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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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 これは誰もが抱く疑問ですね。恐らくこの疑問の背後には、神がいるなら神はそういう人間を造るはずで、そうしなかったのは神などいないからだ、という思いがあるかも知れません。あるいは、人間の堕落の原因は人間をそのように造った神にあるのではないか、と言いたいのかも知れませんね。

 しかし、神の御心を考えず、神の御言葉を聞こうともせず、自分の考えで一方的に神を非難するのはどうでしょう? 旧約聖書のイザヤ書45章に、人間と神との関係が陶器と陶器師に例えられている箇所がありますが、陶器師が陶器を造るとき、陶器師はそれを何かの目的をもって造ります。したがって、その陶器の形や色などは、その目的にかなう特徴を備えたものとして造り上げることでしょう。

 同様に、神が人間を造られたときも、神ご自身の目的にかなう性質と特徴を持つものとして人間を造られました。それは、人間が神との愛の交わりの中で、神の栄光を現わし、それによって、”神が人間を喜び、人間が神を喜ぶ”という相互の喜びが実現されるためでした。

 しかし、人間が神との愛の交わりの対象となるためには、一つの不可欠な特徴が必要でした。それは、人間が自由な意思をもって神を愛することができる、という特徴です。つまり、神に向けられる人間の愛は、決められたものであってはならなかったのです。神を愛することも、神を愛さないことも、人間の自由でなければなりません。でなければ、その愛は本物の愛とは言えません。

 たとえば、人間が自動的に神を愛するように、その心が決められていたとしたら、あるいは、人間が自由な心で神を愛するのではなく、心を強制的に操作されて愛するのだとしたら、そのような愛で愛された神は喜びを感じられるでしょうか。

 仮にあなたが優秀な科学者であるとして、人工頭脳を備えた、人間と全く同じことができるロボットを造ったとしましょう。あなたの身の回りの世話から、あなたの話し相手など、奥さんがする事は何でもできたとして、あなたはそのロボットから人間の奥さんとの関係から得られるような喜びを感じるでしょうか。

 ロボットの行為が、たとえどんなに外面的に人間の行為に似ていても、所詮、それは魂のないプログラムされた行為にすぎません。なぜなら、それは機械だからです。人間ならば、愛し、愛され、幸せを感じることができますが、機械は人間の行為の真似をするだけで、自動化された愛のようなものからは本当の愛の関係は生まれません。

 ましてや神は、決められた愛によって自動的に愛されたとしても、真の喜びは感じられないでしょう。人間もそうです。人間がもし、心を操作され、他の意志に動かされて選択の余地なく神を愛したとしても、その人自身の喜びにはなりません。人間は、自分の愛が自発的なものであり、自由な心情から出るときに、喜びを感じるのです。

 そういうわけで、人間が真に神の愛の交わりの対象となるためには、人間の心は自由で、その愛は自発的なものである必要がありました。そこで神は、この目的を果たすために、神に従うロボットのようにではなく、人間に”自由意思”を与え、その自由な心で神以外のものを愛するかも知れない可能性を敢えて残しながらも、人間の自発的愛と自発的従順から生まれる真の愛の関係を持つことを選ばれたのです。
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LVJCC牧師:鶴田健次

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2016.09.25 15:31 | キリスト教 Q & A
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