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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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豊臣秀吉が朝鮮侵略を行ったときに、現在の北朝鮮の平壌近郊で、両親が殺され、身寄りをなくした朝鮮の少女を見つけました。キリシタン大名の小西行長が不憫に思い連れ帰り、養女として育てました。連れて来られた時はわずか5歳だったと言われています。この幼女は後に洗礼を受け「おたあ・ジュリア」と呼ばれるようになりました。「ジュリア」は洗礼名です。

やがて豊臣の世が終わり、徳川の世となる頃、ジュリアはとても美しい女性に成長していました。この頃、ジュリアは徳川の大奥の侍女として家康に仕えていました。家康はどこに行くにもジュリアを同伴させました。そして家康から何度も側室になるよう求められますが、彼女は断り続けたそうです。 このように徳川の時代も、最初の頃はキリスト教に対して寛容であったようです。その中でジュリアは一日の仕事を終えると祈り、聖書を読んでは同じ仲間達を信仰に導いていたと言います。

しかし1612年(慶長17年)のこと突然、家康はキリシタン禁教令を出し、ジュリアも投獄されてしまうのです。投獄中にジュリアは信仰を捨てるよう迫られました。しかし「信仰を捨てるよりも死を選ぶ」と宣教師に手紙を書いています。家康は、改宗に応じないジュリアを1612年に伊豆大島に流刑としました。その一ヶ月後、南方の新島に異動させ、さらには神津島へと島流しにしました。そのような度重なる島流しは、家康が赦免の変わりに、信仰を捨て、側近になる事を迫っていた事を伺わせます。

ジュリアは3つの島に流されました。しかし、どの島においても不平を言わず、その島の人々や同じ流刑にあった人々に徹底して仕えました。小西行長は、和泉国堺で薬を扱う商家の次男として生まれた、キリシタン大名でした。ジュリアは行長の影響で、薬草の知識を深めたと言われています。ジュリアはその薬草の知識を用いて病気の人々に献身的に奉仕したと言われています。その結果、禁教時における島にもかかわらず、多くの人々がジュリアを通してクリスチャンになったのです。

両親を殺され、日本に五歳で連れて来られ、挙句の果てには島流しにされたのです。信仰さえ捨てれば、家康の側室になることさえ出来たのです。家康は何度もそのチャンスを彼女に与えたようです。しかし彼女は信仰の道を選択したのです。そればかりか不平ひとつ言わず、流されて行った島々で人々に仕えたのです。そして、神は全ての事を相い働かせ、神様の御心である人々の救いを日本の小さな諸島に起こさせたのです。

ここにも一粒の麦として死んだ信仰者による、多くの救いの実が結ばれています。

(LVJCCブログ制作チーム:Kao)

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2013.09.09 12:00 | 信仰者シリーズ
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