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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

adam and eve

6月16日の父の日礼拝では、 アダムとエバが禁断の実を食べてしまう創世記3章1-21節の御言葉から、鶴田牧師により「いちじくの葉と皮の衣」と題してメッセージが取り継がれました。

創世記は、聖書66巻の「入り口」で、いろいろなことの「初め」について書かれており、聖書全体を理解するうえで大変重要な書です。

神は、人類の歴史の初めにアダムとエバを創造され、エデンの園に住まわせられました。「エデン」とは、「喜び」「楽しみ」という意味ですが、アダムとエバは、そこで神との親しい交わりを喜び、悲しみも死もない平和な日々を送っていました。

ところが、創世記3章に入ると、アダムとエバは、禁断の木の実を食べて神に反逆し、罪を犯してしまいました。これが人類のすべての不幸の始まりとなったのです。

罪の結果、彼らから神の栄光の覆いが取り除かれ、彼らは自分たちが裸であることに気づき、「いちじくの葉」で自分たちの腰の覆いを作りました。このいちじくの葉は、太陽が昇ると、その熱でしおれ、夕方になると枯れてしまいました。それは、自らの罪を覆うための人間のあらゆる努力がいかに空しいものかを暗示するものです。

しかし神は、そういう中で、彼らのために「いちじくの葉」ではなく「皮の衣」を用意し、罪に落ちた人間の回復の道を導いていかれるのです。

1.いちじくの葉と皮の衣

人類の始祖アダムとエバが造られたとき、彼らには罪がなく神の似姿に造られていたので、彼らは、いわば神の栄光に覆われ、裸であっても裸ではありませんでした。

ところが、善悪の知識の木の実を取って食べることで彼らが神の戒めに逆らい、罪を犯し、神から遠ざかるやいなや、神の栄光が彼らから離れてしまいました。そして、彼らは自分たちが裸の存在であることに気づくのです。そこで彼らは、「いちじくの葉」をつづり合わせ、腰に覆いを作りました。まさに親密な交わりの中にあった彼らと神との関係が切り離されてしまった瞬間です。

ある日のこと、アダムとエバは園を歩き回られる主の声を聞き、恐れて、園の木の間に身を隠します。これが罪がなせる業です。罪は、神と私たちの間に仕切りとなります。イザヤ書59:2を見ると、「あなたがたの罪が、あなたがたと神との仕切りとなった」と言われています。

そこで主なる神はアダムに、「あなたは、どこにいるのか」と声をかけられるのです。放蕩息子の譬え話にある、親元を飛び出した息子の帰りを待ち続ける父の姿と神の姿が重なります。

その後、神は、ご自分のもとを離れてしまったアダムとエバを哀れに思い、獣を捕らえて血を流し、皮を剥がして「皮の衣」を作り、それを彼らに着せられました。皮の衣は、いちじくの葉のように太陽の熱で枯れてしまう心配もありません。呪われた厳しい環境の中で、体を保護することのできる皮の衣には、実は驚くべき希望と象徴的な意味が含まれていたのです。

2.いちじくの葉が意味すること

人間が神を離れてから身に着けたいちじくの葉は、腰の部分、つまり相手との違いを隠すことに焦点が絞られています。つまり、人間が作った服は神を意識しているのではなく人の眼を意識しているのです。ですから、それがたとえ高価なものであっても、神の目には、いちじくの葉に過ぎないのです。

人間は、倫理や道徳という服を作って着ようと努力します。心の中に、何とかして罪を覆いたいという思いがあり、正しい行いをもってこれを覆おうとします。しかし、人間が作り出した、いかなる宗教も、哲学も、その裸の恥である「罪」を覆うことはできないのです。

また、人間は自分の羞恥心と罪意識を覆い隠そうとして、学歴と教養を身に着け、倫理的にも、道徳的にも努力をしますが、それは所詮、一時的には役立つかのように見える「いちじくの葉」なのです。

旧約聖書に出てくるバベルの塔の話は、まさに人間がいちじくの葉で身を覆おうとした行為です。昔、ノアの子孫たちは、シヌアルの地でレンガを作ってそれを積み、頂が天に届く塔を建てて自分たちの名をあげ、神様なしの人生を楽しもうとしたのです。

しかし彼らの動機が神への反逆だったので、神は彼らの言葉を乱されました。そこで彼らは意思の疎通ができず、バベルの塔を建てることができなかったのです。人々は神なしに安全な居場所を造り、神なしの人生を築いていこうとしましたが、そういうもので身を覆う努力をしても、それは必ずしおれてしまう、いちじくの葉なのです。

3.皮の衣が意味すること

神は、アダムとエバのために皮の衣を作り、彼らに着せられましたが、この皮の衣には大変重要な象徴的意味が隠されています。

神は、罪の体を持つ彼らをエデンの園に置くことはできず、彼らをエデンから追放し、ご自分の住む世界を人間の住む罪の世界から分離されました。しかし、神は将来人間のためにお与えになる「義の衣」の象徴としてアダムとエバに「皮の衣」をお着せになったのです。

神が与えられたこの衣は特別な衣で、それは動物の皮でできていました。つまり、それが彼らに与えられるために動物の血が流されたのです。この血は、そののちキリストによって私たちのために流される十字架の血潮の象徴です。また、神が人に与えられた皮の衣は、血を流すことによって得た皮の衣でしたが、これはキリストの十字架の贖いの血を信じるすべての者に与えられるキリストの「義の衣」を表しています。

あの放蕩息子の父親は、放蕩に身を持ち崩して、全ての財産を使い果たした息子が悔い改めて帰って来たとき、まだ遠く離れていた息子に走り寄ったと記されています。きっと嬉しくて、待ちきれなかったのでしょう。

しかし、ある聖書学者によれば、昔、両親に逆らって出て行った息子は石打にして殺されなければならなかったそうです。つまり、この放蕩息子は、父親に逆らって家を出た親不孝な息子なので、村人たちが見つけたら、彼を石打ちにして殺すことができたのです。だから、この父親は、仕事もそっちのけで、来る日も来る日も、遠くを見渡しながら、もし息子が帰って来るようなことがあったら、村人たちに見つけられる前に見つけて、見つけたならば、一目散に走り寄って、何としてでも息子を守らなければならないと考えていたのだというのです。

感動的な父親の愛です。イエス様は、そういう当時のしきたりを念頭に置いて、このたとえ話を語られ、神のあなたに対する愛はそういうものなのだと教えられたのです。

放蕩息子が帰って来た時、父親はしもべに命じて、一番良い着物を持って来て着せなさいと言いました。この放蕩息子の父親のように、愛に満ち給う神は、「キリストの義の衣」という「一番良い着物」を用意して、あなたが、罪を悔い改めて神に立ち返るのを待ち望んでおられるのです。


(ブログ製作チーム:Sao)

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2012.06.22 04:51 | 礼拝
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