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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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今日は、”人には負うべき重荷がある”ということを考えてみました。


新約聖書のガラテヤ書6章5節に、「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです」という一節があります。


この「重荷」と訳されている聖書原文のギリシャ語は、兵士が背負っている背嚢(はいのう)を意味しています。その背嚢には、食料や衣類、その他、兵士が生きていくために必要なものが入っています。ですから、それは確かに重い荷物なのですが、それ無しには兵士は生きていけないのです。


人が人生において背負っている重荷は、実は、この兵士の背嚢と同じようなところがあり、それは人が生きるためになくてはならない糧であると言えるかも知れません。誰でも自分から進んで重荷を背負いたいとは思いません。背負わされた重荷があれば、それから出来るだけ早く開放されたいと思うのが普通です。重荷などないほうがいいに決まっている、と誰もが言うはずです。


ある牧師に寝たきりの重病の妻がいました。その牧師は、はっきり口には出さないものの、重病の妻は自分にとって大きな重荷であっとことは間違いなく、正直言って、出来ればそれから解放されたいという思いがいつも心の片隅に、いや心の中心にあったそうです。


しかし、一方で、この重荷はどうしても自分が背負わなければならないという覚悟が揺らいだことはなかったそうです。できることならこの重荷から解放されたい、しかし、自分が背負わなければ、いったい誰がこの重荷を背負うことができるか、誰も出来ないに違いない、そう思ったそうです。


自分が背負わなければ、いったい誰がこの重荷を背負うことができるか、そういう重荷を人は誰でも人生において背負わなければならないことがあるのかも知れません。もしそうであれば、そういう重荷こそ、自分自身が生きていくうえで欠くことのできない背嚢だと言えるのではないでしょうか。


その牧師の人生の大半は重病の妻と共に過ごしてきた人生でした。人間は健康なときもあれば、病に臥すときもあります。重病になったからと言って、その伴侶を重荷と感じるのは身勝手と言えば身勝手です。場合によっては立場が逆転していたかも知れないのです。そうであれば、その重病の妻はその牧師にとって、重荷は重荷でも、それ無しには生きていけない兵士の背嚢という意味での「重荷」に他ならないと言えるでしょう。


夫婦の間に限らず、親子の間にも、兄弟の間にも、親しい友との間にも、この背嚢という意味での「重荷」が存在するかも知れません。それが聖書で言われている「おのおのが負うべき自分自身の重荷」なのではないでしょうか。


今日の一言: 人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷がある



鶴田健次


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2016.10.29 02:51 | 鶴田健次牧師より
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