人生に対する新しい視点
今年も12月を迎えイエス・キリストの誕生を祝うクリスマスの季節になりました。いつもなら世界中で最も忙しく賑やかな時であるはずが、コロナ過の中で今年はいつもとは違う雰囲気を感じます。しかし、たとえ世界の情勢がどうであれ、そういうものに左右されない不変の意味をクリスマスの中に見出すことができます。
ところで、イエス・キリストの誕生は、一言で言えば、この世を大きく二つに分けた出来事であったと言えます。それは、この世の歴史を紀元前と紀元後に分けただけではなく、暗黒の世界に光を、絶望の世界に希望をもたらした出来事でした。
また同時に、それは私たち個人の人生をも二つに分ける出来事でした。つまり罪のために永遠の裁きを余儀なくされていたすべての人類に、キリストを信じる信仰によって永遠の命の恵みが与えられることとされたのです。
さらにまた、キリストにある人生は、この問題だらけの世界に住みながら、永遠の世界に生きる者としての新しい視点、そして物事に対する新しい解釈が与えられることでもあります。
パウロは、ある時、非常に素晴らしい神秘的な体験をします。それは神から天国を見せてもらうという体験でした。その体験はあまりにも特別な体験なので、彼が思い上がることのないように、神は彼の体に一つのとげを与えられました。
そのとげは、ある種の病気で、伝道者パウロにとっては致命的な病気でした。そこで彼は必死になって、その病気が癒されるように祈りました。しかしその病気は直りませんでした。パウロには「癒しの賜物」が与えられていて、彼が祈ると他の人の病気がどんどん癒されたのですが、彼自身の病気は直らなかったのです。
ところが、その時、彼は神の声を聞きます。それは、「私の恵みはあなたに対して十分である。わたしの力はあなたの弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」という語りかけでした。
そこでパウロは、目からうろこが落ちる経験をするのです。
「もし私に何の問題もなく、私が強ければ、私は自分の力だけに頼って、自分の力だけで生きていくところだった。それでは私に出来ることしか出来ないことになる。しかし、この病気のおかげで、私も弱い人間の一人であり、神の恵みと助けを祈り求める者とされている。だから神が私を助け、こうして自分の力だけでは出来ない筈の大きな働きをさせてらっしゃるのだ。であれば、キリストの力が私に宿るように、むしろ喜んで自分の病気、自分の弱さを誇ろう。たとえどんな困難や行き詰まりがあっても、それに甘んじよう。なぜなら、私が弱い時にこそ、私は強いからだ。」
そういう気付きが与えられ、本当の強さはそこにあるのだということを悟ることができたのです。
星野富弘さんの詩に「つばき」という詩があります。こんな詩です。
木は自分で動きまわることができない
神様に与えられたその場所で精一杯枝を張り、
許された高さまで、一生懸命伸びようとしている
そんな木を、私は友達のように思っている
これはきっと、ご自分のことと重ね合わせて歌ってらっしゃる詩だと思います。身動きもできない体になって、そこで初めて神の愛に気付き、神の愛の招きを受け入れることができた。頼りにならない自分の力で生きていたときには、人生の意味も目的も何も考えずに、ただ生きていただけだった。
ところが、首から下が全く動かなくなって初めて、もはや自分に頼れなくなって初めて、神の手の中に自分を預けてみた。すると、そんな体にならなければ見えない世界が見えてきて、ただそれを詩に表わすことによって、何百万人もの人々に力と勇気と励ましを与えられる生き方ができている。そして、来るべき時が来たら、その不自由な体から解放され、永遠に朽ちない完全な体が与えられ、天国で永遠に生きる者とされる。クリスチャンとは、そういう人生の解釈に生きる者なのです。だから、どんな事があっても強いのです。
将棋に勝つのは、将棋の駒が立派だからではありません。その差し手が強いからです。たとえ紙でできた将棋の駒であっても、将棋の名人は、その駒を使って、誰とどんな勝負をしても必ず勝つのです。私たちはいわば将棋の駒です。大切なことは、名人である神の言われるとおりに生きることです。そうすれば必ず勝利が与えられるのです。
今日の一言: キリストにある人生には、物事に対する新しい視点が与えられる
鶴田健次
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