本物の友情
これはアルブレヒト・デューラー(1471-1528年)というルネッサンス時代のドイツの画家が描いた「祈りの手」という作品にまるわる感動的なお話です。
今から500年ほど前、ドイツのニュールンベルグの町にデューラーとハンスという若者がいました。二人とも貧しい子だくさんの家に生まれ、小さな時から画家になりたいという夢を持っていました。二人は版画を彫る親方の元で見習いとして働いていましたが、毎日忙しいだけで絵の勉強ができません。
思いきってそこをやめて絵の勉強に専念したいと思いましたが、絵の具やキャンバスを買うお金もままならないほど貧しく、働かずに勉強できるほど余裕はありませんでした。
ある時、ハンスがデューラーに一つのことを提案しました。
「このままでは二人とも画家になる夢を捨てなくてはいけない。でも、僕にいい考えがある。二人が一緒に勉強はできないので、一人ずつ交代で勉強しよう。一人が働いてもう一人のためにお金を稼いで助けるんだ。そして一人の勉強が終わったら今度は、別の一人が勉強できるから、もう一人は働いてそれを助けるんだ。」
どちらが先に勉強するのか、二人は譲り合いました。
「デューラー、君が先に勉強してほしい。君の方が僕より絵がうまいから、きっと早く勉強が済むと思う。」
ハンスの言葉に感謝してデューラーはイタリアのベネチアへ絵の勉強に行きました。ハンスはお金がたくさん稼げる鉄工所に勤めることになりました。
デューラーは「一日でも早く勉強を終えてハンスと代わりたい」とハンスのことを思い、寝る時間も惜しんで絵の勉強をしました。
一方、残ったハンスはデューラーのために早朝から深夜まで重いハンマーを振り上げ、今にも倒れそうになるまで働きお金を送りました。
一年、二年と年月は過ぎていきましたがデューラーの勉強は終わりません。勉強すればするほど深く勉強したくなるからです。ハンスは「自分がよいと思うまでしっかり勉強するように」との手紙を書き、デューラーにお金を送り続けました。
数年後ようやくデューラーはベネチアでも高い評判を受けるようになったので、故郷に戻ることにしました。
「よし今度はハンスの番だ」と急いでデューラーはニュールンベルクの町へ帰りました。二人は再会を手を取り合って喜びました。
ところがデューラーはハンスの手を握りしめたまま呆然としました。
そして、泣きました。
なんとハンスの両手は長い間の力仕事でごつごつになり、絵筆がもてない手に変わってしまっていたのでした。
「僕のためにこんな手になってしまって」と言ってデューラーはただ頭を垂れるばかりでした。
自分の成功が友達の犠牲の上に成り立っていた。
彼の夢を奪い、僕の夢が叶った。
その罪悪感に襲われる日々を過ごしていたデューラーは、
「何か僕に出来ることはないだろうか」
「少しでも彼に償いをしたい」
という気持ちになり、もう一度、ハンスの家を訪ねました。
ドアを小さくノックしましたが、応答はありません。でも、確かに人がいる気配がします。小さな声も部屋の中から聞こえきます。デューラーは恐る恐るドアを開け、部屋に入りました。するとハンスが静かに祈りを捧げている姿が目に入りました。
ハンスは歪んでしまった手を合わせ、一心に祈っていたのです。
「デューラーは私のことで傷つき、苦しんでいます。自分を責めています。神さま、どうかデューラーがこれ以上苦しむことがありませんように。そして、私が果たせなかった夢も、彼が叶えてくれますように。あなたのお守りと祝福が、いつもデューラーと共にありますように」
デューラーはその言葉を聞いて心打たれました。デューラーの成功を妬み恨んでいるに違いないと思っていたハンスが、妬み恨むところか、自分のことより、デューラーのことを一生懸命祈ってくれていたのです。
ハンスの祈りを静かに聞いていたデューラーは、祈りが終わった後、彼に懇願しました。
「お願いだ。君の手を描かせてくれ。君のこの手で僕は生かされたんだ。君のこの手の祈りで僕は生かされているんだ!」
こうして、1508年、友情と感謝の心がこもった「祈りの手」という名画が生まれました。
今日の一言: 愛の大きさは犠牲の大きさに比例する
鶴田健次
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逆境は人生の宝
木の切り株を見ると年輪がその木の樹齢を刻んでいますが、人間も歳を取ることを「年輪を加える」などと形容します。これは木の年輪から来ています。
ところで、山にある木の切り株の年輪の中心は、真ん中でなく、北側に片寄っているのをご存知ですか。それは、日光と南風を十分に受けて育つ南側は年輪の目が幅広くなり、それだけ肉付きがよく成長するからです。反対に北側は、寒さから身を守るために、厚い皮をつけて戦います。したがって、年輪の目が幅狭く、中心がそちらに片寄るのです。
ところが木が伐採され、用材として製材されるとき、太陽の光を受けて育った南側の部分は板になり、北風を受けて育った部分は柱になります。柱は家を建てる際に、最も重荷がかかり、大切な部分となります。材木でも、逆境で苦労して鍛えられてこそ、柱という大切な部分に用いられるものになるのです。
人生には、浮き沈みが付きものであり、順境もあれば逆境もあります。人は、誰も逆境や試練の中を通ることを望みません。しかし、人生は長い目で見れば、むしろ順境よりも逆境の苦しみの方が、私たちに益をもたらすことが多いのではないでしょうか。
かつてイスラエル王国に黄金時代をもたらしたソロモン王は、イエス・キリストをして「栄華を極めた」と言われた人ですが、その人生の晩年に、聖書の中に次のような言葉を記しました。
「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。
」(伝道者の書7:14)
人生の逆境は、その中で今までの自分の歩みを反省させ、人生を深く考えさせるための大切な機会であり、愛なる神様からの贈り物なのであるという意味の言葉です。人は、繁栄や順境の中では、自らを誇ったり、傲慢になって、他者を思いやる心を失いがちです。そういう人は、人の言葉に注意を払わず、道を踏み外して暴走し、やがて人生の行き詰まりを経験することになるのです。そして、ようやく、そこで初めて、自分自身を省み、人生の建て直しをすることができるのです。
「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)
この詩篇119篇の作者と同じように、あなたも「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした」と言い得る日が来ることを信じて、今の試練を乗り越え、逆境を意味のあるものとして生かしてください。
真摯な心で聖書を開き、そこで示された神の言葉に従順に従うなら、どのような絶望的な人生を送っている人でも、真の希望を見出すことができます。そして、今の試練は、これからの人生に決して無駄になることはないのです。
今日の一言: 逆境は人生の宝
鶴田健次
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ヴィア・ドロローサ
(悲しみの道)
今日は、Good
Fridayです。
今から約2000年前の今日、人類史上最大の事件がありました。
それは神の子キリストが人類の罪を贖うために十字架に架かられた事件です。
イエス・キリストはピラトの官邸で行なわれた裁判で死刑判決を受け、十字架を担いで処刑の場となったゴルゴダの丘まで歩いて行かれたわけですが、その曲りくねった道をVia Dolorosa(悲しみの道)と呼びます。そして、その道に沿ってイエス・キリストにまつわる出来事を記念した14のステーションが設けられています。
まず、第一ステーションから第九ステーションまでは旧市街の通路の傍らにあります。最初の地点は主イエスが裁判を受けたとされる総督ピラトの官邸の跡地です。そこからライオン門通りを隔てた向かい側に第二ステーションがあり、第三から第五ステーションまでがエル・ワド通りの細い路地の中に、第六から第八ステーションまでがヴィア・ドロローサ通りの南側に、第九ステーションが聖墳墓教会に隣接するコプト教会の中庭にあります。残りの第十から第十四ステーションまでは聖墳墓教会の内部に設けられています。
第一ステーション (主イエスが死刑判決を受けられた場所)
第二ステーション (主イエスが鞭で打たれ、十字架を背負わされた場所)
第三ステーション (過酷な拷問で体力を無くされた主イエスが倒れたとされる場所)
第四ステーション (母マリヤが群衆に混じって主イエスを見られたとされる場所)
第五ステーション (クレネ人シモンが主イエスに代わって十字架を担がされた場所)
第六ステーション (ベロニカが主イエスの顔をベールで拭ったとされる場所)
第七ステーション (主イエスが二度目に倒れたとされる場所)
第八ステーション (主イエスがエルサレムの婦人たちに語りかけられた場所)
第九ステーション(主イエスが三度目に倒れたであろうとされる場所)
担いできた十字架はここで降ろされました。この辺りの丘がゴルゴダの丘ということになります。以下、第十ステージ以降は聖墳墓教会の中にあります。
第十ステーション(主イエスが服をはぎ取られる)
ローマの兵隊たちは、主イエスを十字架につけると、くじを引いて、その着物を自分たちで分け合ったとされています。
第十一ステーション(主エスが十字架に釘づけられる)
第十二ステーション(主イエスが息を引き取られる)
これはゴルゴダの丘の左側に設置されており、そこで主イエスが息を引き取られたと言われています。現在はギリシア正教会の管理下にあり、巡礼者の多くは長時間ここで足を止めます。それはゴルゴタの丘の岩盤が露出しているくぼみの箇所を直に触れることができるからです。
第十三ステーション(主イエスが十字架から降ろされる)
夕方になると、アリマタヤ生まれの金持ちでヨセフという人が来ました。彼も主イエスの弟子であり、彼が総督ピラトのところに行って、主イエスの体の下げ渡しを願い出、ピラトはそれを了承しました。
第十四ステーション(主イエスが墓に葬られる)
これは主イエスの墓とされる場所にあります。福音書によれば、主イエスの遺体はアリマタヤのヨセフという人が所有する墓地に埋葬されました。
このヴィア・ドロローサの歩みは、巡礼者の熱意によって自然発生したもののようです。主イエスを信じる者たちにとって、主イエスが十字架を担いで歩まれた道を辿ることは自らの信仰を見つめ、新たな献身の時となる良き機会です。
あるいは、こうして14のステーションの一つ一つを聖書に照らし合わせて思い巡らすだけでも十字架の恵みが身に沁み、心に沁みます。あなたもこのヴィア・ドロローサを歩いて、深い感動を味わってみませんか?
今日の一言:十字架の悩みは我が罪のためなり
鶴田健次
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神の国の数学
人類に与えられた最高の贈り物である‘聖書’を読むと、この世の数学と異なる‘神の国の数学’とも言うべき、人生に素晴らしい結果をもたらすための原則が記されています。
たとえば、私たちは愛されることを切望しながらも、思うように愛してもらえないという経験をします。人からの信頼を得たいと願いながら、信頼を得られなかったり、信頼を失うことさえあります。つまり何かを得ようと努力する反面、それを得られないばかりか反対に失うことすら経験するのです。
そういう現実の中で、聖書は、愛されることを求める代わりに愛することを、得ようと努める代わりに与えることを勧めながら、愛することが愛される道であり、与えることが得る方法であるということを教えています。つまり、自己中心ではなく他者中心の生き方こそ、私たちに良い結果をもたらすのだということです。
自己中心の世界を晩餐のテーブルに例えるなら、それは世界中のご馳走が並べられた豪華な晩餐のテーブルの両側に座っている人々のようです。これだけのご馳走があれば楽しくて幸せな時を過ごせるはずですが、そんな雰囲気は全く感じられません。人々はみな一様に不満を持ち、怒りで一杯です。それもそのはず、人々は全員、左手にはフォーク、右手にはナイフをくくりつけられており、その柄の長さは一メートルもあるのです。これでは、どうやっても食べることができません。せっかく目の前に美味しいご馳走があるというのに、それを得られないのです。
それに対して、他者中心の世界も、ほとんど同じ光景です。同じご馳走が並べられ、晩餐のテーブルに着く人々は全員、一メートルの柄の付いたナイフとフォークを持っています。ところが、そこにいる彼らは笑い、歌い、とても楽しそうです。皆がご馳走を堪能し、満足しています。では、なぜこれほどまでに状況が似ているのに、こんなに違った結果が見られるのでしょうか。
その理由は簡単です。自己中心の世界では、人々はみな目の前のご馳走をまず自分の口に入れようとしていました。一方、他者中心の世界では、人々は皆、長さ一メートルの柄の付いたナイフとフォークで、テーブルの向かい側に座っている人々に食べ物を与え、自分はそのお返しに向かい側の人から食べさせてもらっていたのです。人を助けることで、自分自身も助けられ恵まれるのです。
相手が望むことを先にすれば、あなたが望むことも現実になります。しかし、あなたが望むことを優先するなら、あなたは自分が望むものすら得られず、やがて行き詰まり、その基本姿勢を修正しなければならなくなります。この重要な原則を忘れないようにしましょう。
今日の一言: 得ることよりも与えることをまず実行しよう
鶴田健次
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