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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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今日は、”誘惑の本質”について考えてみました。

この世は邪悪と残虐と不正に満ちており、とても神がおられるとは思えない面があります。そこでよく人々は、「神がいるならば、何でこんなことが起きるのか」と言います。そしてそのことを自分が神を信じない理由としています。実際、これらの事が起ることを、なぜ神は許されるのでしょうか? またそもそもこの世は何故こうなのでしょう? これはヨブ記の中心テーマでもあります。

しかしながら、神が人類をそのような悪へと誘惑しておられるのではありません(ヤコブ1:13)。神にその責任を求めるのは見当違いです。哲学者、社会学者、歴史学者、心理学者たちは、それぞれの立場からそれぞれの説明をするでしょうが、聖書が啓示している理由はただ一つ、人に罪があるからです。そして誘惑する者がいるからです。

アダムとエバはエデンの園で神との交わりの中で生きていましたが、ヘビを通してサタンの誘惑の言葉に惑わされ、神の命令に逆らい、善悪を知る知識の木の実を食べて罪を犯し、神との交わりから切り離され、楽園を追放されてしまいました。このとき全人類に罪が入り、その結果として死が支配するようになり、現在の有り様を展開しているのです。

ここに見られるサタンの誘惑の本質は、その言葉に明確に表れています。その誘惑の言葉を分析してみたいと思います。

神である主は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのままに食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:16、17)

これに対してエバを誘惑する際のサタンの言葉とエバの応答は次のとおりです。(創世記3:1-8)

蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」①

女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。②

そこで蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。③ あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」④

そこで女が見ると、その木は、まことに
食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。⑤ それで、女はその実を取って食べ、いっしょにた夫にも与えたので、夫も食べた。⑥

このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。⑦

そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。⑧


では、神の言葉、サタンの言葉、そしてエバの言葉を見てみますが、神は「どの木からも食べてよい」と言われました。これに対してサタンの問いは、「神はどんな木からも食べてはならない、と神は言われたのですか」でした。非常に狡猾な質問です。エバはここでサタンの言葉を訂正したいという欲求を起されるのです。サタンはもちろん計算の上です。

そこでエバは、「園の木の実を食べてよいのです」と応答したまでは良かったのですが、園の中央の木に関して、「神は食べてはならない、触れてもいけない、死ぬといけないからと言われた」と答えました。神は「触れてもいけない」とも「死ぬといけない」とも言われませんでした。神は「食べると死ぬ」と明言されたのです。

サタンの誘惑の第一歩は、神の言葉に問いかけをして、私たちをサタンとの会話に引き込むこと①です。次に、私たちに神の言葉に脚色を加えさせること②です。そして最後に、「あなたがは死にません」と直接に神の言葉を否定する③のです。

この段階では、既に私たちはサタンの誘導尋問に乗せられていますから、サタンの言葉を否定することは困難です。しかも神は何か良いものを出し惜しみしておられるかのような印象をエバに与え④、実際エバがその木の実を見ると、「食べるのに良く」、「目に慕わしく」、「賢くする木は好まし」く見える⑤のです。ヨハネはこの3要素を、それぞれ「肉の欲」、「目の欲」、「持ち物の誇り」と呼んでいます。

ここまで誘導されると、私たちはサタンの誘惑からほとんど逃れられません。ついに神の言葉を否定する行動に及ぶ⑥のです。ここに罪の行為が成立し、その結果は自分の裸を知って恥部を自分で作った被いで覆うこと、つまり自意識と取り繕いをもたらし⑦、ついには神を恐れて神から逃避する⑧のです。そして人は神から分離されることで、自分の肉、この世、そしてサタンに従うことを選び、当然のことながら、その罪の結果である様々な邪悪と悲惨に満ちるようになるのです。

サタンはまず私たちの肉体的欲求を利用し、罪へと誘います(肉の欲)。ここで重要なことは、肉体の欲求自体には罪的要素はありません。食欲も性欲も自己保存欲も本来すべて神が備えて下さったものです。問題はこれらの欲求を、神の定めた方法ではなく、自己の方法によって、神から独立して満たそうとすることです。

次に見栄えのするもの、すなわち自己の栄光となるもの、例えば富、地位、名誉、成功、評判などを追求するように誘います(目の欲)。そして最後に、神から離れて、自己のプライド、自己の存在証明、自己のアイデンティティーの確立などの追求へと誘います(持ち物の誇り)。これらは一見悪いことではないように見えますが、実はすべての動機が自己にある点で、より狡猾な誘惑なのです。

人はすべてこの三要素をその人生をかけて追求しています。その行為が社会を構成し、歴史として積み重ねられ、その中で、人々は自己追求に明け暮れるので、人の罪が自ずと証明されるのです。

しかし、神はこれらの三要素が適切に満たされる必要があることをご存じです。肉体的欲求も神は満たして下さいます。人間としての尊厳を保つための繁栄も得させて下さいます。私たちのプライドやアイデンティティーも確立して下さるのです。しかし、それはすべて「キリストにあって」がキーワードになります。

ところが、神を信じない人は、神の配慮に自分を任せすることができないので、「自己にあって」、自己の力で自己の必要を満たさなければなりません。そこには神への信頼に基づいた神との麗しい交わりはありません。

それに対して、神を信じる人は、その信仰の結果、神の配慮にお任せすることができ、「キリストにあって」、神の力で、自己の必要を満たしていただけるのです。そこには神への信頼に基づいた神との麗しい交わりがあり、神の御旨に任せ、神の言葉とご人格を崇める生活があります。

したがって、誘惑の本質とは、個々の罪の行為へと私たちを誘うことにあるのではなく、この麗しい神との関係を破壊し、私たちを神の言葉とご人格を否定することへと誘うことなのです。


今日の一言: 誘惑の本質を知ろう


平安
鶴田健次

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2013.10.04 12:17 | 鶴田健次牧師より
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