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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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今日は、”本当の確信”ということを考えてみました。

私たちは日常生活において、”確信”という言葉をよく使います。「勝利を確信する」、「確信をもって言う」、「確信に満ちた態度」、「私には確信がある」、という具合に、何かを固く信じて疑わないときに、私たちは”確信”という言葉を使います。

では、”確信”と言うときに、どこまでの根拠をもって言うかと言えば、そこにはかなりの個人差があるかも知れません。大した裏付けもなく、感情的な勢いで、「確信する」と言う人もいれば、確かな根拠をもってそう言う人もいます。

しかし、人間の確信というものは、たとえそれがどれだけの根拠に基づくものであれ、やはり間違いである可能性はあり得るのです。なぜなら、人間の知識も経験も能力も限界があるからです。

旧約聖書の「伝道の書」に、こんな御言葉があります。

「人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない」(伝道の書3:11)

これは、日常の事柄の中に、神の手の業を確認し、また神が人の心に永遠への思いを置かれているのに、人はその永遠の計画の全貌を見せてはもらえない、ということです。

イタリアの物理学者ガリレオ・ガリレイは、コペルニクスのたてた地動説を実証したことで、宗教裁判にかけられました。彼は、1633年、ローマ教皇庁検邪聖省による裁判で、「汝は、大地が動き世界の中心にないという聖書に反する誤った説を抱き信じた。故に有罪を宣告する」と言い渡され、異端者として終身刑に処されたと云われています。この判決の後で、彼が、「それでも地球は動いている」と語ったという逸話は、余りにも有名です。

しかし、ガリレオは正しかったのです。もちろん聖書も正しかったのです。ただ、人々の聖書解釈が間違っていたのです。おそらく、ガリレオを有罪とした人たちの中には、ガリレオの主張が、神と聖書への冒涜だと、純粋かつ熱心に信じ、確信していた人たちがいたことでしょう。でも、その純粋さや熱心さが、時に大きな誤りを生み出すこともあるのです。

日常生活においても、また信仰生活においても、何かに確信を持つということは大切なことです。特に信仰の”確信”などは、極めて重要なものです。信じるものがあやふやであれば、信仰生活は成り立たないでしょう。

しかし、同時に信仰者は、「人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない」という思いを、心の中に持ち続けることも大切なことです。それがなければ、人は、つい神にでもなったかの如く、自分がすべての真理を握っているかのように、他人をさばいてしまうからです。

”本当の確信”とは、神は私の確信よりもはるかに確かな方であることを認めつつ、何かを固く信じること、そう言うことができるでしょうか。

今日の一言: 本当の確信は、盲目的であってはならない

平安
鶴田健次

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2014.09.12 08:09 | 鶴田健次牧師より
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