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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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今日は、”本当の謙遜”ということを考えてみました。

謙遜というのは誰もが認める美徳の一つですが、謙遜であることは簡単なことではありません。謙遜そうに見えても、うわべだけで心からのものでないものが意外と多いかも知れません。それもその筈、生まれながらの私たちの資質は罪という自己中心の性質を帯びているからです。

アガサ・クリスティーの作品に「ベツレヘムの星」というクリスマス向けの短編集がありますが、その中にこんなお話があります。



14人の聖人たちが神様に「聖人の位を返上したい」と願い出ます。せっかく難関を突破して得た位を返上して地上に戻りたいと言うのです。 「よし、昇進を認める」と神様の許可が出ます。疑い深いトマスだけは気がついて、「確か、昇進と言われましたねー……?」とつぶやきます。

こうして聖人の冠を返上して地上に降りた一人に、主イエスの一番弟子ペテロがいました。彼は.地上に戻って来ると、小さな露店商を開き、「年金生活をしている人が先だよ」と大声で言いながら、パンと魚を売ります。すると一人のお年寄りが、「宗教とは関係ないんだろうねえー」と怪訝な顔をして尋ねます。ペテロはすかさず、「売り終わったら説教するけれど、無理に残る必要はないよ。ただイエス・キリストがおられるかぎり、人間に希望は絶えることはないよ。それをただ言いたいのさ」と答えます。

こうしてメッセージを伝えるために、ペテロは聖人の位に満足せずに地上に降りて来たというのです。


本当の謙遜とは何かを考えさせられる話ではないでしょうか。ではどうしたら私たちはこのような謙遜さを表わすことができるのでしょうか? その良い方法の一つは、人からの報いを期待しないで神からの報いを期待することです。なぜなら人の判断は正確さを欠き、かつ量と質に欠陥があるからです。

それに比べて神の判断には誤りがなく、量も質も完璧です。あなたのしたことは十分に報われます。そこで、いつもこのように自分自身に言ってみてはいかがでしょう。

「私のしたことを正確に評価できる人間などどこにもいないし、それに対する完全な報いを与えることのできる者もいない。。できるとすれば神様だけだ。だから、私は神様に見ていただくことができていれば十分だ!」

それから、やはり何と言っても主イエス・キリストの謙卑の姿に学ぶことです。天地万物の創造者であられる神が人間の姿を取られた事実の中に見る究極の謙遜、それがこの私のためであったということを心に留めることができれば、いろんな意味で謙遜であることができる気がします。

キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。(ピリピ書2:6-11)

今日の一言: いつも謙遜であることを心掛けよう


平安
鶴田健次


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2014.12.05 13:34 | 鶴田健次牧師より
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