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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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皆さんこんにちは(*^^*) TKです。新しい年が始まり、もう1か月が経ちましたね!私はつい最近、ようやくですが学校生活へのエンジンがかかってきた気がします。(主に勉強に対して。。。)毎日、その日その日は神様に与えられていると自覚し、大切に過ごしていきたいですね。

さて、今日は「裁き」と「戒め」について考えてみませんか?

裁きについてみなさんがよく聞くのは、「人を裁いてはいけない」(ルカ6章37節)という部分ですね。そして皆さんが考えているのは、人を裁くというのは陰でその人の悪口を言うという事ではないでしょうか?私もそう考えていました。

気になったので、色々調べてみたところ、あるブログでは、裁くことと、戒めることは全く違うと書いてありました。引用を載せます。
「パウロは、『私のほうでは、からだはそこにいなくても心はそこにおり、現にそこにいるのと同じように、そのような行ないをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました。』(Ⅰコリント5章3節)と語っています。ここでいうパウロがさばいたということは、聖書が戒めている『さばいてはならない』のさばきではなく、正しい姿に引き戻す、回復させる、ゆるしが約束されている悔い改めへと導くためのものです。パウロは教会に対して、『何をしてもいいよ、私はさばかないから』と罪を黙認したのではなく、むしろ愛によって『それは神の御心と福音に反する誤った行為であり、罪である』とペテロさえも 『さばいた』のです。」

続きは上のリンクから。
人を裁くことと、戒めることの違いについて、詳しく、わかりやすく書いてあります。
ぜひ読んでみてください!
このブログをすべて貼り付けたいところですが、盗作になってしまうのでやめておきます( `―´)ノ

しかし、本当の意味の「裁き」について、わかっていただけたでしょうか?パウロがしたように、愛によって、兄弟姉妹を戒めることにより罪を自覚させ、悔い改めと導くことが、本当の聖書的な「裁き」なのです。

またまた同じブログより。
「人をさばくことと、罪を戒めること (指摘すること) とは別のことです。人をさばいている時の人の心の根底には、その人を傷つけ、貶め、破壊することしか頭にありません。しかし罪過ちに対して戒めること、指摘してあげることの根底には、その人を悔い改めへと導き、建て上げ、回復させることが願いであり、目的となっています。そこには常にキリストの十字架とゆるしが存在しています。悔い改めに導くとは、その人を救う働きなのです。」

私はまだ、人を悔い改めへと導くような大それたことはしたことがありません。(むしろこれからもできるのかどうかもわかりません・・・!)しかし、このことを自分のことに適用するとしたら、私の6歳の甥に対する戒めです。彼が悪い事をした時、私は叔母という立場で、彼の行いを注意し、どうするべきなのか一緒に考えさせます。ですが、これはもちろん彼への愛と赦しを持って行っていることです。愛と赦しなしで注意したり、ただ単に叱ったりするのは、戒めではありません。

さて、皆さんは人を「裁き」「戒め」について今どう思われるでしょうか?私は、本当の意味を知った今、戒めることは聖書的愛の形だと思います。兄弟姉妹の罪について祈ることも大切なことです。しかし、それを戒めないで、そのままにしておくのは本当の神様の愛なのでしょうか?もちろん、戒める者も、愛と謙遜をもって行わなければなりません。皆さんが、戒めの中にある本当の愛とは何なのか、考えるきっかけになればと思います。



(TK)

2018.02.07 13:47 | その他
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