詩篇96篇の黙想
新しい歌を主に歌え。全地よ 主に歌え。(1)
詩篇96篇は、神を賛美し、神の栄光を讃える詩篇の一つです。この詩篇は、私たちに神を賛美し、神の偉大さを讃える重要性を教えます。
まず、この詩篇は異邦人に向けた神への賛美の呼びかけで始まります。異邦人に対しても、神の偉大さと神の栄光を伝えることが求められています。私たちは、自分たちの信仰を持ちつつも、異文化や異教の人々にも神の愛を伝える使命が与えられています。異文化や異教の人々に対しても、神の偉大さを証しすることによって、神の御名を崇めることができるのです。
また、この詩篇は主の偉大さを強調しています。主は大いなる神であり、すべての神々にまさって恐れられるお方です。主はご自分の栄光を他の神々に分け与えることなく、ただひとりに賜わっておられます。私たちは、この主の偉大さを賛美し、主を信頼することによって、あらゆる困難に立ち向かう力を得ることができるのです。
この詩篇はまた、喜びの歌を歌い、主を褒めたたえることの重要性を強調しています。私たちは、神の救いと祝福に感謝し、喜びを持って主を賛美することが求められています。主の栄光と力をもって神の御名を崇めることは、私たちの信仰の証しであり、周囲の人々に神の愛を伝える手段でもあります。
最後に、この詩篇は、神を畏れることの大切さを強調しています。神を畏れることは、私たちの信仰の基盤であり、神の御旨に従って生きることを意味します。神を畏れることは、神への敬意と敬虔さを持つことであり、私たちを更なる信仰の深みへと至らせてくれるのです。
今日の祈り: 主よ、私はあなたの偉大さと栄光を賛美し、あなたへの感謝を忘れません。
鶴田健次
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詩篇95篇の黙想
さあ 主に向かって 喜び歌おう。
私たちの救いの岩に向かって 喜び叫ぼう。(1節)
詩95篇は、イスラエルの民が礼拝をどのように考えていたかを知る上でとても重要です。礼拝とは神との人格的な出会いです。1節と2節は、礼拝に大きな喜びがあることを教えています。イスラエルの民は、ただ機械的に礼拝を守っていたのではありません。彼らが讃美や祈りをささげる時、その心は喜び、生ける神に向かっていました。彼らは神に向かって讃美と祈りをささげ、また神からの言葉を聞いたのです。これらを繰り返す中で、彼らは対話をするように神と出会い、神との人格的交わりを喜んでいました。
続いて3節-5節には、なぜ神と出会うことが喜びなのかが語られています。それは、神が偉大なお方だからです。夜空を見たり、広大な海や美しい自然に触れると、私たちは神が造られた世界に生きていることを実感し、喜ぶことができます。そして、造られた者が造り主なる神を礼拝することは極めて自然なことであると気づくのです。確かに、この世では悩みがありますが、すべてが神の御手の中にあることを思えば、礼拝を通して神と出会えることは喜びであり感謝なのです。
また6節には、礼拝とは主にひれ伏すことだとあります。もし私たちが神の偉大さを知っているなら、私たちはおのずと神の前に身を低くすることでしょう。私たちが神を喜べない、素直に御言葉を聞けないとしたら、それは私たちが自分を高くし過ぎているからかも知れません。6節のひれ伏すという言葉は、神の御前に自分を低くすることです。礼拝を通して、私たちは神と人との本来の関係に立ち返ることができるのです。
今日の祈り: 父なる神様、どんな時も霊と真理によって礼拝を捧げられるよう導いて下さい。
鶴田健次
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GOOD FRIDAY
今週の金曜日はGood Fridayです。Good Fridayとはイエス・キリストが十字架で処刑された日です。Good Fridayは春分の日のあとの最初の満月の次の金曜日で、年によって日付が変わる移動祝祭日です。今年は4月7日になります。
さて、イエス・キリストは今から約2000年前、人類の罪を贖うために身代わりとなって十字架に架かられました。それによって、イエス・キリストを信じるすべての者に、罪の赦しと永遠の命が与えられることとなったのです。これがキリストの十字架が意味するところです。
以下の聖句は、ヨハネの福音書10:17、18にあるイエス・キリストの言葉です。
「父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。・・・・・・」(ヨハネ10:17、18)
この聖句を読むと、イエス・キリストは、人の手によって無理やり十字架に架けられて殺されたのではなく、むしろご自分から進んで十字架に架かり、その命を捨てられたのだと言われていることが解ります。
イエス様は、神が人となられた方なので、正真正銘の人間であると同時に正真正銘の神でもあられます。その証拠にイエス様は、天的な権威をもって、誰も知らない神の国の真理を解き明かし、罪の赦しを宣言されました。
そしてまた、神にしかできない数々の不思議な業(奇跡)を行われました。盲人の目を開き、生まれつきの足なえを立たせ、人々のあらゆる病を癒されました。また悪霊を追い出し、水の上を歩き、言葉だけで嵐を静め、死人を生き返らせることさえなさいました。
その結果、ユダヤ教一色の社会において、多くの群衆がイエス様のところに押し寄せて来るようになったのです。そこで、ユダヤ教の指導者たちは、その由々しき事態に恐れをなし、またイエス様に対する妬みから、イエス様を葬り去ろうと企むようになるのです。
そこで神は、このような人間の悪しき企みによって御子イエス・キリストが十字架に架けられることを良しとされ、その事を通して、全人類の救いという大事業を成し遂げられるのです。
だからこそ、イエス様は神であられるにもかかわらず、人々のなすがままにされ、何の抵抗もされず、されるがままに十字架に渡されたのです。
群衆も、十字架のイエス様に向かって、「もし、神の子なら自分を救ってみろ」と罵声を浴びせました。ユダヤ教の指導者たちも、「いま十字架から降りてみろ。そうすれば信じよう」と侮辱しました。また、イエス様の両脇の十字架につけられていた犯罪人の一人も、イエス様を罵りました。それ程までに、イエス様は無力に見えました。
しかし、イエス・キリストは決して無力ではなかったのです。イエス様が、ご自分が十字架に架かることを知っていながら何の抵抗もされなかったのは、ご自分から進んで十字架に向かって歩んでおられたからなのです。
「だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある」と言われたとおりです。
その証拠が、イエス様が十字架上で発せられた7つの言葉の中の6番目の言葉にありました。それが「完了した」(ヨハネ19:30)という言葉です。
これは不思議な言葉です。客観的に見れば、されるがままに十字架に釘付けられた、無力なイエス様のように見えました。しかし実は、そのようにしてイエス・キリストは、父なる神から授かった定めである『人類の罪の贖い』を十字架の上で完了されたのです。
今日の一言:キリストは私のために命を捨てて下さった。
鶴田健次
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