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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

Vivian message 1 


私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。

ローマ書1:16


福音とは、イエス キリストの死、葬り、 復活についての神からのメッセージです。それは、人類を救うために愛なる神によって作られ、そして実行された計画に関するもので、すでに聖書の中に約束されていたことでした。この神の計画の核心は、私たちの罪のためにキリストが死なれたということです。


第一コリント15:34では、「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、」と書かれています。


福音は、私たちがそれを受け入れ、自分のものとし、それに人生を委ねるときに、私たちにとって良き知らせとなります。使徒パウロが人々にイエス様について語り、うちに住まわれるイエス様に応答するよう教えた時、パウロは福音を語っていました。使徒パウロは、自身に課されたイエス キリストの福音を語る責任を十分に理解していました。


パウロは、管理者としての召しをしっかり認識し、いずれ主の御前に申し開きすることになることも知っていました。今日も、私たちが聖書にある救いの道を人々に示す時、それが福音を伝えるということです。パウロは、福音が私たちの人生にどれだけ重要か、そしてどのように生きていくかについてはっきりと述べています。


1)福音は、力があります。


2)福音は人生を変えます。手に取った刀は人の命を奪う力がありますが、人生を変える力はありません。


3)福音は共有されなければなりません。自分だけのものにするのではありません。


4)福音は従順で聖なる生き方へと導きます。


使徒パウロがローマで熱心に福音を語ったのは、福音を恥としていなかったからです。いかなる時も福音を信じ語るパウロには、常に災難がつきものでした。人々はそんなパウロを辱めるのに必死でした。しかしパウロは、キリストのために、自分に課された責務を果たすべく、苦しみをもいといませんでした。


パウロは、福音のために受けたあらゆる苦しみと恥を第2コリント人への手紙11:23〜27でこのように述べています。「私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」



パウロは、不信仰で満ちたこの世に対して、返さなければならない負債を負っていると感じました。異教徒を見て軽蔑するようなことは全くありませんでした。むしろ、受けるに値しない恵みに圧倒され、彼らに負債を負っていることを知ったのです。信仰者として、私たちもまたパウロと同じく、私たちの人生に神様が用意してくださった人々に福音を語る義務があります。



パウロは、福音を語らずにいられませんでした。パウロは、コリント人への第一の手紙9:16〜18で、」で、こう言いました。


「私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はわざわいだ。もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしても、私には務めがゆだねられているのです。では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことなのです。」



人々からどのような扱いを受けても、パウロはキリストのメッセージを恥じることはありませんでした。彼は福音を誇りとし、伝えることを名誉とし、そこに全幅の信頼を置き、決して後悔するようなことはありませんでした。福音を語り、守り、称えることを恥とは思いませんでした。パウロはキリストの福音を心から尊重し、最高の良き知らせとして見ていました。この福音には、人々からどんな仕打ちを受けても、パウロを勝利に導く何かを持っていました。


預言者エレミヤも同じような経験をしました。起こりうる神の裁きを預言したエレミヤは、人々の笑いの的となりました。人々は、主からの預言を語るエレミヤを毎日のように非難し、嘲りました。しかしエレミヤの心は、黙っていることの方が、はるかに悪い影響を及ぼすと知ったのです。そして、エレミヤはこう言います。


「『主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい』と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。」(エレミヤ書20:9)


私たちは皆、恥をかくことがどれだけ辛いか知っているだけでなく、例えば、言えない過去、無駄にした時間、そして神様に私たちの最善を捧げれなかった時など、恥じることがいっぱいあるかもしれません。私は、「In GOD We Trust(神を信頼して)」を宣言したこの国アメリカが、今や学校内で祈ることを許さず、「寛容(広い視野を持つ)」ことが、イエス キリストの教えに耳を貸さないこと、となってしまったことを、恥ずかしく思います。


あなたの周りにいる未信者の人たちは、あなたが与えなければならないものを欲しいと望んでいるでしょうか? 私たちは、何かを求めて飢えているのに、何を求めているのかを知らない人々に囲まれています。私たちは、そんな人たちに答えを持っていると同時に、福音を伝えるという義務があります。


第一コリント人への手紙1:2223でパウロは、「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、、、」と言いました。


パウロの時代もそうですが、今日も多くの人は、愛、恵み、希望のメッセージに興味を持ちません。そんな中私たちは、人々が離れていくかもしれないという恐れから、神の裁きについて人々に警告するのを躊躇することがあるかもしれません。しかし実際には、失われた魂はすでに神から遠く離れており、だからこそ神の赦しについて聞く必要があるのです。


パウロは、このメッセージを語るために死をも覚悟していました。しかし私たちはしばしば、信仰を分かち合うときに生じるわずかな不快感でさえ直面したくないと思う時がないでしょうか。人類に与えられた最高のニュースを決して恥と思わないでください。それは誰かの永遠の運命を変えることができます。私たちは、福音に大きな誇りを持つべきであって、恥じるべきでないのです。


LVJCC英語部:岩田ビビアン)



この続きは次回のブログ、お楽しみに!


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2017.02.28 01:37 | お知らせ
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