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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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今日はノートルダム清心学園理事長・渡辺和子先生の講和『人間理解について』をお送りします。

教師の心に生徒への愛と信頼があるかないかによって、生徒は変わると言う事をある高校の事例をひいて話をしたことがありました。その高校は全国から問題のある生徒が集まりますが、立派に学業を終えて、卒業していく事で有名でした。その秘訣の一つとして感銘をうけたのが、その学校では教師たちが生徒を「しか」で評価せず、「なら」で評価をすることでした。「あの生徒は足し算しか出来ない」と言わないで「あの生徒は足し算ならできる」という評価をするのです。それは教師の心にできないことを強調するのではなく、できることを強調する信頼と愛があったからです。言葉の問題だけではなく、教師の心が180度違うのだと思います。その話をしながら私も少し悪のりをしてしまい、「あの子はいたずらしかしない」ではなく「あの子はいたずらならできる」と言ってしまいました。

私がこの「しか」と「なら」の話に感銘をうけたのは、私は修道院に入るまで七年ほど仕事をしており、修道院に入ってからも大きな修道院にいる期間が長く料理が(覚える間もなく)不得意でした。小さな修道院に配属されて、一人一人が料理当番を受け持たなければならなくなった時、大変困りました。できる料理と言えば目玉焼きくらいで、一人のシスターから「シスター渡辺は目玉焼きしか作れない」と言われたことに傷つきました。ところが他のシスターが「目玉焼きなら作れるわよね」と言って下さって、救われた思いをしたことがあったので、この高校の事例が私の心に響いたのだと思います。この教育講習会が終わって数日後、ある母親から手紙を頂きました。「私はシスターの講演を共感して聞いておりましたが、「しか」と「なら」のお話をなさり、「いたずらならできる」とお話を締めくくられた時から、お話は耳に入らなくなりました。なぜなら私には重度の障害を持つ子供がおり、その子は「いたずらさえ出来ない」のです」そんなお手紙を頂きビックリしました。思いもよらない手紙だったのです。と同時にお詫びの手紙を出し、知らず知らずの自分の言葉で傷つけていることがあるのだとしっかり心に刻みました。

言葉は確かに人間にのみに与えられた貴重なコミュニケーションの手段です。黙っていてはわかりません。「話せばわかる」とよく言いますが、話したゆえに誤解を生んだ、黙っていればよかったのに、と思うことも多々あります。同じ言葉を使っても誤解が生じる事を私は経験しました。あるとき講義の中で、一人の若いお医者様の話をしました。「自分は病気を診る医者にはなりたくない。病人を診る医者になりたい。」とおっしゃった事に心を打たれたからです。近頃は短い診療時間で患者さんの顔さえ見ないで、診断をくだす方もいるとも聞きます。このお医者様は「自分は病気を診る医者にはなりたくない。病人を診る医者でいたい」とおっしゃったのです。講義のあと一人の学生が来まして、「私の父は医者ですが、シスターがおっしゃった事と、正反対のことを言います。「自分は病気を診る医者で、病人を診る医者ではない。」その学生と話をしてわかったのは、「病人を診ていると、この人はお歳を召した方だが、こちらの方は働き盛りで家族もいる。何とか治してやらなければ・・・という気持ちを持たなくもない。またこの人はお金があるから高価な薬や治療もかまわないだろうが、こちらの人には無理だろう・・・そういう気持ちが起らなくもない。だから私は出来る限り病人を診ないで病気を診る事に徹したいと思う」ということがその学生のお父様のお気持ちでした。

言葉は「病気・病人」と同じですが、反対に使われています。しかしこの二人のお医者様の心の底にあったのは、あたたかい心遣いと人間愛で共通するものだったと気づきました。それでは長く話したら、洗いざらいぶちまけたら相手がわかってくれるのか、自分も相手を理解できるのかと言えば決してそうではないと思います。確かに時間をかけて、ゆっくり話しあうこと、隠し事をしないで話すことはとても大事な事ですが、私たちは別人格ですから相手を100%理解するのは不可能です。

歌人・柴生田稔の著作「折々のうた」に掲載されている歌ですが、「今日しみじみ妻と語りて一致する夫婦はついに他人ということ」別人格である二人がしみじみと語り合った結果として、お互いは決して100%理解し尽くすことはできない他人であるいう結論で一致した。しかもその二人がこれからも手を携えて結婚生活を続けていくという二人の成熟した愛、大人の姿に感銘を受けました。

エーリッヒ・フロムの言葉だったと思いますが、「一人でいられるということは、愛する能力を持つことへの条件である」というのがあります。私たちも言葉がどれほど重要なコミュニケーションの手段であるかを気づくと同時に、その言葉が醸し出す誤解にも心を留めないといけないと思います。口から言葉がでる前は私たちは言葉の主人です。しかしいったん言葉が出た後、私たちは言葉の奴隷となることを忘れず、丁寧に話すこと、相手を傷つけないよう言葉を選ぶ事、どれほど信頼しあっていても100%理解し尽くすことは不可能な事です。そこに相手への尊敬と愛と信頼が生まれます。お互いが許し許される謙虚さをもって、生きていきたいと思います。
2014.06.21 20:31 | 信仰者シリーズ
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