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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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今日は、”本当の自由”ということを考えてみました。


自由という言葉は、普段、何気なく使っている言葉で、水や空気のように、私たちにとって無くてはならない大切なものですが、それが無くならない限り、なかなかその有難さが実感されにくいものです。

果たして私たちは、この大切な自由というものを正しく理解し、その自由を本当に自分のものとして受け取り、またそれを生かして用いているでしょうか。もしかしたら、ちょうど水や空気が汚染されていて、そのために返って私たちの害となるように、自由というものが間違って受けとめられることによって、私たちの中に混乱をもたらし、時には大きな問題を生み出しているかも知れません。



さて、コリント書第一の10:23-33に、当時のコリント教会にあった一つの騒動が記されています。当時、コリントの町にはさまざまな異教の神殿があり、毎日、色んな神々のために犠牲の動物が捧げられていました。祭儀が終わると、犠牲に捧げられた動物の肉の中から、まず祭司が自分たちの分を取り、残りは市内の市場で売られていました。

この肉について、コリントの教会には二通りの考え方がありました。一つは、異教の神々に犠牲として捧げられた肉を食べることは偶像礼拝になるので食べるべきではないという考え。もう一つは、そもそも異教の神々などというものは人間が作ったもので実際には存在しないのだから、そういう肉を食べても別に偶像礼拝には当たらないという考えです。

そこで、この両者の間に対立が生じ、パウロも無視できなくなって、この問題についてどう考えるべきかを、この手紙の8章で詳しく書いています。ところが、パウロは、この問題を再び10章で取り上げながら、この問題解決のために、キリスト信仰の本質的な議論を展開します。それは「本当の自由」とはどんなものかということです。

ここでの教えは、人生観を根底からひっくり返すほどの内容を持つものですが、これは知識として理解できても、自分の信仰や生き方に反映されるようになるためには、時間を掛けて、少しずつ全人格的に習得していく課題であると思います。

実際、この問題は、当時の教会の人々にとって難しい問題でした。それが単に食材の問題ならば、食べないようにすれば済むことでしたが、ある人たちは、その肉を神が与えて下さったものだと言って感謝して食べていたのです。まさに26節にあるように、地とそれに満ちているものは、主のものだからです。

ですから、そのように感謝をして食べていいと思っていた人々にとって、それを非難されるということは心外なことで、自由を束縛されているように感じていました。

この問題に関してパウロは、まずその肉を食べることは全く問題がないことを明らかにしていますが、その前に、次のことを前提として教えたのです。それは10章24節にある、「だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい」という原則です。

この原則は、問題がなければやっていいという考えに優先する原則です。そして、その原則を今回の場合に当てはめたものが、もし誰かに「これは偶像にささげた肉です」と言われたら、そう知らせてくれた人の良心のために食べてはいけないということです。



そして、ここが注目したいところですが、パウロは他の人の良心のために自分の行動を制限するということを、ただの思いやりとか配慮とかいうものを越えた、人間の自由の問題として取り上げているのです。

知らせてくれた人の良心のために肉を食べるという自由を制限することは、自由を侵害されるということではないのです。なぜならパウロが言うように、私たちの自由は、他人の良心によって裁かれたり非難されたりするものではないからです。

自由というものは、それ自体、矛盾につながるような部分が含まれています。もし何もかも自由に自分の思い通りにするとしたら、その時、私たちは他人の利益のために、自分の自由を制限する自由を失くしてしまうことになります。自由でありながら、自由でなくなってしまうことが生じるのです。

しかし、もし私たちが自分の自由を制限することができれば、その時、私たちは自分の自由を制限することで、逆に他の人のためになる自由を獲得するのです。

ですから、本当の自由とは、自分の利益よりもさらに高い目標のために、自分の自由を制限する自由を持つことだということです。それができない人は、返って不自由で、窮屈な人生を送ることになるのです。


31節を見ると、こう書かれています。

「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」

聖書は、私たちが生きる最高の目的を、神の栄光を現すため、と教えています。私たちは、私たちが持つ良いものや優れたものをすべて神からいただいているのです。自由も自由意志も神からの賜物です。

そして私たちは、神からいただいた自由という賜物を、神の栄光を現すために用いるのです。それが最も高貴な生き方であり、私たちの心が最も大きな喜びに満たされる生き方なのです。

33節で、パウロは、「私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め」と言っていますが、自分の利益ではなく、他人の利益を求めることが、その人々が救われることにつながるのだということです。そして、そのような自由は、自分の自由を神にささげるという行為なのです。

あなたも、そのような自由を行う者の一人でありたいと思いませんか? 

私たちは自由です。その自由を、神の栄光のために、他人の利益のために用いましょう。

今日の一言: 本当の自由とは、良い目的のために自ら進んで自分の自由を制限する自由を持つことである。


平安
鶴田健次


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2014.08.27 08:35 | 鶴田健次牧師より
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