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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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私は鹿児島の、現在では薩摩川内市と呼ばれる、ど田舎で生まれ育ちました。家は小さな小売酒屋を営み、父は社会党の田舎市会議員を数期務め、貧しい育ちの父は貧富の格差のない社会を夢見ていたようです。しかし家庭内では夫婦喧嘩が絶えず、外では演説で立派なことを言っているのに、家の中でのこの様は何だと小学校の高学年の頃になると、父に反発を覚えておりました。

そうした時、ラジオで流れていたルーテルアワーという番組の朗読や賛美歌に何とも言えない安らぎを覚えました。教会に行ってみたいという気持ちはあったのですが、近くに教会はなく、クリスチャンもおらず、そのまま月日が経ち、高3の終わり頃、学校の近くの橋のたもとで路傍伝道をしている女性に出会いました。それが統一教会との出会いです。神を中心とした真の家庭、神なくして平和な家庭も平和な社会も存在し得ないと聞き、これこそ自分が求めていたものだと思いました。

統一教会の教えの概略は以下のとおりです。
(1) 人類の始祖アダムとエバは天使長ルーシェルの誘惑により姦淫を犯し、原罪を持つに至った。
(2) アダム以降、4千年目にしてようやくメシヤ(イエスキリスト)が降臨され、この地上にイエスを中心とした霊肉共に救われた、地上天国が実現されるはずであったが、主の道を整えるべき洗礼者ヨハネの不信、失敗により、やむを得ずイエスは霊的救いのみの十字架の道をとらざるを得なかった。それからまた、さらに2千年の苦難の歴史を経て再びメシヤが降臨できる条件が満たされた。私たちが生きているこの現代こそ再臨の主(文鮮明)による地上天国(霊肉共の救い)が実現される時代である。

再臨の主、メシヤが既にこの現代におられる、自分は今とんでもない時代に生きている、と奮い立ちました。また勝共連合という右翼組織(=統一教会)での活動も行い、キリスト教(と思っていた)と右翼というちょっと考えると矛盾する活動に何ら疑問を感じませんでした。

やがて献身し、教会の経営する旅行会社に配属がきまり、給料明細書をもらうのみで、月に3万円程の昼食代だけの生活でしたが外部との接触もあり、それなりに充実したところもありました。また、偽募金、珍味、お茶販売などをマイクロバスの中での移動生活をしながら行いました。しかし胸には「限界を超えろ!」という教祖の言葉がありました。

そんな中、教会メンバーと一般社員との橋渡しとの自分勝手な理由をつけて、毎晩、飲み歩いていた私に、「あなたはもう教会人としての垣根を越えてしまった。出て行きなさい。」との引導を渡され、ホームを出、離教し、そして戸籍上の相対者とも離婚しました。

その後、神様とは無関係の人生を過ごし、一年間パチンコで生計を立ていた頃もありました。ラスベガスには真剣にギャンブルで稼ぐつもりで参りました。ルーレットのデータは5万5千回とりました。しかし結果はご想像の通り、いくらつぎ込んだかは、カミサンには決して言えない金額ですが、それでも必勝法を完成させ稼ぐ、大どんでん返しの人生の夢を捨ててはいませんでした。

しかし、迫りくる老後、人生への挫折感、タクシー運転手の仕事上でのさげすみ、みじめさ、家庭内のトラブルなど、全てが行き詰まった時に手にしたラスベガスアイズの最後のページにあった「すべて重荷を負うて苦労している者はわたしのもとに来なさい」の聖句に涙がでました。教会に行きたい、行かねばと思い、仕事のシフトも日曜日の休みに変えたにもかかわらず、ずるずる半年以上が過ぎてしまいました。

しかし去年の夏、神様の強制執行、最後通牒とも言うべきことが起こり、わき目もふらず無我夢中で妻と共に教会の門をたたきました。それ以来、私は何ガロンの涙を流したでしょう。それは悲しみの涙ではありません。大自然に対して初めて感じる美しさ、その背後におられる主のご慈愛をひしひしと、時には怒涛の如く感じ、涙が溢れました。

先月の教会ブログにこの聖句がありました。
「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた、弟子達は彼についてイエスに質問して言った。先生。彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。イエスは答えられた。この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこのひとに現れるためです。」 (ヨハネ9:1-3)

これを読みながら感極まりました。イエス様の、病や障害などで苦しむ人々へのいたわり、いつくしみが溢れています。
    
統一教会においては、先祖の功労が高いとか、因縁が深いとかよく言います。また祝福を受けて離教したら本人は地獄落ち、子供にもその罪科が、病気、障害が現れる説いています。ですから、この状態で統一教会に行けば、これこそ格好の落ちたシック(兄弟)の成れの果てとの宣伝材料になってしまう。それが私が人生のどん底にありながらも統一教会に救いを求めなかった理由です。

私は伝えなければなりません。人の罪からの解放は、性的儀式や献金などのお金で買えるものではないことを。2千年前に、「子よ安心しなさい。あなたの罪は赦された。私が十字架の道をゆくから。」 そう言って下さったイエス様によってでしか、罪からの解放、救いはないことを。

イエス様は約束通り、十字架の上で想像を絶する苦しみの中で、「彼らを赦して下さい」と私の為に祈って下さいました。尊き血を流し尽くして下さいました。はらわたのよじれる程の憐れみで私を愛してくださいました。

長年、クリスチャンとして熱心に歩んで来られた方々に接するとき、共通して感じる透明感、謙虚さ、暖かさは一方的に赦されたという救いの実感により培われた品性であると分かりました。他の宗教者からは感じられない、イエス・キリストの愛により育まれた品性だと思います。そしてこの素晴らしき先輩の皆様こそが 「木は実によって知られる。」の聖句のごとく、この教えの正しさ、イエス様こそが真の救い主であることの証明です。これはもう勝負あった。イエス様に軍配をあげます。  
      
しかし、この素晴らしいイエス様に出会って、私はどう変わったのだろう、何をお証しできるのだろうと思い悩みました。ただ振り返って見ると、以前には仕事中、ずるをするタクシー運転手を許せず、毎日のように喧嘩を繰り返し、心がズタズタになっていた時、「相手を祝福する言葉を口にしたらいい」という鶴田先生のアドバイスを頂いてから、もう些細なことは為すにまかせようという姿勢に変えました。気が付いたらこの数ヶ月、全く喧嘩をしてないばかりか、そういう場面にでくわすこと自体少なくなりました。

また、あれ程はまっていたギャンブルからもいつの間にか遠ざかり、何十回トライしてもできなかった禁煙も、賛美チームに加えて頂いてからすっかりやめられました。無理やりやめたわけではなく、誘惑が薄れてしまったというか、別の次元の楽しみ喜びが与えられたという感じです。

また、この教会で初めて信仰と御言の学びは楽しいものだと知りました。統一教会時代はただ使命感のみで走っていたような気がします。しかし今は、聖書勉強会の予習をし復習までしている自分に驚いています。

いまだ外的な状況は嵐の真っ只中という感じですが、内面的には平安を感じています。砂漠とギャンブルの街、ラスベガスで、この教会は希望であり、文字どうり砂漠の中のオアシスです。霊的戦いのすさまじいこの地に日本人教会を建てて下さった神様と鶴田先生、兄弟姉妹の皆様に本当に感謝いたします。

私は、この地に住む人々に魂のオアシス、ここにイエス・キリストの生命の水のあることを声を大にして伝えたいと思います。この身をもって証しするにはあまりに至らぬ者ですが、造り替えて下さる主を信じます。

(LVJCC: 石原兄)

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2012.06.15 19:12 | 証し
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