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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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今日はノートルダム清心学園理事長・渡辺和子先生の講和『ていねいに生きる』をお送りします。

私は命とは『自分がまだ使える時間』のことだと考えています。若い人にはたくさんの時間が残されているでしょうし、お歳を召した方には残された時間は短いと考えるのがあたりまえですが、昨今のような思いがけない災害、事故、事件などがおきますと、必ずしも残された時間が合致するのではないと考えさせられます。明日も明後日も生きる、来年も再来年もあと何十年も生きると考えていらっしゃる方の一日の重みは、あと数ヶ月と告知をお受けになってホスピスでお過ごしになっていらっしゃる方の一日の重みとは同じではありません。

人形師の辻村ジュサブローさんがおっしゃいました。『朝起きるとき、このときが、人生の初めだと考えている。夜眠るときは、このときが、この世の終わりだと考えている。明日があると思えば今日はこれだけでいいやと、心がひるむ。昨日があったと思うと、昨日あれだけやっったから、今日はこれだけでいいと甘えが生じる。ものを創る人間にとって、そのような甘えは許されない。今日一日自分がどう生きるか、ということにすべてがかかっているかのように生きなければならない。』とおっしゃっておりました。たいへん厳しい考え方ですが、毎日をその日しかなかったかのように、ていねいに心をこめて生きるということだと思います。

キリストが聖書の中で『一日の労苦は一日で足りる。明日の事は明日が思い煩えばいい(マタイ6:34)』とおっしゃったのも、その一日を丁寧に生きたことに対して『一日の労苦は一日で足りる』とおっしゃったのかもしれません。明日の保証というものは、誰にもありません。これも聖書の中の例えですが、一人の金持ちがたくさん収穫しました。小さな蔵では入りきらないので、大きな蔵を建てて、その中に財産も作物も全部入れて、自分は飲んで食べて、楽しんで過ごそうと考えていたら、神様が『愚か者よ。お前の命は今夜取り上げられる。お前が蓄えたものは、誰のものになるのか。自分のために宝を貯めるのではなく、神のために貯めなさい(ルカ6:16-21)』とおっしゃっております。ある方がおっしゃっていました。『一生の終わりに残るのもは、我々が集めたものではなくて、我々が与えたものだ』高価なもの、めずらしいものを集めたとしても、死んだときに持っていけません。私たちが死んだときに持っていけるのは、生きている間に人に与えることができた愛、品物、そういうものの報いなのかもしれません。

私たちの平凡な毎日の生活を非凡にすることができるのは、私たちだけです。ある人が人生に向かって、『どうして私の人生はこんなに平凡でつまらなかったのか』とたずねた時に、人生が『あなたの人生を非凡なものにするのも、平凡に終わらせるのもすべてあなたにかかっていたのですよ。』と答えたと言っております。非凡なことというのは、決して有名になることでも、偉大なことを成し遂げることでもなく、一つ一つあたりまえで平凡なことを『し始めでし納め』という新鮮な気持ちで、感動をもって感謝を忘れずに行うことだと思います。

『明日のことまで思い悩むな。明日のことは、明日自らが思い悩む。その日の労苦はその日だけで十分である。
マタイ6:34』


(ブログ制作チーム:Kao)

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2014.07.28 12:41 | 信仰者シリーズ
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