、靴の穴をそれで塞ぎながら長い道のりを登校していたと聞かせてくれました。そのような貧困の中でも犯罪はほとんど無く、母が育った大都市ボルチモアでさえも、信頼できる人が多くいたそうです。映画「Cindrella Man」をご覧になられた方がいらっしゃれば、主人公ラッセルクローが大恐慌の只中、家族を養うのもやっとであったボクサーの描いた人生と良く似ていたようです。

その頃は、まだキリスト教が学校や世間から、馬鹿にされたり追いやられたりする前であったことが大きな要因であると思います。ほとんどの生徒がキリスト教を抵抗なく受け入れ、選択の余地なく、学校では、祈り、聖書や道徳を学びました。そして、神を恐れ、親や先生やお年寄りに敬意を示すことが当たり前の時代でした。

私の父は非常に道徳的で厳しくて、規則を重んじる軍人タイプの人でした。私たち兄弟姉妹は父を「パパ」と呼んでいましたが、「Sir(サー)」をつけて呼ばなければなりませんでした。自分にプライドを持ち、常にベストを尽くし、家系を尊重することを教えられて育ちました。親の期待に応えることができた時はほめられ、そうでない時は罰を受けました。私は父が、神様やイエス様について話すのを一度も聞いたことがありませんでした。 私はまだ小さかったので、体罰を受けた記憶は一度だけしかありませんが、反抗的だった2人の兄たちは、よく父から体罰を受けていたのを覚えています。

一番上の兄カールは非常に優秀で、IQが165以上あって、母は私がそんな兄のように成長するよう願っていました。カールは私にとっての憧れでもありました。私たち兄弟は曲がった事をせず正直に、粘り強く、自立心を持ち、人に頼らなくてもすむような人になるようにと言われて育ちました。母はよく、ドイツのロケット科学者で、後にアメリカの宇宙開発に携わったヴェルナー・フォン・ブラウンの伝記を例にとり、彼を模範とするようにと私に話していました。このように親の愛の中にいましたが、兄弟の間で競争心が芽生え始めました。

当時の私はそうは思いませんでしたが、私は3歳頃から読み書きを始め、大人と普通に会話をし、世の中の出来事も理解していました。そんな私を、周りは非常に知能の高い子供だと認めていました。おそらくこれは賢い母から受け継いだのだと思います。7歳の時、父が突然の心臓発作で亡くなり、母は一夜にして、一人で7人の子供たちを育てることになりました。しかし母は生涯、交際や再婚をすることはありませんでした。当時50歳の母は、まだ車の運転をしたことがありませんでした。

学校に通い始めた私はいつもクラスで首席でした。ある時、先生から母に手紙を渡すように言われ、母が開封すると、そこには母の子育てを賞賛し、息子が自分のクラスの一員でいてくれることがどんなに喜びであるかを綴った先生からの感謝の手紙でした。私はしばしば、同年代の友達より、大人や自分よりかなり年上の人に好かれました。

中学の時に大好きな先生に出会いました。その先生は、廊下でたむろっている生徒を怒鳴り散らすような、厳しいアフリカ系アメリカ人の先生で、80点以下の成績では単位が取れないという噂を聞いていました。それは、生徒たちがより高いレベルに達するよう挑戦してほしい、という先生の励ましだったのです。厳しい先生でしたが、とても素晴らしい先生だったので、良い成績をとるのも容易で、私は、年間クラスでたった一人全科目A+の成績を保ちました。

このことが原因で、周りは妬み始めました。私だけがAの成績をもらい、さらに私だけが白人だったことから怒り、人種差別をしたのです。学校が終わると生徒が集団で待ち伏せして、私にケンカを仕掛けるのです。

私はしばしば侮辱され、人種差別的な悪口を言われました。それは、自分が他と違うということだけではなく、私が授業で良い成績をとることで、彼らが悪く見られた、と言うのです。彼らはそんな私をいじめ、ひどい目にあわせるのでした。ある時、一人の生徒が仕掛けた喧嘩だったのですが、私たち両者が退学を命じられました。その晩その喧嘩相手は、私の寝室の窓ガラスを割って行きました。私は彼らに対して何の敵対心もなかったのに、彼らは私をのけ者にし、私はますます友達もいなくなり、孤独になりました。

ちょうどその頃から、父からの愛情を受けてなかったと思い込んでいた2人の兄が反抗期に入り、近所の不良と連み始め、良くないパーティー、ドラッグ、アルコールに手を出すようになり、母を悲しませ、苦しませるようになりました。

直ぐ上の兄は、その頃からオートバイにはまり、車やバイクを組み立てたり、路上レースをしたりしていました。ある時は、警察から追われるサイレンが聞こえることもありました。また彼は、デパートやミュージックストアに強盗に入るようなこともしました。

母は、歳が若かった私を、周りの悪い影響から保護するために必死でした。母はその頃から、私たち兄弟を新しいペンテコステの教会に連れて行くようになりましたが、マリファナにはまって毎晩遊び明かす兄は、日曜日の朝、わざと車のエンジンのワイヤーを外して私たちが教会に行けなくしました。

母はあきらめて、私だけを教会に連れて行くようになりました。この教会で私は、初めて福音を聞き、イエス様を受け入れる聖霊の導きを感じました。その教会の牧師は、第一次世界大戦時のイランで数千人のクリスチャンが殉教死していく中で生き残ったクリスチャンの一人でした。私はその時12歳でした。

しかしその頃の私には、すでに自分なりに人生の計画を持っており、それは、兄たちのように遊びに走り、何をするにも、兄達には絶対負けないようにすることでした。特に私の憧れであった一番上の兄カールには、自分が兄達よりもずっと賢く、多くを達成し、彼らよりも優れていることを見せつけたかったのです。

ちょうどその年に、教会で、夜の特別伝道集会が開催され、12歳の私も出席しました。2人の伝道師によって福音が語られ、その時初めて私の心は聖霊に満たされ、イエス様を受け入れる信仰に導かれましたが、私はそれを拒みました。その場には、同じ年頃の友達も隣に座っており、彼が自分のことをどう思うか心配だったのです。さらにお互い貧困地帯に住んでいたため、すでに迫害を多く受けていましたが、自分が本当の意味で生まれ変わり、クリスチャンになったら、いじめもあざけりも、もっとひどくなるのではないかと心配になったからです。

2人の宣教師は、半ば強制的に私たちを講堂の前まで招き導き、私たちは講堂にひざまずいてイエス様を心に迎え入れるため、彼らの祈りに合わせて声に出して祈りました。祈っている間も私は、聖霊様が自分の心に入ろうとしているのを感じましたが、私はますます心を閉ざし聖霊様を拒みました。

その時私は、誇りに満ちた父を思い浮かべ、自分にこう問いかけました。「父だったら、自分と同じことをするだろうか?」答えは“NO”でした。そして次は、憧れのカールを思い浮かべて同じ問いかけをしました。もちろん答えは“NO”でした。

私は神のご計画ではなく、自分の計画を遂行したかったのです。父や兄たちのように、私も気が強く、イエス様は人々に殺されるような弱い存在であり、キリスト教は自分の力で生きることができない弱い人々がすがる宗教で、敗北者や虚弱者が必要とするものだと思っていました。

こうして私は、イエス様を拒否しました。

>>>次週に続く

(LVJCCブログ制作チーム:Kao)

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2015.05.25 14:47 | 信仰者シリーズ
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