本当の幸福を見つけよう!
幸福といっても相対的な幸福の定義は十人十色、百人の人がいれば百の幸福の定義があるかも知れません。通常、私たちが思う幸福とは、「苦しみがなく、人や物事が自分の願い通りに動き、自分にとって都合のいい状態、喜ばしい状態」を指すのではないでしょうか。
確かに、嫌な事がなく、経済的に恵まれ、健康で、地位と名誉、美貌や権力などに恵まれれば、人生は楽しいでしょう。だから、人は本能的にそういう生きる条件をよくして、楽に生きたいと願い、自分を取り巻く状況が願い通りになることが幸福だと思うのかも知れません。
しかし実際、そのような幸福と思える状態は長続きせず、そういう状態を必死で求めれば求めるほど、辛いことも増してくるのが現実ではないでしょうか。他人の目にはどう映ろうが、この世に生きているかぎり、苦しみを経験しない人はありません。条件がすべて整っているように見える人であっても、心の虚しさを覚えていることがよくあるもので、幸福とは苦しみから切り離しては成り立たないようです。つまり幸福とは、人生に組み込まれている苦しみをどう受けとめ、どう向き合っていくかという姿勢と大いに関係がありそうです。
また私たちは、幸福はいま手の内にあるのではなく、いつか希望や条件が満たされたときに実現するものだと考えがちです。そして胸のわくわくする喜びこそ幸せであると思います。しかし、人生には曇りも雨も嵐の日もあります。私たちの心は移ろいやすく、常に高揚した気持ちでいることはできません。そして実際に生きているのは、昨日でも明日でもなく今だけです。
そんな現実の中で、幸福になる秘訣をメーテルリンクは、こう教えています。
「どんな些細な事柄にも輝かしい瞬間があるということを知ること。最も不幸な者たちでさえ、あるいは最も貧しい者たちでさえ、現実の彼らがどうあろうと、魂の奥底には無尽蔵の美の宝を持っている。大切なのは、ただそこから美を取り出そうと常に心がけることだ。」
また、新約聖書の多くの書簡を書いた使徒パウロは、こう言っています。
「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」(口語訳ピリピ4:11-13)
こうしたことを手掛かりに、あなたも「本当の幸福」を手に入れようとは思いませんか?
今日の一言: 本当の幸福を見つけよう
鶴田健次
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ダビデの信仰
詩篇6:6私は私の嘆きで疲れ果て、私の涙で、夜ごとに私の寝床を漂わせ、私のふしどを押し流します。6:7 私の目は、いらだちで衰え、私のすべての敵のために弱まりました。
(この箇所は単にこの日読んだ聖書箇所であって個人的な心理状態とは全く関係ない事を附記しておきます。)
罪の告白にともなう罪の赦しと清めの約束があります。ダビデが罪を犯して、預言者ナタンがそれを指摘した箇所ですがダビデは罪を告白したら、ナタンはすぐに罪の赦しの宣言をしました。罪は告白したらすぐに赦されます。けれども、罪の赦しはすぐに結果が出てくるようなものではなく押しつぶされてしまいそうな苦しみを通ることにより罪の赦しの尊さを知ることができます。
7:3 私の神、主よ。もし私がこのことをしたのなら、もし私の手に不正があるのなら、7:4 もし私が親しい友に悪い仕打ちをしたのなら、また、私に敵対する者から、ゆえなく奪ったのなら、7:5 敵に私を追わせ、追いつかせ、私のいのちを地に踏みにじらせてください。私のたましいをちりの中にとどまらせてください。
ヨブ記においてヨブが友人ら言葉に反論したときも、ダビデと同じようなことを言いました。自分が滅んでも構わないとまで言えるのは、逆に自分は何も行なっていないことを訴えているのです。この件の問題に関しては私は無罪であって、非は中傷をしている者にある、ということです。
7:6 主よ。御怒りをもって立ち上がってください。私の敵の激しい怒りに向かって立ち、私のために目をさましてください。あなたはさばきを定められました。7:7 国民のつどいをあなたの回りに集め、その上の高いみくらにお帰りください。
主は公平に裁かれる方です。ダビデは正しい裁きを国民の前で行うように私のために裁判を開いてくださいとお願いしています。これは比喩ですが正しい裁きを行なってくださいとお願いしています。
7:8 主は諸国の民をさばかれる。主よ。私の義と、私にある誠実とにしたがって、私を弁護してください。7:9 どうか、悪者の悪があとを絶ち、あなたが正しい者を堅く立てられますように。正しい神は、心と思いを調べられます。
私たちは中傷されるとき、主に弁護していただくことを求めるべきです。これがなかなかできません。心の内で苦悶です。そして思いっきり言い返したくなります。けれども、ダビデのようにある意味、攻撃的に主が裁いてくださることを願うべきです。
7:10 私の盾は神にあり、神は心の直ぐな人を救われる。7:11 神は正しい審判者、日々、怒る神。7:12 悔い改めない者には剣をとぎ、弓を張って、ねらいを定め、7:13 その者に向かって、死の武器を構え、矢を燃える矢とされる。
主は必ずきちんと裁いてくださいます。神は正確に、完璧に射止めてくださるとダビデは言っています。だから私たちは、自分で弁護しようとするのではなく、主に弁護していただくべきなのです。
死に打ち勝つ道
ある一人息子の少年が不治の病にかかっていました。来る日も来る日も、母親は、医者が診断した恐ろしい最後に息子が気づかないことを願いながら、優しく彼を看病し、本を読んで聞かせ、一緒に遊んであげました。
しかし、時が経つにつれ病状は悪くなる一方で、彼も次第に窓の外で遊んでいる他の男の子たちのようにはなれないことを考え始めていました。そして小さいながらも、死という言葉の意味を理解し始め、また自分が死のうとしていることも子供ながらに気づき始めていました。
ある日、少年の母親は彼に、多くの騎士が死を迎える最後の栄光の戦いなどが描かれた
「アーサー王と円卓の騎士」という感動的な物語を読んで聞かせました。
彼女が読み終わって本を閉じると、少年は、イギリスの古い物語に深く感動し、しばらく黙って座ったままでした。それから、子供心にずっと重荷になっていた質問をしてきました。
「お母さん、死ぬってどんなことみたい?
お母さん、それ痛い?」
またたく間に彼女の目は涙で一杯になり、それに気づかれまいと、彼女は料理中のものがあるかのようにして台所に逃れました。
彼女は、それが深い重要な意味のある質問であることを知っていました。また彼女は、それが満足に答えてあげなければならない質問であることも知っていました。そこで彼女は台所の食器棚に手をつき、その滑らかな表面を両方の拳で押しながら、子供の前に崩れ落ちないように、また子供にどう答えればいいかを示してもらうために、しばらくの間、必死で神に祈りました。
すると神はすぐに彼女に答えを示され、そこで彼女はそれをどう彼に説明すればいいかを知りました。彼女は、平静を装い、子供のいる部屋に戻るとこう言いました。
「ケネス、あなたがちっちゃな子供だったときのことを覚えてる?
一日中、元気に外で遊んで、夜になると服も脱げないほど疲れて、お母さんのベッドに転がり込んで寝てしまったことがよくあったでしょ?
そこはあなたのベッドじゃなく・・・、そこはあなたのいる所じゃなかったので、少しの間しかそこには居れなかったの。朝になって目が覚めると、思いがけないことに、あなたは自分の部屋の自分のベッドの中にいるの。あなたがそこにいたのは、誰かがあなたを愛していて、あなたをそこに運んでくれたからなの。あなたのお父さんが、その太い腕であなたを抱いて運んでくれたのよ。ケネス、死というのは、ちょうどそんなようなものかな。私たちは、ある朝、目が覚めて、自分たちが違う部屋に居るのに気がつくのよ。私たちが本来いるべきところに。なぜなら主が私たちを愛して運んでくださるから。」
神を信じる者に約束された天国の比喩を子供心に理解できた少年の顔は輝きを見せ、信頼の心で母親を見上げながら、もはや死に対する恐れも何もないことを彼女に伝えました。
この少年のようでなく、たとえ健康で元気なあなたにも、死は必ずいつかやって来ます。そのときに、あなたは天国にあなたを運ぶことのできる方を知っていますか?
あなたの大切なお子さんに、「死ぬってどんなことみたい?」と聞かれたら、あなたはちゃんと答えてあげられますか?
子供だけでなく、あなたの大切な人が死を前にしているときに、黙って立ち尽くす代わりに語るべき希望の言葉があるとしたら、あなたはそれを語れる者になりたいとは思いませんか?
今日の一言: 死に打ち勝つ道がある
鶴田健次
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可能性は自分の手の中に
イタリアの美しい都市、ヴェニスが見渡せる高い丘の上に、天才老人が住んでいました。彼は尋ねられたことには何でも答えられると言われていました。
ある日、この老人をだまそうと考えた少年たちが、小鳥を捕まえて彼の家に向かいました。少年の一人が小鳥を手にして、それが生きているか死んでいるかを老人に尋ねました。すると老人は、「私が、もし生きていると答えれば、君は指に力を入れて殺してしまうだろう。反対に、死んでいると言えば、君は手を広げ、鳥は飛んでいってしまうだろう。君の手の中には、生と死の力が備わっているのだ」と少年に答えました。
この老人の言うように、少年の手の中の小鳥が生きるも死ぬも、それは少年次第です。少年はスペードのエースを持っていると思い込み、この天才老人をだませるという自信を持ってやって来たのですが、見事にその魂胆を見抜かれてしまいました。
それどころか、この天才老人は、この愚かな少年の将来を左右する大切なメッセージを少年に伝えるのです。それは、「君の手の中には、生と死の力が備わっているのだ」というものでした。
つまり、小鳥を殺すのも生かすのも少年次第であるように、少年には、小鳥という「与えられたもの」を殺すことも生かすこともできる力があるということ。さすがに天才老人ですね。
失敗の可能性も、成功の可能性も、すべて自分の手の中にある。
これは、すべての人にとって真理ではないでしょうか。多くの人が、成功や幸せの条件を、与えられた能力、機会、環境、人などによると考えています。果たしてそうでしょうか。もし、そうであれば、なぜ多くの優秀な人が努力もせず、不幸な人生を送るのでしょうか。なぜ多くの人が与えられた機会を物にできず、素晴らしい人との出会いを壊してしまうのでしょうか。それは、与えられているものを使っていないか、使っていても正しく使っていないからです。
与えられている能力、機会、環境、人などは、いわば「手の中の小鳥」です。この「小鳥」が生きるか死ぬかは小鳥にかかっているのではなく、それを手にしているあなたに自身にかかっています。それは、人生においても同様で、与えられているものを活かすか、殺すかは、あなた次第であって、決して与えられているもの次第ではないのです。
そこで、この与えられているものの使い方がなぜ人によってこんなにも違い、その人生の明暗を分けるのでしょうか。その答えは自分自身の中にあります。
「人は誰でも自分の中に人生の脚本を持っており、誰もがその脚本を演じながら生きている」とは、アメリカの心理学者エリック・バーンの言葉です。この人生脚本とは、自分自身のセルフイメージ、つまり潜在意識の自分が見ている自分のイメージで、人は無意識のうちに、このイメージ通りの自分を演じながら生きているのです。またこのイメージはその人の思考・言動・行動に圧倒的な支配力を持ち、人は潜在意識の自分が見ている自分のように行動してしまうものなのです。
たとえば、床の上に置かれた30センチ幅の板の上を渡るのは簡単ですが、同じ板を20階建てのビルの間に渡して歩くとしたらどうでしょう。床の上の板なら、簡単に渡る自分が見えるので、平気でその行動を取りますが、ビルの間に渡された板からは落ちる自分が見えるので、その行動を取ろうとしません。しかし、とび職人なら、ビルの間に渡された板でも簡単に渡る自分が見えるので、平気でその板の上を歩いていくのです。
このように、人は自分が見ている自分のようにしか行動しないものなので、自分を価値ある人間と見ていれば、価値ある人間のように、すべてを肯定的に考え、与えられているものを有効に用いて行動を起こし、それにふさわしい結果を手に入れます。ところが、自分を価値のない人間と見ていれば、価値のない人間のように、すべてを否定的に考え、与えられているものを失敗規制に基づいて用いてしまい、惨めな結果を手に入れるのです。
あなたは、神が造られた無限の価値と可能性に満ちた人であることをご存知ですか? もしかしたら、この世の間違った価値基準の量りで量られ、価値も可能性もないと言われてきた嘘の自分を見ながら生きてはいませんか?
本当のあなたは、価値ある、可能性に満ち溢れた人なのです。
今日の一言: 失敗の可能性も、成功の可能性も、すべて自分の手の中にある
鶴田健次
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