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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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『第二コリント489の黙想』


「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」(2コリント489

  

『病床は人生最大の学校である』という言葉があります。また、『寒さに震えた者ほど、太陽の暖かさを知る。人生の悩みをくぐった者ほど、生命の尊さを知る』とは、アメリカの詩人ホイットマンの言葉です。


辛い病床生活の背後に神様の摂理があるということは確かですが、だからと言って、その状況を喜んで受け入れるというのは簡単ではありません。重い病気にかかったりすると、人生が暗いものに思われてきて、何かにつけ悲観的になりやすいものです。

 

人間は、元気で調子がいい時には、何でも自分の力でできるような気がするものですが、病気になると、別人のように弱気になってしまいます。それが人間の正直な姿だと思います。

 

ところが、絶望と逆境と孤独の中でこそ、人生の真実を見出すことができるというのもまた事実です。それは、私たちの困難のすぐそばに神様がいらっしゃるからです。

 

イ・チソンという韓国人クリスチャンのお証しをしたいと思います。2000年の7月、彼女は当時、女子大生でした。笑顔の絶えない、子供好きな彼女は、将来は子供に関わる仕事をするのが夢でした。ある日のこと、学校が遅くなった彼女は、妹思いのお兄さんに車で迎えに来てもらうことにしました。ところが、その帰り道、二人が乗った車は、酔っ払い運転の車に追突され、チソンさんは体中に大火傷を負うことになります。

 

救急車で病院にかつぎ込まれ、すぐに手術を受けた彼女は、火傷の中でも一番重い第三度の火傷、つまり内部の組織が破壊され皮膚が黒く焦げる状態、その第三度の火傷が体の55%に及んでいました。医者は一週間の命と診断しましたが、チソンさんは奇跡的に一命を取り留めます。しかし、指先は焼けただれてしまい、親指を除く8本の指が切断されてしまいます。落胆に泣き叫ぶチソンさんに、医者は、「言い難いが顔の火傷はもっと深刻だ」と伝えます。誰もが彼女の人生は終わりだと思いました。彼女自身も、「神様、私を長生きさせないでください」と泣いて訴えました。

 

ある夜のこと、病室で付き添って寝ていたお兄さんは、チソンさんが窓ガラスに映った自分を見て泣いているのに気づいて、声をかけると、「お兄ちゃん、どうして私を助けたの?私を殺して」と言いました。彼女は、どうしても、変わり果てた自分を受け入れることができなかったのです。

 

ほどなくして退院を許されたものの、毎日が苦しみと悲しみの連続でした。外出の際も、小さな子供たちに心ない言葉を投げかけられ、涙を流すこともありました。子供が大好きで、子供のカウンセラーになることを夢見ていた彼女にとって、それはとても残酷な現実でした。

 

しかしある時、神様は牧師を通して彼女にこう語り掛けられました。「チソン、私がお前をこの世界の真ん中に立たせてあげよう。苦しみ病んだ者たちへの希望のメッセージにしてあげよう。」 彼女は、その言葉を信じ、神様に感謝できることを数えることにしました。

 

顔は焼けただれたけれども、目には異常がなかったこと、切断するのは指先だけで、腕や足は大丈夫だったことなどを感謝しました。すると彼女は、「神様は、この体に奇跡を見せて、愛をお示しになる理由があるはずだ」という考えに満たされ、思わず神様をほめたたえる賛美を口にしました。

 

そして事故から5年後の秋、チソンさんはリハビリテーション・カウンセリングを勉強するために、ボストン大学の大学院に入学しました。リハビリテーション・カウンセリングとは、障害者となった人たちの心を癒すことを目的とするものです。チソンさんは、火傷で自分の顔が変わり果てた時の思いがどんなものかを理解できますし、人から興味本位で見られることの辛さも分かります。その心の傷をイエス・キリストの十字架の苦しみによって癒されるという経験を彼女はしました。ですから今度は、チソンさん自身が、心の痛みに耐えている人を理解し、受け入れ、その癒しの手助けをするようになられたのです。

 

周りの人は、チソンさんの人生は終わりだと言いました。しかし、彼女の本当の人生はそこから始まったのです。神様は約束どおり、チソンさんを、人々を助けるために、この世界の真ん中に立たせられたのです。

 

人生のほとんどの試練は、成功のための良い機会だというのが聖書の考えです。多くの場合、試練というのは、自分の思い通りにならないことを言います。しかし裏を返せば、明日のことも分からない自分の思い通りではなく、先の先までを見ておられる神様の完璧な計画を見出すチャンスがそこにあるのです。

  

今日の一言: 試練は成功のための良い機会


 

鶴田健次

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2023.08.23 03:35 | 牧師室より

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 第二コリント47の黙想 

「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(第二コリント47

 聖書は、私たち人間のことを『土の器』と呼んでいます。これは、私たちのもろくて壊れやすい性質を表わしている言葉です。誰かが言った一言に、また誰かが取った一つの態度に一喜一憂してしまう、そういう弱さを人間は持っているものです。

 

 また、『土の器』という言葉は、どちらかと言うと、素焼きの器をイメージしますが、昔はこの素焼きの器を色んな物を入れるために用いました。

 

 私は田舎育ちなので、小さい頃はかなり原始的な生活をしていて、風呂やトイレは家の外の納屋にありました。風呂はもちろん五右衛門風呂で、トイレは土の中に埋められた大きな素焼きのカメに二枚の板が渡してあるという粗末なものでした。子供の背丈くらいの深さですから、間違って落ちたら大変なことになります。(笑)

 

 もちろん、素焼きのカメは、トイレばかりではなく、色んな用途に使われたわけで、味噌を入れたり、油を入れたり、醤油を入れたり、砂糖や塩や漬け物を入れたり、またある人はお金を入れるためにも使っていたようです。

 

 しかし、ここにある『人は土の器である』という人間理解は、非常に深い意味をその中に秘めています。つまり私たちは、自分という土の器の中に何を入れるかで私たちの人生が決まるということです。良い考えを入れるか、悪い考えを入れるかで、人生は大きく分かれます。どういう人生観、世界観、価値観を入れるかで、人生の進む方向が決まります。

 

 パウロは、「わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている」と言いました。そして、その宝は、神の測り知れない力であると言っています。この宝とはキリストの福音のことを指しています。

 

 私たちは、死んだら灰になってしまうような土の器ですが、そんな土の器にすぎない私たちが、イエス・キリストを救い主として信じて受け入れるときに、この測り知れない力の源であるキリストをこの土の器の中に持つ者とされます。それは、私たちの思いをはるかに超えた素晴らしい経験です。なぜなら、その事によって、私たちには永遠の命が与えられ、神の子として、永遠の天国を相続する特権が与えられるからです。これ以上の宝はどこにもありません。

 

 2021年現在で、100歳以上の日本人の数は86,510人だそうですが、元気で長生きというのは本当に素晴らしいことです。しかし、このキリストの福音という宝をこの土の器の中に持つことができれば、何年生きようが、それは大した問題ではなくなります。

 

 私たちはよく、子供が親より先に死ぬことほど、親にとって辛いことはないと言います。確かにその通りです。しかし、そういう考え、そういう見方は、人間は死んだらそれでお仕舞い、という死生観に立っての考えです。たとえ10年生きようが、30年、50年、70年、90年生きようが、結局はやがてみんな死んでしまうのです。

 

 ですから、大事なことは、生きている間に、永遠の命を得るためのイエス・キリストという『宝』をこの『土の器』の中に持つことです。そうすれば、10年の人生であろうが、90年の人生であろうが、どちらでも変わりはないという世界がそこに開かれていくのです。この『宝』には、それほどまでの力があるのです。だからすべての人が例外なしに手に入れるべきものなのです。

 

 またパウロは、この『宝』が『土の器』の中にある理由を、この『宝』が持っている測り知れない力が、神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためであると言っています。

 

つまり、クリスチャンには尊い使命と責任があるということです。壊れやすい『土の器』に過ぎない私たちが、患難を受けても窮しない生き方、途方にくれても行き詰らない生き方をすることによって、私たちの内に生きて働くキリストが証しされていく。そのことのために、神はこの『宝』を『土の器』の中に入れておられるのです。

  

今日の一言: あなたはこの宝を持っておられますか?

 

 鶴田健次

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2023.08.13 21:34 | 牧師室より

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マタイ13:24-30の黙想

  イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。 ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。 麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。 それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』  主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』  だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。 だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」(マタイ132430

 

 

中国の故事に「市虎」(しこ)と呼ばれるお話があります。『市虎』というのは、町の中に現われた虎のことです。

 

ある時、魏の王に仕える家臣が、「王よ、まちに虎がでました。こういう報告がはいったら信じますか」と尋ねます。そこで、魏の王は答えます。 「信じるものか」

 

そこで家臣が言います。「もう一人、報告にきたら」

王は「信じない」ともう一度言います。

そこでまた家臣が、「それではもう一人、虎が出ましたと報告したらどうです」と尋ねると、「ウーン、信じる」と王は答えてしまいます。

 

そこで質問をした家臣は、こう言います。

「王よ、あなたは虎がいないと、わかっているのです。それなのに、三人も報告にくると、信じてしまわれた。私はこれから派遣されて、遠方にまいりますが、わたしの悪い噂を耳うちする者がいても、信じないで下さい。」

 

こう言いおいて、この家臣は出掛けて行きました。 数年たって帰国してみると、王は接見してくれなかったという話です。

 

よく知られているこの中国の故事は、噂がどんなに恐ろしいものであるかを教えています。

 

噂の魔力については、「曽参(そうさん)人ヲ殺ス」 というのもあります。曽参が人殺しをしたという告げ口を、曽参の母親は信じませんでした。しかし、三人めがかけこんできて告げ口をすると、ついに現場をめざして走り出したという話です。

 

このように噂というのは、その真実性には関係なく、聞いた人に大きな影響を与えます。旧約聖書の箴言に、「わきまえのない者は何でも言われた事を信じ、利口な者は自分の歩みをわきまえる」という御言葉がありますが、うわさ話の聞き方を心得ている人と、いない人がいます。うわさ話の聞き方を心得ている人というのは、事実関係を確かなところで確認するまでは信じませんが、心得ていない人というのは、うわさ話を確認もしないで鵜呑みにしてしまいます。

 

また、うわさ話だけではなく、他人に関する評価についても、心得のある人とない人がいます。心得のある人は、人の振る舞いを見て、その背後にある事情を理解しようと心掛けますが、心得のない人は、その振る舞いだけを見て、その人にレッテルを貼ってしまいやすいものです。

 

あなたは如何でしょう? あなたは心得のある人ですか? 

 

聖書もこう命じています。「いかなる咎でも、いかなる罪でも、すべて人が犯した罪過は、一人の証人によって立証されてはならない。二人の証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。」(申命記1915

  

今日の一言: 早まった裁きをしない

  

鶴田健次


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2023.08.06 08:26 | 牧師室より
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