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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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マタイ18:1-6の黙想

 

 

「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」(マタイ183

 

 

マタイの福音書18章のテーマは、「教会における人間関係」ということです。パウロは、第一コリント1227で、「あなたがはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです」と言いました。

 

私たち自身がキリストのからだです。ですから、私たちとキリストの働きを切り離すことはできず、主は私たちを通して働かれます。また、私たちひとりひとりは器官です。ですから、クリスチャンは単独で生きるのではなく、必ず他の信者を必要とし、自分と他者との関係の中にキリストが働かれるのです。

 

そこでイエス様は、私たちが兄弟姉妹に対して取るべき態度を教えておられます。その一つが1816の「へりくだり」ということです。自分を小さい者とみなし、他の人をキリストにあって受け入れることの大切さが語られているのです。


まず1節に目を向けると、弟子がイエス様に「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか」と尋ねています。弟子たちはイエス様が王として支配される国が地上に打ち建てられることを期待していました。彼らが言った天の御国とは、そういう意味での地上の王国を指していました。

 

ですから、この弟子たちの質問は、イエス様が王となられたあかつきには、弟子たちの中の誰が

No.2になるのか、という意味だったのでしょう。その弟子たちの質問に対するイエス様の応答が2節以下です。 

 

弟子たちの質問は「誰が天の御国で一番偉いのか」ということでしたが、イエス様はここで、まず天の御国に入るための条件を語っておられます。それが「悔い改めて子どものように」なるということです。


「悔い改め」とは、原語のギリシャ語では方向転換を意味する表現で、聖書では「罪」との関係で用いられています。また、「罪」(ハマルティア)は「的外れ」という意味の言葉です。要するに向くべき方向を正しく向いていない状態が「罪」であり、向くべき方向とは、天地万物の創造者である神様です。

 

つまり、神様に背を向けて生きている状態、それが的外れの生き方であり、最も基本的な罪の姿です。そして、そのような状態から方向転換をして、正しく神様のほうを向いて生きていく決心をすることが「悔い改め」ということです。ですから、ここで言われている天の御国に入るための条件とは、罪人である自分の姿を認め、そこから方向転換をして、まっすぐ神様の方に向かうということです。

 

また「子どものようになる」という表現ですが、4節を見ると、「子どものようになる」というのが「自分を低くする」と表現されています。これは自分の弱さを認めることで、悔い改めとの関係で語られていることを考えれば、ここで認めるべき弱さとは自分の「罪」のことであり、自分が罪人であることを認めることを言っているのです。


それからイエス様は5節で、「また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです」と、ご自分と子どもとの関係を語っておられます。

 

ここでは「このような子ども」とありますが、これは誰を指しているのかというと、6節に「わたしを信じるこの小さい者たち」とあるので、イエス様に対する信仰を持っている人のことです。

 

そして、ここからイエス様の話題は「普通の子ども」から、ご自分のことを信じる、ご自分の弟子たち、いうなれば信仰によって神の子どもとされた人たちのことに移って行くわけです。

 

ですからこの個所を言い換えると、イエス様を信じる人々を受け入れることは、イエス様を受け入れることになるということなのです。

 

 

今日の一言: 神様のほうを向いて生きていく決心をしよう

 

 

鶴田健次


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2023.06.22 23:40 | 牧師室より

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マタイ10:1623の黙想

  

「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」(マタイ1016

 

主イエスは、十二弟子をイスラエルの失われた人々のもとに遣わされるとき、彼らに向かって、「わたしが、あなたがたを遣わす」とおっしゃいました。つまりそれは、主イエスを信じ、主イエスの弟子である私たちクリスチャンも遣わされている者であることを意味します。

 

そして、遣わされている者であるということは、もはや自分自身のために存在しているのではなく、遣わして下さった方のため、また遣わされている対象のために存在しているということです。

 

私たちは主のため、また誰かの救いのために存在しているのです。主は救いの業のために、私たちをお用い下さるのです。だから、そのために生きなければ、教会の意味も、クリスチャンの意味もないのです。

 

1920節を見ると、「人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです」と言われていますが、必要とあらば、聖霊が私たちを通してお語りになります。そのように神が私たちを用いて、ご自身を世に現し、この世界に信仰をもたらそうとしておられるなら、まず私たちが信仰に生きていなければなりません。

 

22節に「最後まで耐え忍ぶ者は救われます」とあります。この「最後まで」という期間は、私たちに与えられた大切な期間です。私たちがキリストに似た者に変えられ、そのような私たちを神が用いて下さるために必要な期間なのです。

 

あるいはまた、この世界の救いのため、誰かの救いのために、神が私たちを通して働いて下さるための期間です。意味のない苦難や試練の期間はありません。神の大きなご計画の中で、尊い意味を持っている尊い期間です。

 

そこで大事なことはただ一つ、耐え忍ぶことです。留まること、信仰に留まることです。絶対に希望を捨てないことです。どこまでも主を待ち望むことです。

 

 

今日の祈り: 主よ、この世の救いのために私を用いて下さい。

 

 

鶴田健次


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2023.06.02 10:55 | 牧師室より
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