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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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今日は日本のホスピスケアの第一人者として活躍しておられる柏木哲夫先生の講和をご紹介いたします。

人は生の延長上に死があると思っていますが、現実には死を背負っているんだななと思います。ホスピスで2500名の方を看取って教えられた事があります。昔は家で死を迎えていました。祖母が74歳で自宅で死を迎えましたが、祖母の姿を見ていて、お婆ちゃん死ぬんだなあと 子供心に実感しました。しかし、今、ほとんどの死が病院の中で起こっているので、多くの人はその死というものを、実際に自分で体験していない 、見ていない状況です。

極端に言えば自分が死を迎える時に、それが初めての死の体験であったり、家族が死を迎える時にそれが初めての体験であったり、要するに勉強しないで実際の場面に遭遇せざるを得ない状況です。そういう時代になっているので、死に対処するのが本当に難しい。心の準備なしに死を迎えるというのはとっても大変なことです。ですから、年に一度ぐらいは自分の死を考えるという事をされることが大切ではないでしょうか。私は誕生日に死を思うという事を奨励しているのですが、 大学、病院、会社で防災訓練日とか、火災訓練日がありますね。一度も発生していない発生率ゼロの火災に対して年に一度準備をするわけですから、死というのは発生率100%ですから、必ずおとずれる死というものを年に一度ぐらいは考え、それに対して準備をするというのはごくごく当然のように思えるので、私は自分の誕生日に死を考えています。
 
遺言を都度書いています。死というものは、この世との別れではあるけれども 同時に新しい世界への出発であると、いう風に思ってますので、我々の仕事はこの世をこちら岸とすれば新しい死後の世界は向こう岸ですね。きちっと向こう岸に渡さないと苦しまれたら困る。ですからちゃんとこちらで専門的なチームを組んで 大きな良い渡し船を用意して、乗っていただいて、こちら岸から向こう岸にお渡しする良い渡し守になれば、人々の役に立って、喜んでもらえるという風に思っています。

私の信仰というか、信じているものとの間にそういう関係はあるかもしれません。大学2年生の時に初めて教会に行きました。現役で大学に入ることにしていましたが、少し成績が伴わなくて、浪人をしまして、浪人の反動で大学1年生の時には麻雀してみたり、ちょっと真面目に勉強しようと思わなくて、1年生の終わりになんかむなしい満たされないという気持ちがしてきたんです。そんなときに熱心なクリスチャンが居て、教会に来ないかという誘いが来て、ある時クリスマス特別集会が有ってふっと行く気になった。宣教師がたどたどしい日本語で、一生懸命にイエス・キリストの誕生の話をしていて、内容は判らなかったが、一生懸命さに感動したのを覚えています。

教会で今まで見たことの無いような笑顔をした人を見かけた。今の自分のむなしさを埋めてくれるような場所かなとふっと感じた。教会に通うようになり、信仰を持つまで5年ぐらいかかりました。科学的な思考であったので、信仰の世界が判らなかった。牧師が奇跡の話をしたと同時に罪の話をした。Sin(罪)は私が中心に有るでしょう、私が中心だと思う事が罪なんですと言われました。罪はいくら努力しても自分で解決する事は出来ない。それはある意味で、罪から解放されるのは奇跡的なことなんだと理解しました。しかし、それは我々の罪を背負って十字架にかかって下さったイエス・キリストを信じることによってのみ、その罪の問題は解決するんだと言われた。その言葉を聞いて、ポコっと開いていた空間が段々埋められていったという感覚が有るんですね。

自己中心性。自分が自己中心的な人間で、自分の努力では解決できない。自分でどうにもできないという気持ちを神が埋めて下さる、というそういう感じがしたんですよ。それで自分では自己中心性とうものはどうにもできないので、これは神様に何とかして頂かないとどうにもならないと思ってそれが洗礼に結びつきました。当時川で全身を浸して洗礼を受けた(11月末みぞれの日)。出来るだけ長く浸かっていたら罪が洗い流される様な気がした。今から考えると奇妙な考えかもしれないが、その時は本当にそう思ったんですよ。

水から上がった時にほかーっとした。生れ変わったと思った。私の人生の中で本当にドラマティックな日でした。1972年リエゾン(橋渡し)精神医学を始めました。医者がほかの分野(内科で透析を受けている人、外科の手術の前の患者、婦人科でお産の後精神的にちょっと不安定になった人とか)で精神的な問題を持っている人を診療する。精神科で外来で待っていて来る患者さんを見るだけでなく、出掛けて行ってみる。それをリエゾン(橋渡し)というんです。

その中で初めてアメリカで末期の患者さんのチームアプローチを体験した。あと1ヶ月の命という患者さんに対して、医師、ナース、ソーシャルワーカー、チャップレン、多くのボランティア、薬剤師、栄養士という人達が集まって患者さんの検討会をする。この患者さんにとって今何が一番大切なのか どういうケアをしなければいけないのかを本当に一生懸命討議している。初めて体験した時に非常に不遜な考えだったんですが、1ヶ月で亡くなる患者さんに何故こんなに熱心にやるのと思った。疑問を言った時に、一人のナースが この人は今までアメリカの為に家族のために一生懸命生きてきた。今あとひと月ぐらいでこの世を去ろうとしている。最後の1ヶ月をその中でどのように過ごして頂くのか、どのようにして苦痛をから解放されて、良き最後を迎えられるかを皆で考えてケアを提供するのはとっても大切な医学看護の分野だと思うと言った。本当に素晴らしい事を提供していました。 
 
アメリカではこのようなケアを独立した病棟でやっていました。(明るくて 広くて 静かで 温かい)5か所位回って如何しても日本にこの様なものをつくりたいと熱い思いを持ちました。病院をつくる(2億円)のに借金ではなく、寄付と献金で賄いたいと言ったのですが、それは甘いと言われました。開き直って 「要とされるならば 天の窓が開く」と言葉にしました。

ホスピスを始めた後、2週間の間に72歳の方を二人見送りました。72歳のすい臓がんの末期患者さん。倉庫会社を一代で築いた人で豪邸が有って、非常にお金持ちの方。地位と名誉と財産がある。その方が入院されてきた。物凄い痛みがある。直りたいという気持ちが強くて、死にたくない。この痛みを何とか無くして治療を受けて直したい。死ぬという事が全然受け入れられないような状態で入院されてきて、一番やって貰いたいことは、痛みをとって欲しいとのことでモルヒネを打って幸い痛みはとれました。しかし、すい臓がんは下り坂になるとどんどん悪くなる。死に対する恐怖感が凄くなって何とか助けてくれと言って。すこしでも不安を和らげることは出来ないか、恐怖感をちょっとでも少なく出来ないか、苦労したんですが不安、恐怖感を解決しないままに、身体的な痛みはとれるのですが、心の痛み、魂の痛みは随分有ったと思うんですが、切ない看取りというんですか、不安、恐怖感を解決できないまま亡くなってしまいました。 

末期というのはその方が付けてる衣が全部はげ落ちて、魂がむき出しになる。そういう時期だと思います。この方は入院してこられたときに、素晴らしい衣を付けていてピシッとしたスーツを着て絹のネクタイをしておられましたが、入院と同時にパジャマに着替えますね。と同時に社会的な衣もはげ落ちる。倉庫会社の社長。名誉と財産。そういう社会的な衣も全部はげ落ちて、魂がむき出しになる。むき出しになった魂に平安が無かった。死の恐怖、不安にさいなまれながら亡くなっていかれました・・・ どう対処していったらいいか判らないままに切ない看取りになってしまった。

それから2週間後に72歳の肺がんの末期の女性。クリスチャンだったんですが、入院してこられたときに呼吸が苦しくて、せいぜい2週間ぐらいかなと思った。私は1週間か2週間で神様の元にいけるかと思いますが、それはそれで嬉しいんですが、何ともこの息切れが苦しい、辛いんです。これさえ取っていただければ嬉しいんですと言われ、モルヒネとステロイドを開始した。2日して随分良くなった。しかし、衰弱はどんどん進んで行って 1週間目ぐらいに回診に行ったときに、明日ぐらいの気がしますと小さな声で言われて、私先に行っていますから先生も後から来て下さいねと言われて「ハイ」と言ったんですが、それから2日ですね。 段々意識が無くなってき始めたが 最後まで意識はしっかりしていた。娘さんに「では、行ってくるね」と言ったんです。 娘さんも「お母さん、行ってらっしゃい」と言ったんですね。隣の部屋に行くような感じだった。

思ったことは、再会の確信が有る(死後の世界での再会)、永遠の命の確信(この世の生命は終焉を迎えても あの世の命は永遠に続く)。はげ落ちて魂がむき出しになった時に、その魂に平安があるかどうか、それが一番最後の勝負の様な気がする。沢山の人を看取ってきて、魂に平安があるかどうかが最後の決め手になる気がする。身体の痛みは近代医学があり旨くコントロールできるようになった。心の痛み、鬱状態、不安等は抗鬱剤等で緩和出来る。
  
しかし魂の痛み ということに関しては其の人が魂に平安を持った英勝をしてきたかどうか、という事に掛ってくる。聖書の学び、祈り 讃美歌とか宗教的なアプローチで、剥きだしになった魂に対して短い時間できゅっと魂に平安を注射することは出来ないので、それまでの生活の中で魂の養いをしておかないと大変だと思います。病気で入院するのは小さな死の体験だと思う。そういう小さな死を体験して準備をして訓練をして、死にのぞむほうが、魂がむき出しになった時にちょっと魂が訓練されているというか そんな感じがします。

どうも死というのは随分先に有るように思うが、入院してこられる家族の話を聞いてみると、人間死を背負って生きているんだと思うんですよ62歳の肝臓がんで亡くなった人。主人は本当に会社人間でずーっと会社の為に働いてきた。ようやっと定年でこれから二人で温泉にでも行こうかと思っていた矢先に癌で倒れた。60歳過ぎに卵巣がんで入院してこられた奥さんのご主人との会話で、家内は3人の子供を本当に育てて呉れて、私は外に出っぱなしだった。去年娘が結婚をして二人きりになれて、温泉にでも行こうと思っていた矢先に癌で倒れた。   

私は勝手に「矢先症候群」という名前を付けた。生の延長線上に死があると思っていたが、実際は死を背負っていたんだと言う事。一枚の紙の表を生に例えるならば、紙の裏に死というものが文字通り裏打ちされている。一枚の紙が風の吹き具合によって、ふっと裏返ったらちゃんと死が裏打ちされていたなと、そういう感じがする。
 
死を避けて通らないで、蓋をしないでしっかり見つめる。死を誰にでも訪れるごく自然な現実としてしっかり見つめる、という事をやっぱり一人一人がしてゆく必要がある。毎日毎日、死を思えというのは酷かもしれないが、年に一度、誕生日に自分の死をしっかり思って下さいというのが 私の最低限のお勧めです。

(LVJCCブログ制作チーム:Kao)

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2014.07.06 19:36 | 信仰者シリーズ
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