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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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今日は、”心の貧しい人は幸いである”ということを考えてみました。

マタイの福音書の5-7章の部分は、「山上の説教」と呼ばれているところですが、イエス様の一回の教えとしては一番長いところで、イエス様もきっと心を注いで、神を信じる者の生き方についてお語りになったのだと思います。

1節を見ると、「この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、・・・・」と書かれています。「山に登り」とは、静かな所で大切な教えを語ろうとされたことを、また、「おすわりになられた」のは、じっくりと教えるためであったことを暗示しているようです。

そして、開口一番に言われた言葉が、この「山上の説教」で最も有名な言葉である「心の貧しい人は幸いである」という言葉でした。

内村鑑三は、この最初の一言に、山上の説教のすべてが凝縮されていると言いました。「心の貧しい人は幸いである」 私は、この言葉を最初に聞いたとき、高校生でしたが、意味も解からないのに、感動的な言葉だなあ、という印象を持ったのを今でも覚えています。

さて、この「山上の説教」の最初の教えである5章1-12節は、あの有名な『八福の教え』と呼ばれるもので、イエス様が教えて下さった8種類の幸いな人について書かれているところです。

今日は、この中の一番目に登場する幸いな人を見てみましょう。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」(マタイ5:3)

この有名な言葉は、いわば「山上の説教」の顔とも言える言葉ですが、簡単な言葉なのに、その意味がよく解からない、というのが多くの人にとっての最初の印象だと思います。一体なぜ、心の貧しい人が幸いなのか?と最初は誰もが思うはずです。詩的な表現としては美しくても、普通に考えれば、むしろ「心の豊かな人のほうが幸いである」という気がします。

しかし、やがてこの言葉の意味が解かり、それが私の心に入り込んで自分のものになったとき、意味も解からずに感動した時と比べ物にならないほどの感動を覚え、涙が溢れそうになりました。

では、どのようにこの言葉の意味が解かったのかというと、それは簡単なことでした。つまりそれは、「この自分自身が、実は、心の貧しい者であった」ということです。

天国への入り口は、心が貧しくなることです。私たちは、神の言葉である聖書に触れ、そこに愛と義と聖の神を見出すことによってはじめて、自分の心の醜さ、問題だらけの貧しい心しかない自分に気づかされます。

預言者イザヤは、王座に座しておられる主を見たとき、「ああ、私はもうだめだ。私はくちびるの汚れた者である」(イザヤ6:5)と言いました。

ダニエルは主にお会いして、「私の尊厳は破壊に向き、力を失った」(ダニエル10:8)と言いました。

ペテロは、「主よ、私から離れて下さい。私は罪深い人間ですから」(ルカ5:8)と言いました。

自分にプライドや高慢があるのは、まだ本当の意味で主を見ていないからです。しかし、主にお会いする時、私たち自身の心の貧しさがあらわにされ、そこで初めてイエス様を救い主として受け入れる心が備えられ、天国を自分のものとすることができるのです。だから心の貧しい自分に気づくことは幸いなことなのです。

今日の一言: 心の貧しい人は幸いである

平安
鶴田健次
2014.06.27 10:23 | 鶴田健次牧師より
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