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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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日本のキリスト教歴史に多くの信仰の形跡を残された内村鑑三。内村師の長女ルツ子さんは19歳で天に召されましたが、告別式で内村氏は「ルツ子の葬式ではなく、結婚式です」と語り、墓地に埋葬される際には、天を仰ぎ「ルツ子さん万歳!」と主を賛美しました。長女ルツ子さんの闘病と召天は内村夫妻の信仰に大きな影響を与えました。ここに内村師が残された、ルツ子さんに関する記述をご紹介いたします。



死んだ我が子について語るのは、甚だ愚痴っぽく聞こえて、あまり褒めるべき事ではありませんが、しかし我が子について語るのは、半ば自己について語ることですから、ここに重ねて亡児ルツ子について語ることを許していただきたい。

ルツ子は、純粋な内村家の娘でした。彼女の容貌は、全く内村的でした。彼女の父を識っていて、未だ彼女を識らなかった者が、始めて彼女に会った時には、直ちに彼女が「父の子」であることを認めました。

そして「父の子」であった彼女に、美しい貌なく、慕うべき艶色(みばえ)がなかったことは、言うまでもありません。内村家の娘であった彼女には、全人類はただ二つの階級に分かれていました。即ち、好きな人と嫌いな人と、この二階級に分かれていました。彼女は、好きな人を非常に好みました。そして嫌いな人を非常に嫌いました。

彼女もまた、ドクトル・ジョンソンのいわゆる「能(よ)く憎む者」の一人でした。そして彼女は、男らしい男を愛し、女らしい女を愛しました。これに反して、女らしい男と、男らしい女とを、彼女は非常に嫌いました。殊に女らしい男に至っては、彼女はこれに対する彼女の嫌悪の念を表すに足る言葉を有(も)ちませんでした。

彼女は、自信の強い女でした。日曜学校に在って教師が彼女に祈祷を強いた時には、彼女は同盟を作って、全くこれを排斥しました。しかし、小学校に在って、人から彼女の信仰を問われれば、彼女は断固として答えて言いました。「私の家は耶蘇教であります。さうして私は基督信者であります」と。彼女の朋輩(ほうはい)は、幾度も「ヤソ味噌、テッカ味噌」と言って、彼女をいじめました。そしてこの嘲弄に対して、彼女は時には弁じ、時には怒りました。彼女は彼女相応に、キリストの十字架を負わされました。そして彼女は、これを担って辞しませんでした。

高等小学三年にわたり、彼女が信仰のために蒙った迫害は、彼女の小さな心にとって、決して軽いものではありませんでした。しかし彼女は、よくこれに耐えました。彼女は、イエスを人の前に言い表して恥としませんでした。
高等女学校に入って後は、迫害めいた事は無いようでしたが、しかし信仰の表白は、彼女は依然としてこれを続けました。彼女の教師と朋輩とは、明らかに、彼女がキリスト信者であることを認めました。彼女の教師が、「貴女は何によって身を立てようと思いますか」と問えば、彼女は明白に答えて言いました。「キリストの教えによって」と。

このようにして、家では信仰に至って無頓着のように見えた彼女は、人に自分の信仰を問われれば、臆せず恐れず、これを人の前に表白して憚(はばか)りませんでした。

彼女は、いわゆる恐い物知らずの娘でした。幼時から、独りで暗い所へ行き、また独りで離れた座敷に寝ることを、少しも恐れませんでした。彼女は単独を愛しました。彼女はしばしば独りで家の留守を命じられることを申し出ました。 病中でも彼女はしばしば独りで病室を守り、彼女の母が、彼女を独り残して家事ができるようにさせました。彼女にとっては、独りで静粛を守ること以上に好ましいことは、無いようでした。

物を恐れず、苦痛に耐えました。忍耐は、彼女の特性でした。この点において、ルツ子は彼女の父には似ずに、彼女の祖父に似ました。彼女はメッタに彼女の苦痛を人に訴えませんでした。そしてほとんど度の過ぎた彼女の忍耐が、終に彼女の仇となったのです。彼女は苦痛を父母に告げませんでした。そして私達が知らない間に、病は癒すことができない程に進んでしまったのです。そして彼女が病に罹ってからの忍耐は、実に驚くべきものでした。

彼女はかつて戯れて、言いました。「もしお父さんがこんな病気に罹ったならば、どんなに騒ぐであろう」と。誠にその通りです。医師も看護婦も、彼女が落ち着いているのには驚きました。彼女の脈拍と体温とは、ますます高まりましたが、彼女の呼吸は常に低くありました。彼女は忍耐だけで、病気は終に治るように思っていました。

単独を愛したルツ子には、もちろん多くの親友などはいませんでした。世のいわゆる「ハイカラ婦人」は、彼を避けました。彼女もまた、彼等と交わろうとはしませんでした。しかし、彼女には彼女相応の友人がいました。そして彼等は、いずれも一種独特な人物でした。世のいわゆる「変物(かわりもの)」でした。そしてその多くは不遇の人でした。

一人の少女は、母に死に分かれ、父に捨てられ、今やその祖母の家に身を寄せていますが、そのような者などは、特にルツ子の友愛を引きました。彼女の死を殊に歎いた者は、この少女です。彼女は、私共に泣きながら告げて言いました。「私は今は叔母の家に在りて、毎日内村さんが私を見ていらっしゃると思ふて働いて居ります。内村さんが褒めて下さる事を善い事と思ひ、反対さるゝ事を悪い事と思って働いて居ます。」と。ルツ子がこの少女のことを思うことは甚だ切であり、自分が病から起つことができないことを知ると、母に乞うて、彼女の衣服の二三をこの少女に分かとうとしました。ルツ子の最も美しい心は、この少女に向けて発せられました。

ルツ子は、特に小児を愛しました。彼女には、小児を自分になつける非常な力がありました。隣家の小児が我が家を訪れる時には、それが男子であるにもかかわらず、彼が門外から声をかけて呼ぶ名は、ルツ子の名でした。田舎に行けば、「東京姉ちゃん」の名は小児の間に高く、彼等は母の膝を離れて、ルツ子の下に集いました。私共は思いました。ルツ子は生来の幼稚園教師である、彼女は幼児の友として、善かつ大なる事を為すであろうと。

人の中では、ルツ子が最も深い愛を注いだ者は、彼女の母方の祖父と祖母でした。(父方の祖父と祖母とは、早く世を去りました)。「京都のお祖父さんとお祖母さん」と聞けば、彼女は耐えきれないほどの情に沈みました。現世における彼女の最大快楽は、彼等の側にいることでした。彼女が友と相会して、最大の熱心を以て語った話の題目は、「京都のお祖父さんとお祖母さん」とについてでした。彼等は彼女が好きな中でも最も好きな人でした。

昨年6月、ある医学博士が、彼女の身体を診察し、彼女の体格では結婚は断念せざるを得ないと言い渡すと、彼女はこれを聞いて少しも悲しまず、「それなら私は、京都に行って、お祖父さんとお祖母さんを当分慰めてあげるわ」と言って、反って幸福な運命が彼女のために開かれたように感じました。彼女の夢は、常に京都に通っていました。彼女が病気の全快を望んだ第一の動機は、弟と共に京都に祖父と祖母とを訪ねることでした。この事を果さずに世を終ったことは、彼女にとって最大の遺憾であったでしょう。

しかし、申すまでなく、ルツ子の心中に第一位を占めていた者は、彼女の父と母とでした。彼女にこれ以上の権能はありませんでした。父母の命とあれば、彼女は波が風に従うように服従しました。肉体の事については母の命(めい)、霊魂の事については父の命、彼女にとっては、これ以上のオーソリティーはありませんでした。ある時、父と母のどちらが恐いかと尋ねると、彼女は答えて言いました。お父さんが叱る時は、声は高く言葉は激しいけれど、その恐さは直に済んでしまう。しかし、お母さんが叱る時には、静かで優しいけれども、心の底に響いて、いつまでも苦しい。と。

ルツ子の心の天地には、彼女の父と母とより以上の者は無かったのです。この母の下で、この父の業を助けること、これが彼女の生涯の唯一の目的であったのです。このように申しましても、彼女はいわゆる東洋流の二十四孝的な孝子ではありませんでした。その点においては、彼女に多くの欠点がありました。しかし、父の主義以外に主義を認めず、母の道以外に婦道を求めなかった彼女は、最も高い意味で孝子であったと思います。狭いと言えば、もちろん狭くあります。しかし、狭いだけ、それだけ強くあります。彼女は彼女の父母以外に、理想も主義も求めようとはしませんでした。

ゆえに昨年三月女学校を卒業して後に、彼女は直ちに研究社の事務員となりました。ここに親子三人、同じ事業についたのです。父は筆を執り、母は会計をつかさどり、娘は事務を執ったのです。私共は彼女に、月給三円を与えることに決めました。そして昨年の四月と五月に、雑誌の発送紙に読者の住所氏名を書いた者は彼女でした。その時の彼女の得意は、例えようもないほどで、三円の月給を貯めておいて、これを旅費にして京都に行くのだと言って、彼女は熱心に働きました。

ところが憐れにも死病はこの時既に深く彼女の肉体に侵入し、彼女は二カ月でこの父母の業を廃せざるを得なくなったのです。ルツ子は、死を恐れませんでした。ただ、今の時に、彼女の父と母とに対して、何の報恩をも為さずに世を去ることを、いたく悲しみました。「十九歳まで育ててもらって」とは、彼女が病中幾たびか発した言葉でした。彼女は今や父母の従事した戦闘に加わっただけで、何の戦功をも立てずに、世を去ることを非常に痛みました。

ルツ子に、生命よりも大切な者がありました。それは、彼女の家が奉じる主義信仰でした。かつて病中の事でした。彼女が罹った難病に対し、多くの治療法が提供され、その中には半信仰的なものもあって、我が家の信仰と抵触するものもありました。その時私は、彼女の枕辺に行って言いました。「おルツさん、内村家の信仰に抵触(さわ)るような療法に依って治るよりも、死んだ方がましだねえ」と。その時ルツ子は声を励まして答えて言いました。「そうさ、もちろんさ」と。そうして私共が彼女に施した多くの療法の中で、祈祷を以て神に委ねまつる療法が、最も多く彼女を満足させたのです。「今日からは医者をやめ、薬をやめて、神様に依ってだけ全癒を待つ」と私が彼女に言い渡した時に、彼女は大々的満足を表しました。

七ヵ月という長期間の中で、彼女が最も幸福だったのは、この信仰的状態に在った、終りの十二日間でした。ルツ子の信仰的生涯は、彼女が病床に就いた時に始まりました。この時までの彼女は、純粋な内村家の娘でした。しかし、この時から彼女はだんだんと天国の民となりました。

私共彼女の両親が、彼女について最も深く心配した事は、無邪気で常に子供らしくあった彼女が、どのようにして心にキリストを自覚するようになるであろうかという事でした。そして私共の祈祷は、常に神が必ず御自身を、私共の子供の心に顕(あらわ)して下さることでした。そしてルツ子の場合においては、思いがけなくも、彼女の病床において、私共のこの切なる祈祷が聴かれたのです。ルツ子は七ヵ月で、彼女の病床に在って、信仰の速成学校を卒業したのです。

信仰の小児として病の床に就いた彼女は、七ヵ月の後に信仰の成人として、天の御園に往ったのです。もちろん彼女はその時までに、既に信仰の種を受けていたのです。しかし、真理の種の成長とその結実とは、彼女はこれを病床において遂げたのです。結核は、恐ろしい疾病です。しかし、人の霊魂を磨き上げるためには、多分これに優って効果の多い疾病はないと思います。ルツ子の霊魂を救った者は、愛の神の無限の恩恵の他に、世にも恐るべき結核菌であったと思います。

誠に神を信じる者には、すべての事が悉く働いて、益を為すとは、この事であると思います。

ルツ子の性格には、多くの欠点がありました。私共はもちろん、これを誇ることはできません。しかし神は、その聖霊によって、彼女を聖めて下さいました。ルツ子は、内村家の娘として生れて来たので救われたのではありません。キリストを信じることができたので、救われたのです。彼女もまた多くの聖徒と等しく、こひつじの血で彼女の衣を白く洗ったのです。

今や天国に在る彼女に、我が家の美点もなければ、また欠点もありません。彼女は今や、キリストによってきずのない、しみのない者となることができたのです。永久に讃美すべきは、ひとり主イエス・キリストです。

(LVJCCブログ制作チーム: Kao)

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2013.08.12 13:39 | 信仰者シリーズ
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