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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

牧師室より#420:自分の十字架を負う_convert_20190119033333 


自分の十字架を負う



 マタイ16:21-23に、イエス様とペテロのこんなやりとりがあります。イエス様がやがて十字架の苦しみを受けるということをおっしゃると、ペテロはイエス様をいさめて、「主よ、あなたが十字架につかれるなんて、とんでもないことです。そんな事をみんなの前でおっしゃってはいけません」と言いました。


 するとイエス様は、そこにペテロに対するサタンの惑わしを鋭く察せられて、「サタンよ、引き下がれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」とお叱りになりました。


 つまり、神が備えられた道に伴う苦しみを避けることは、神の御心ではなく、人間の思いであるということです。イエス様は、その苦しみを「十字架」と言われました。しかし、私たちの十字架は、神の御心に従うからこそ受ける試練であり、それはやがて祝福につながるのです。


 また、私たちの十字架は、強制的に受ける試練ではなく、自分で選ぶ試練です。イエス様は十字架の道を拒む自由を持ってらっしゃいましたが、私たちを愛する一心で、その十字架の道を自発的に選ばれたのです。


 ですから、十字架を負うというのは、その試練を選ぶ自由と選ばない自由がある中で、その人を愛するがゆえに、その人のためにその試練を選ぶということです。しかし、その十字架は神の御心であるがゆえに、その十字架の後には勝利と祝福が待っているのです。


 こんな話があります。インドの有名なシンという伝道者がチベットまで歩いて伝道に行きました。ある日、ひとりの旅人がシン先生と一緒に歩いていました。そこで、彼らは激しい吹雪に出会います。彼らは、唇が凍るほどの寒さで、ほとんど話も出来ない状況でした。


 そんな中、二人は意識を失って横たわっている人を見つけました。シン先生はその人を助けようと思って、一緒に歩いていた旅人に、「手伝って下さい。この人を助けましょう」と言いました。すると、その人は「そんな無茶なこと言わないでくれ。もしその人を助けたら、私たちみんなが死んでしまう」と言って、一人で先に行ってしまいました。


 しかし、シン先生は苦労しながら、意識を失った人を背負い、隣の村に向かって歩き始めました。すると、考えてもみなかった事ですが、その大変な肉体的負担のお蔭で、シン先生の体は温かくなりました。しばらく行くと、先生は凍った遺体を見つけました。よく見ると、それは、先に一人で行ってしまった旅人の遺体でした。


 シン先生に背負われた人も、歩いている間に、シン先生の体温で温められ、意識を取り戻すことが出来ました。キリストの愛の故に、寒さのために苦しんでいたシン先生は、寒さで死にそうな人を苦しみながら背負うことによって、彼も死にそうだった人も共に助かるという、人の思いを超えた祝福がもたらされました。


 十字架を負うことには素晴らしい祝福が待っているという証しです。


「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見出すであろう。」(マタイ16:25)


 本当の愛には犠牲と痛みが伴います。しかしイエス様の十字架が私たちに勝利と祝福をもたらしたように、私たちの負う十字架も人々に祝福をもたらすことでしょう。



今日の一言:十字架を負う生活には祝福が伴う



鶴田健次


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2019.01.19 03:36 | 鶴田健次牧師より
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