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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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今日はノートルダム清心学園理事長・渡辺和子先生の講和「善き死のために」をお送りいたします。

神様に造られた被造物としてまた不完全な人間として、私達は様々な条件のもとでしか生きることしかできません。遺伝、環境、その中で各自が自分らしい人格性を作っていきます。生まれつき体が弱い方、のぞまない環境に生まれたかた。これらはみな与えられた条件です。では人間はこのような遺伝、環境の産物なのかと言えば決してそうではありません。ビクターフランクルが言いましたように、人間には遺伝、環境を超えた自由があります。人間の持つ自由は諸条件からの自由ではなく、それら諸条件に対して自分のありかたを決める自由であって、他の動物には与えられていない人間の尊さの由縁です。また人間はその自由を使い、善い事も悪い事もできる自由と言ってもいいかもしれません。

人間がおかれている諸条件の中で誰しにも平等に与えられている一つの条件があります。それはいつか死ななければいけない死、という条件です。死があるから私達は死ぬまでにこれだけはしておかなければいけない、という優先順位をつけることもでき、死はすべて悪いものではありません。私達の教会は11月を「死者の月」と定めて、普段考えようともしない遠ざけようとしている死について、考えさせてくれます。キリスト教では死は必ずしも忌避するもの、嫌なもの、すべてが無になるものではありません。キリスト教では死は新しい命に入ること、キリストが約束してくださった永遠の命への門出でもあります。

使命という言葉があります。わたしたち一人一人、使命をいただいて生まれてきました。「命を使う」と書きますが、私達の人生が苦しみ、悲しみ、成功、失敗、いろいろなことに満ちていようとも、私なりに自分の命をつかったときに、私は私の使命を果たして、神様の御許へ旅立っていく。英語で「Going home to God」という言葉で表しているように、私達の魂の故郷である天国へ神様の御許へ永遠の命へと旅立っていく、それがキリスト教の死であります。自分がいつ、どこで、どのような死に方をするかは、誰にもわかっていません。いつ死がおとずれてもいいように、「死者の月」というのが設けられて、私たちにその準備をさせてくれます。キリストは生きていらっしゃる間に、たびたび死について、遠いところに旅立った主人が思いがけないときに帰ってきたという喩えで語っていらっしゃいます。帰ってきた主人が留守中の僕たちの仕事ぶりや生きかたを評価・査定するのです。ですから私たちは死がいつおとずれても慌てないですむように、準備していなければいけないのです。

アロイジロという聖人がいました。若くして亡くなった修道者でしたが、まだ16歳くらいだったころ、友達と遊んでいると先生が来て「今から30分後に死ななければならないとしたらどうする?」とたずねました。少年たちが口々に「母にさよならを言いに行く」「部屋を掃除してくる」「チャペルにお祈りをしに行く」と言う中でアロイジロだけは平然と「僕は今のまま続けています」と言った話があります。このようにいつ死がおとずれても慌てふためなくてもいい自分でありたいと思いますが、なかなか難しいことです。
私は大きな死のリハーサルとして小さな死を自分の生活の中で実行しようとしています。嫌なこと、辛いこと、したくないこと、つまり自分にとって死と思える小さなことを喜んで、口のなかで「小さな死」とつぶやいて、笑顔ですること、それが大きな死を迎えるリハーサルないではないかと思っています。

私は18歳の時に洗礼を受けて、祈りを習いました。そのお祈りの中で「罪深い私達のために今も、死を迎えるときも、祈ってください。」という言葉がありました。若い時の私は、臨終の時も祈ってくださいと、なぜ今から頼まなければいけないのか不思議に思ったことがありました。しかし歳をとって、死を身近に感じるようになり、自分にとっていちばん大切な瞬間は死を迎える瞬間であり、その時にこそ先のお祈りを必要とするのだとしみじみ感じております。「人は生きたように死ぬものだ」という言葉がありますが、私は必ずしも生きたように平安なうちにお亡くなりになった方ばかりを見てきませんでした。私の父にしても、決して悪い生活をした人ではないと思いますが、43発の弾を受けて血みどろで死にました。

キリストがゴルゴタの丘で十字架でつけられた時にその傍らに二人の盗賊が十字架につけられていました。一人の盗賊は最後までキリストの悪口を言い、口汚く罵っていました。もう一人の盗賊は回心して、キリストに向かって「あなたが御国においでになるときは私は思い出してください」と頼みます。苦しい息の下でキリストは「はっきり言っておく今日あなたは私と共に楽園にいる」とお約束なさいました。十字架につけられるほど悪行を重ねた盗賊です。それが回心することによって「今日わたしとともに楽園にいる」という約束を頂いています。私達が外から見て「ずいぶん惨たらしい死だ。必ずしも生きたように死ななかった」と言っても、私達が知らない、神様とその人との約束があるのだと思います。十字架につけられた人々を遠巻きに眺めていた群集たち、その人たちの目にはまことに惨たらしい情景にしか映らなかったと思います。しかしその中で交わされたキリストと善き盗賊との会話は誰も知らなかったのです。

私たちも考えたくない死かもしれませんが、いつおとずれるかわからない死の準備をアロイジロのようにできなくても、しておきたい死のリハーサルとして小さな死を日々実行したい。そして「今も、死を迎えるときも、祈ってください」という祈りを唱えて善き死を迎えたいと思います。

(LVJCCブログ制作チーム:Kao)

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2014.03.09 22:33 | 信仰者シリーズ
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