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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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振り返ってみると、生き方を変える程の大きな要因が人生の途上にいくつかあります。その最も大きなものは、2324歳のころに始まりました。それは、想像できないほどの変化を私にもたらしました。

 

ある海外旅行ツアーに友達と参加した時のことです。ほとんどの参加者はカップルや友人同士でしたけれど、中に一人参加の方がいて、その方はちょっと年上の女性でYさんといいました。きれいな聡明な女性という印象でした。

あるきっかけから、Yさんと私の住まいが数駅違いということがわかって、ローカルな話等に花が咲き、急に親しい友人になった感じがしました。

 

その旅行以来、お互いの家を行き来し、とても仲良くなりました。Yさんはテキスタイルのデザイナーで、素敵なマンションに一人で住んでいました。その2年後に、Yさんは故郷に帰りご結婚されました。

その間の短いお付き合いでしたが、博学なYさんからいろいろなことを学び、たくさんの興味深い話を聞きました。Yさんの話題は多岐にわたり、話が上手で、私はどんな話題でも引き込まれてしまいました。 

 

ある日Yさんは私に、「死後、何もかも無くなると思って生きるのと、次の世があると思って生きるのでは、人生の生き方が完全に違ってしまうって、思わない?」と言いました。

当時の私は、漠然とですが、死んだら無になると思っていたので、どう違うのか尋ねました。Yさんの答えは、「死後は無になると考えている人の生き方は、ズルしても、それを人に知られずに死んだ場合、その人の罪は無いも同然。裁かれない。なので人を欺き、窮地に陥れても、自分は大金を稼いで面白おかしく生きようとするんじゃい?」というものでした。

 

一方、次の世があると思って生きている人は、「今を正しく、良い事をして生き、学ぶべきことを学び、人の役に立つ人になって、次の世のためにできるだけ徳を積むような生き方を心がけるんじゃないの?」と、話してくれました。

 

私はこの話を聞いても “何となくそうかな” としか分かりませんでしたが、ひとつだけ確実にわかったことは、このテーマこそ私に必要なものだ、ということでした。

以来、絶えず調べたり考えたりしていましたが、考えが進めば進むほど疑問が出てくるのです。

 

まず、死後、次の世があると信じて生きるとすれば、世界各国の人々の価値基準の違いや、時代を超えても通用する正しさの基準は何か、せめてそれが分からない限り、真に正しく今の世を生きることは不可能じゃないかと思いました。

 

それを探るヒントがないものかと思っていると、宇宙の全体像が心に浮かび、天体が規則正しく動いている様は、真に正しいルールの下で行われていることに気付きました。それは想像を絶する年月の営みが、既にその正確さを証明しているものです。

この天体の運行を誤差なく正しいバランスで正確に動かすことのできる秩序こそが、宇宙全体の正しさの基準ではないかと思ったのです。 

そして、地球もそこに住む人間も宇宙の構成要因なので、その正しい秩序の影響下に入っています。ですから私たち人間は、真に正しいものを既に知っているに違いない。ただ、分からない、見分けられないのだと思いました。

 

ではなぜ、本物が分からず、見分けられないのかが次の問題でした。心が汚れ鈍くなっているのだろうか? 騙されないように扉を開けない人になってしまったのだろうか?

だとしたら、今から何でもトライして、どんなチャンスでも逃さずに、知ってみよう、行ってみよう、やってみようというふうに捉えることにしようと思いました。それは、どんな誘いでも可能な限り、好き嫌いを問わず、宗教の誘いでも、少なくとも初回は参加することにしました。

間違った宗教もあるので、実は、危険かもしれないとは思いましたが、私にも影響している宇宙を規則正しく動かしている秩序なるものが、私を正しく導く、と本気で信じてみて、実行しました。

 

実際、惑わされたり、入会のサインをさせられたことや、講演会と偽った何かの勧誘だったりとか、いろいろな負の経験もしましたが、全てそれらは、正しいものを見る目の肥やしになったのではないかと後で気付きました。

 

新しい場所に引っ越したばかりの33歳のある日、2つ先の駅近くの教会へ行ってみることにしました。友達がそこへ行くように勧めていたからです。

平日に行ったにもかかわらず、牧師さんが笑顔で迎えてくださり、教会の椅子に座って話していたところ、私は自分の異変に気付きました。

 

それは、霊体離脱というのでしょうか。私の意識が天井の方にいて、椅子で話している自分と牧師さんを見下ろしていたのです。その状態は、霊の私にとってとても気持ちが良いものでした。

結局、上の方にいる霊の私が、下で座っている肉体の私を通して、牧師さんに洗礼したい旨を伝えました。肉体の私はギョッとしましたが、牧師さんは了承していました。私は洗礼するつもりなど無く、ただ教会って何なのか知りたかったのです。


実は、洗礼の辺りの記憶があいまいで、洗礼がその日だったのか、教会に通い始めてからだったのか、記憶が飛んだようになって思い出せません。ですが、私の霊は洗礼をしたかったようで、洗礼をした日には心が宙を舞うぐらい嬉しかったことを覚えています。

 

そしてクリスチャンになって聖書を知り、長年探していた答えが全て聖書にあったことをやっと知ったのでした。

国による違いや、時代による違いにかかわらず、神から発せられた正しさの基準、秩序、神の正義、また神の愛は、宇宙の果てから地球の全ての生き物や、目に見えるものと見えないものにまで及んで存在していることに大いなる感動を覚えました。それは万物の創造主にしかできないことです。

 

素晴らしいことは、神の言葉である聖書がわかればわかるほど、恐れる心が消えていくことでした。

もっと素晴らしいことは、キリストを信じる者はこの世の肉体が滅んだ後、魂は、神の永遠の世界で朽ちない体が与えられて永遠に生きる、というのですから、死ぬことさえ恐怖の対象ではなくなりました。そのことを知ってから、本当の自由を得た気がしました。

信じるものは救われる今の恵みの時代に生きている幸いを、感謝します。

 

また、十字架で私のために死んでくださったイエス様の愛が、自分に罪があるとも知らずに平然と生きていた私に見えなかった罪を見せてくださり、悔い改めへと導き、傲慢な心を打ち砕き、主に仕える僕として新しく生きるようにしてくださいました。

主の代弁者、そして永遠の命に至る道を示す福音の使者として生きる、という使命が、私のこの世でのミッションになりました。主は言われました、恐れるな、私はあなたとともにいると。言われた方は万物の創造主、神です。神の言葉に偽りは無く、神が責任を持つといわれるのです。

私は主のもの、御心どおりに私を用いてください、と祈るだけです。

 

エペソ人への手紙1:11に、「わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである。」という御言葉があります。

 

小学校低学年の時、大人と子供達が賛美歌を歌いながら歩く行列についていった先が、民家の庭で行っていた青空子供礼拝でした。それが人生初めての礼拝体験でした。

長い道のりではありましたが、その神様の下へ私は戻って来たのでした。

エペソ1:11の通り、キリストにあってあらかじめ神の民として選ばれていたのでしょうか。何と感謝な事でしょう。 

 

MU

 

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2017.03.29 16:11 | 証し
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