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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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皆さん、新年あけましておめでとうございます。
2014年が皆さんにとって素晴らしい年となりますように。

さて、新年最初のメッセージは、”与える愛”ということについて考えてみました。

このテーマはあまりにも大きなもので、どんな言葉を使っても十分に言い表すことはできませんが、敢えて一言で言えば、それはイエス・キリストを通して示された”十字架の愛”ということになるでしょうか。そして、この愛の源泉から発信される数々のメッセージを通して、私たちは豊かな人生の生き方を学ぶことができるのです。

また、十字架の愛にはさまざまな特徴がありますが、その一つの特徴は”与える愛”ということです。

”惜しみなく愛は奪う”とは有島武郎の言葉ですが、それは人間の生まれながらの愛の姿を描いたものです。彼は札幌農学校に学び、内村鑑三などの影響を受けながらも、キリスト教の真髄を知ることなく、純愛の名のもとに、人妻と心中をしてしまいます。それは、まことに身勝手な自己中心の愛の結末でした。

それに対し、イエス様の愛は、惜しみなく奪う愛ではなく、惜しみなく与える愛です。自分が満足するために相手から奪う愛ではなく、相手の益のために惜しみなく与える愛、それがイエス様の愛です。そして、このイエス様の愛は、十字架を通してこの世に明らかにされたのです。

第一ヨハネ4:9-10を見ると、こう記されています。「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」

ですからイエス様の愛は、自分に愛を求めず、また愛を与えても、見返りを期待しない、与えるだけの純粋な愛です。この愛は相手のために行動する必要があるから行動し、行動しないことが自分自身の苦痛となる愛です。それが、まさにキリストの十字架で表された愛です。

よくクリスチャンの中にも、自分の期待通りに人がしてくれなかったりしたときに、あの人には愛がない、ということを言ったりする人がいますが、これは人間の愛である”奪う愛”をもとにした発言です。そういう人は、いつも人の言葉や行動に一喜一憂し、振り回されなければなりません。

それに対して、イエス様が教えておられる”与える愛”というのは、人に求めるものではなく、あなたに求められているものです。ですから、「私は愛の足りない者です」ということは言えても、「あなたは愛が足りない」という言い方は聖書の教えではないのです。

USA Todayのジャック・ケリーというクリスチャンの編集員が以前このような記事を書いています。 「私たちはソマリアでの飢饉の間、首都モガディシュにいた。ある村に入って行くと、その村の全員が飢えのために死んでおり、それは見るに忍びない光景であった。死者の体から放たれる悪臭が髪の毛や、肌や、洋服にまで染み込み、いくら洗っても取れない。

私たちは、その村の外で一人の小さな少年に出会った。彼の体には、うじ虫が湧き、見るからに栄養失調で、お腹だけが前に突き出していた。子供が極度の栄養失調になると、髪の毛が赤くなり、肌がまるで100歳の老人のようにしわだらけになってしまう。その少年はまさにそういう状態であった。

カメラマンの一人がグレープフルーツを持っていたのでその少年に与えた。しかし、少年はあまりにも弱り過ぎていて、そのグレープフルーツを持つことが出来なかったので、私たちはそれを半分に切って少年に与えた。少年はそれを受け取ると、感謝のまなざしを私たちに向け、村の方に歩いて行った。私たちは少年に気付かれないように彼のあとをついて行った。

村に入って行くと、死んでいたと思っていた小さな子供が、虫の息の状態で地面に横たわっていた。彼の目は完全にかすんだ状態で見えていないようだった。その子供は、私たちがグレープフルーツを与えた少年の弟であることが後になって分かった。少年は弟のそばに膝間付くと、グレープフルーツを少しだけかじって、よく噛み、弟の口を開けて、その中に噛み砕いたグレープフルーツを入れてやり、弟のあごを上下に動かしてあげた。彼は弟のために二週間もこうやって食べ物をあげていたらしい。

数日後、この少年は栄養失調のために死に、弟の方は生きる事が出来た。私は、その夜、『人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない』と言われたイエス様の言葉が何を意味するのかを考えながら、家路に着いたのを今でも忘れることが出来ない。」 そういう記事です。

この栄養失調の少年は、自分が生きるか死ぬかの状態の中にあるのに、死にそうな弟のために自分の食べるべきものを犠牲にして与えて、弟を助け、自分が死んだ。神様は、この少年に神の愛を与え、この憐れな少年を通して、神の愛を、一人のジャーナリストに証しされたのです。

それは、恵まれた生活の中で、神の愛の本当の意味を知らない世の人々に、神の愛とは「友のために自分の命を捨てる愛」であり、イエス・キリストは、あなたのためにこれと同じことをされたのだということを示すとともに、神の愛に生きる教会が、互に愛し合うということを実践するように見本を示されたのです。

今日の一言: 与える愛に生きよう

平安
鶴田健次

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2014.01.03 10:56 | 鶴田健次牧師より
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