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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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今日は、八福の教えの中の”あわれみ深い人は幸いである”ということを考えてみました。


八福の教えの第五番目は、「あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう」というものです。

聖書では、「憐れみ」という言葉はとても大切な言葉です。私たちの神がどんな神であるかといえば、それは憐れみ深い神だからです。

ルカによる福音書に、神の憐れみを教える主イエスのたとえ話があります。「放蕩息子のたとえ話」です。あの放蕩息子は、飢え死にするしかない状態に置かれて初めて自分の間違いに気付くのです。それまでは自分が考える「正しさ」を主張しましたが、それは間違いで、「お父さんの正しさ」が正しかったことを悟り、お父さんのところに帰って行くのです。「今更どの面下げて帰って来たんだ」と言われても仕方のない者でした。


ところが、この放蕩息子のお父さんは、遠くの方から歩いて来るのがいなくなっていた息子だと分かると、憐れに思い、わき目も振らずに泣きながら息子のもとに走り寄り、両手を広げて息子を迎えるのです。

本当ならば、この息子は父のもとに戻ってくる資格のない者でした。ひどい息子でした。「お父さんが死んでから相続する筈の財産を今欲しい」と言って父親から貰い、それを持って外国に行き、放蕩に身を持ち崩して湯水のようにお金を使い果たし、一文無しになってしまったのです。

悪いことは重なるもので、その直後に、その地域一帯が飢饉に見舞われ、食べる物にも窮するようになった彼は豚の餌でも食べられればと豚飼いの仕事にまで身を落とすのです。そこで、ようやく正気に戻った彼は、もはや息子としてではなく雇人の一人として置いてもらおうと、乞食同然の姿で父のもとに帰って行ったのです。

そんな放蕩息子を、お父さんは、なぜ赦したのでしょう? しかも喜んで迎えたのです。それは憐れみです。それだけです。赦される資格など何もない彼に、もし何か赦されるべき要素があるとしたら、それはただお父さんの憐れみだけです。

神は、何一つ救われる資格のない私たちを、一方的に憐れんで下さいました。今日の聖書の御言葉は、「あわれみ深い人たちは幸いである、彼らはあわれみを受けるであろう」と言っています。ここでは、「憐れみを受けるから、憐れみ深い人は幸いだ」と言われていますが、よく考えてみれば、私たちは憐れみ深くなかったのに、神の憐れみを受けたのです。



実は、放蕩息子のたとえ話の表面には出てきませんが、なぜ放蕩息子が父親に憐れまれ、赦されて迎え入れられたかと言えば、そこにはある重大な事実あるからなのです。その重大な事実のもとに、このたとえ話は成り立つのです。それは、イエス・キリストの十字架です。

この話が、もしイエス様ではなく私が話した「たとえ話」であれば、この話には大した意味はありません。単なる作り話です。しかし主イエスの十字架があることによって、これはちゃんとした根拠のある話になるのです。つまり、主イエスの十字架は、まさに私たちを憐れんで下さった神の心の表れなのです。

私たちは、この神の憐れみによって救われるのです。何の資格もないこの私が神の一方的な憐れみによって救われるのです。この神の憐れみの深さを経験することによって、人は憐れみ深い者に変えられていきます。だから、そういう人は幸いなのです。

今日の一言: あわれみ深い人は幸いである


平安
鶴田健次

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2014.07.25 09:07 | 鶴田健次牧師より
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