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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

ポットラック2

私たちの教会では毎週、礼拝後に、“愛餐会”の時が設けられています。それは週によって、軽食であったり、スナックであったり、ファンドレイズのスパゲティーやカレーライスであったり、持ち寄りの食事であったりと、多様性に富んでいます。しかし、どこの教会においても陥りやすいことかも知れませんが、この愛餐の時が、ただ食べるだけの時、ただ親しい者同士が交わるだけの場になってしまうことがないでしょうか。

そこで今回は、ご一緒に、本来の聖書的愛餐のあり方について考え、その本来のあり方を私たちの教会の愛餐会に取り入れたいと思います。

かつてイスラエルには十二の部族がありました。この十二の部族には部族ごとに領地が与えられ、そこで作物を収穫し、家畜を飼いながら生活していました。ところが、その十二部族の中で領地を持っていない部族が一つだけありました。それはレビ族という部族で、彼らは礼拝の務めをするのが仕事でした(民数記1:47-53)。

領地がないという事は、畑を耕す事も、家畜を飼うこともできません。そこで神様はイスラエルの十一部族に十分の一を献げよと言われたのです(民数記18:21)。しかしその十分の一はただレビ族の物となった訳ではなく、申命記14:26には「あなたの神、主の御前で家族と共に食べ、喜び祝いなさい」とあり、また、町の中にいる寄留者や孤児や寡婦が食べて満ち足りるようにしなさい(29節)とあるように、一緒に生きるための十分の一なのです。

つまり、私たちの献げ物の意味は、「私たちが持ち寄った物で私もあなたも共に喜ぶ」というものです。献げ物は決して失うのではなく、持ち寄ってあなたも私も共に喜び祝うためのものなのです。神様は「あなたにあげた十分の一を私に返しなさい」と恩返しを求めておられるのではなく、「十分の一を持ち寄って喜び祝いなさい。持っていない人も招いて一緒に食べなさい」と言われているのです。それが神の教会での献げ物の心であり、愛餐のための持ち寄りの食事は、そういう理解でなされていくものなのです。

初代教会の時代、コリントの教会では、礼拝後、それぞれ持ち寄った食べ物で食事会をしていました。この食事は“愛餐”と呼ばれていましたが、ギリシャ語で“アガペー”と言いました。“アガペー”は、報いを求めないで与える愛、より高い愛、献身的で意志的な愛を意味しています。教会での食事会が“アガペー(愛餐)”と呼ばれたのは、その日の食べ物にも事欠くような貧しい人々のために、食べ物を与えるために行なわれたからでした。

食べ物が十分にある人が、食べ物のない人々のために、それを持ってきて、分け与えたのです。当時は貧富の差が大きかったのですが、教会では、貧富の差を越えて、みんなが食べ物を分け合い、ひとつになって、交わりを楽しんだのです。教会の愛餐会は、貧しい人を思いやる愛の実践の場であり、それは、とても麗しい習慣でした。

もちろん、今の時代は、貧しくて食べ物に事欠くような人はあまりいないかも知れません。しかし、愛餐会の心は今でも同じです。教会は、お互いが良きものを持ち寄って分かち与える場なのです。自分の益ではなく、まず他の人の益を求める場なのです。

ところが、そのコリント教会の愛餐会が、いつの間にか本来の目的が忘れられ、自分のことを第一に求めるような愛餐会、ただ飲み食いをするだけの愛餐会になってしまったのです。私たちの教会はいかがでしょう?皆さんはどんな心で愛餐会の時を持っておられるでしょう?いま一度、聖書の原点に戻り、弱い人、寂しい人、お年寄り、新しい人、そういう人たちが一番に顧みられる愛餐会、自分ではなく他の人が重んぜられるような愛餐会を作り上げていきませんか。


(LVJCC牧師: 鶴田健次)
2010.12.17 00:00 | 鶴田健次牧師より
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