永遠の世界
いきなり変な質問をしますが、あなたは、死後に”永遠の世界”があることをご存知ですか? このメッセージは、「永遠の世界って何?」とか、「そんなものあるわけないよ!」と思っている方にぜひ読んでいただきたいものです。
ある日、かげろうとバッタが一緒に遊んでいました。夕方になった時、バッタはかげろうに、「今日はこれでやめて明日また遊ぼう」と言いました。かげろうは、「明日ってなに?」と聞きました。バッタは、「夜になると暗くなり、その後しばらくすると明るくなるでしょ?
それを明日というんだよ」と答えました。しかし、結局、かげろうはバッタの話が理解できませんでした。
ある日のこと、バッタがカエルと一緒に遊んでいました。カエルは、「もうじき寒くなるから、しばらく一緒に遊べないね。また来年会おう」と言いました。するとバッタは、「来年って何?」と聞きました。カエルは、「来年というのは、寒い冬が終わって、暖かくなったら来るものだよ」と言いました。しかし、バッタはカエルの話を理解できませんでした。
人は誰でも、もしその人が本当に望むなら、『永遠の命』を得ることができます。しかし、この世の事しか解らない人は、「永遠の命って何?
そんなもの信じないよ!」と言うのです。
ところで、あなたはなぜ自分が今いる所に住んでいると思ってらっしゃいますか? あなたのその所での生活は、そこに住んでいる理由をどう考えているかで大きく違ってくるものです。
あなたがそこに住んでいるのは、仕事がそこにあるからですか? 家をそこに買われたからですか? それとも学校に行くためですか? あるいは家族や親しい友人がいるからですか? おそらく、それぞれが色んな理由でそこに住んでおられることでしょう。
しかし、ここで立ち止まって考えてみて下さい。毎日、仕事に行って、帰って寝て、また仕事に行きます。時どき旅行に行ったり、映画を見たり、友達と食事をしたりして楽しく過ごします。その繰り返しで10年、20年、30年、40年があっという間に過ぎていきます。
そこであなたにお聞きします。人生とは果たしてそれだけの事でしょうか? それだけの事のために人間は生きているのでしょうか? もし人生がそれだけのものなら、人生は空しくはありませんか? 年を取るにつれて、寂しさ、空しさ、死の恐れが増すだけです。
しかし、そうではありません。人生はそれだけではないのです。人生にはもっと素晴らしい意味があり、目的があり、永遠の希望があるのです。なぜなら神がおられるからです。私たちの存在よりも遥かに確かな存在として神はおられるのです。ところが、ただ目に見えないという理由だけで人は神を信じようとしないのです。私もかつてはそうでした。
そんな中、物事を見る視点が変わり、色んな事を聞いて、学んで、解かってくると、目からうろこが落ちて、神の存在を疑いようのない事実として私は信じるようになりました。その神は、日本人の頭の中にある八百万の神のように、自分たちの都合に合わせて人間が作った神々などではなく、永遠の中に存在しておられる偉大なお方です。
その偉大な神は、天地万物を造り、今の世の世界と永遠の世界とを支配し、罪を持ったままでは永遠の地獄に行くしかない人間のために、ご自分の独り子イエス・キリストを遣わし、人間の身代わりとして十字架に架けることによって人間の罪を裁き、また三日目に死からよみがえらせることによって、信じる者に永遠の命を与えることを保証して下さったのです。
ですから、この世の人生は、キリストにある救いを手に入れることが最大の目的ということになるのです。なぜなら、私たちは、自分の罪のために永遠の裁きが定められているからです。
あなたは、この事実と本気で向き合ったことがありますか? それとも、あなたは確かな根拠をもって、死後の世界などないと言い切ることができますか?
もしできなければ、それが事実かどうかを確かめるために、少しの時間を使ってみて下さい。キリストにある救いを得ずに永遠の滅びを刈り取るとしたら、それはあまりにも失うものが大き過ぎるからです。
今日の一言: 永遠の命は失うにはあまりにも損失が大きい
鶴田健次
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失敗に学ぶ人生
人生には、失敗はつきものです。何かをやろうとしたら、最後までスムーズにやり遂げることなど滅多にありません。ほとんどの場合、人は途中でくじけそうになったり、諦めかけたりするものです。
しかしながら、自分の経験だけでなく多くの人々の経験から分かることは、失敗を通して色んなことを学ぶことができるということです。
そもそも英語のSUCCESS(成功)という言葉は、「後から来る」という意味のラテン語に由来しています。それが何の後から来るのかというと「失敗」の後からなのです。つまり、成功とは失敗の後から来るものだということです。特に、大きな失敗は、一時的には大きな痛手にはなりますが、その度合いが大きいほど、めざましい変化につながります。なぜなら自分を真剣に変革しようという気持ちが生まれるからです。
大失敗したり、大病を患ったりした人は、その中で多くのことを考え、学び、人間的にも大きく成長して、以前よりずっと魅力的な人間になることができます。最悪の失敗が最良の結果をもたらすこともあるのです。
世界最高峰に7度の登頂を果たした米国の登山家ピート・アサンズは、「エベレストに挑んだ最初の4回の遠征では、どうやったら登れないかを学びました。失敗は、アプローチに磨きをかけるチャンスを与えてくれるものです」と言っています。
その意味では、中途半端な失敗よりも、大きな失敗の方が良いくらいです。人間というのは、どうも成功からはあまり学ばず、失敗して初めて真剣に物事を考え、大切なことを学び取っていくようです。
聖書の中にも、多くの失敗をした人々の人生が記されています。信仰の父と呼ばれる、あの偉大なアブラハムでさえも大きな失敗を経験しました。その一つが創世記の16章に出てくる出来事ですが、彼の生涯において最も大きな失敗でした。
アブラハムはこの失敗によって、13年間も神からの呼びかけを聞くこともなく、神からの導きも一切ないという神の不在経験を余儀なくされたのです。逆に、その失敗は家庭内にいろいろな問題を引き起こし、そればかりか、4000年以上たった今日においても、世界はその問題を引きずっているのです。
神を信じるクリスチャンにとっても、失敗のない人生、失敗のない信仰生活はありません。創世記16章のような出来事は信仰者の誰もが必ず引き起こす間違いです。つまり、それは神から与えられた約束を私たちの力で実現しなければならないと考えてしまうことからもたらされる失敗です。
「失敗は成功のもと」という格言があるように、神を信じる人生においても、私たちは多くの失敗の痛みを通して、多くのことに気づかされ、成長していくものです。やがてイスラエルの民も自分たちの国を失うという痛みを経験しながら、はじめて神の教えを喜びとし、昼も夜もそれを口ずさむというライフスタイルを形成していきます。
「苦しみに会ったことは、私にとって幸いでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)という詩篇の記者の告白も、自らの失敗を通して学んだ結実でした。
創世記に記されたアブラハムの全生涯を見渡すとき、彼に対する神の導きの中に失敗の経験が無駄なく組み込まれているように見えます。失敗それ自体は、辛く、痛みを伴うものですが、それがやがて益となり、アブラハムをして「信仰の父」と呼ばれる者に導かれた神の恵みと真実に目を留めたいものです。
今日の一言: 成功は失敗の後から来る
鶴田健次
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