
つい最近、カリフォルニア在住の私の友人との話で面白い話題になりました。彼女の地元の大学生が第二ヶ国語を話す人にアンケートをとっているというので、私の得したことは何か?と聞かれました。
その時は、第二ヶ国語といっても、英語は、仕事場、子供の学校、医者など1日の大半を使用しているので、今では第二ヶ国語と言っても生きるためには必要不可欠なものと、化しています。
ですので、得したことは?と、聞かれても、頭を悩ませました。
私にとって、英語を勉強するきっかけとなったのは何だったのだろうと考えた時に、高校生の時に、英語が全然話せなかった時に体験した人々の心の温かさに触れたことがきっかけだったことを思い出しました。それは、オーストラリアにいた時の私のホストファザーのDavidさんでした。毎晩毎晩、辞書を片手に明日の予定や行く場所を細かく説明してくれようとしました。私は一生懸命聞こうとするのですが、おそらく半分くらい、いや、4分の1もわかっていなかったと思います。
私はその時、彼の温かさに触れ、"言語は大切なコミュニケーションの一つだけど、こんなに話せない私でも受け入れてくれる人がいる。正確に言おうとする日本語でさえも、分かり合えないことがあるんだもん。コミュニケーションはきっと心だ。もっともっと心の通うコミュニケーションをしたい。"と、思いました。
それ以来、英語を勉強し、アメリカに来て、今に至るのですが。。。
今考えると、また違った視点が見えてきます。当時、Davidさんがクリスチャンだったのかわかりませんが、家族以外の方に受け入れられるという経験をしたことが私の人生に大きな転機をもたらしたのだと思います。だって、それまでは外国語を勉強して外国で暮らすという思いは、一切ありませんでしたから。
実際、それがどこの国でもやっていけるという強い自信に繋がり、アメリカでの生活が始まりました。友達や主人に出会い、子供が生まれ、アメリカではごく自然にある教会で聖書に出会いました。
聖書を学んでいくうちに、英語の言い回しの方がしっくりくるなと思うことが多くなりました。アメリカは今現在こそ、クリスチャン人口は少ないと言われ、悲しいニュースが後を経ちませんが、それでもやはりアメリカの文化は聖書に共感するところがたくさんあることに気づきました。もしかしたら、オーストラリアもそうだったのかもしれません。
そう考えると、私はホストファザーのDavidさんにより、受容される経験をしたことにより心が柔らかくされ、後に、アメリカの地に渡り、神様を信じる信仰に導かれる神のご計画だったように思えてなりません。
ズバリ、私の「英語を勉強して得したこと」は、福音を信じることに繋がったことだと思います。
受容されると、素直に嬉しいのは今も同じです。忘れかけていた「英語を勉強したきっかけ」を思い出させて下さり、素敵な気づきをくださった主に感謝いたします。
心に喜びがあれば顔色を良くする。心に憂いがあれば気はふさぐ。(箴言15章13節)
(LVJCCブログ制作チーム:Sao)
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