究極の希望
「究極の希望」、この言葉を聞いて、あなたは何を連想しますか?
私たちが生きるうえで「希望」は無くてはならない大切なものです。もし希望を失えば生きることさえ難しくなります。たとえそれがどんな希望であれ、希望があれば生きる張り合いが出てくるものです。
しかし、そのような希望も、私たちの置かれた状況次第では何の役にも立たなくなる、という局面を迎えることが私たちの人生にはあるものです。そんなとき、たとえ置かれた状況がどんなものであれ、その周りの状況に左右されない、また何者(物)にも奪われない、永続的で不変的な希望があるとしたら、それこそが「究極の希望」です。
ある少年のこんな詩を読んだことがあります。この少年はキンジストロフィーという病気のために、若くして亡くなった少年です。彼が亡くなる前に、こんな詩を書き残したのです。
たとえ短い命でも生きる意味があるとすれば、それは何だろう? 働けぬ体で一生を過ごす人生にも、生きる価値があるとすればそれは何だろう?
もしも人間の生きる価値が社会に役立つことで決まるなら、僕達には生きる価値も権利もない。しかしどんな人間にも差別なく、生きる資格があるのなら、それは何によるのだろうか?
まさに、若くして死と向き合っている少年の魂の叫びです。そして、いったい誰がこの少年に、それでもなお生きていく希望を、また生きる意味を語ることができるのでしょうか。人間の思想哲学、また人生訓でしょうか。そのような人間の限りある言葉で、死を超える希望を語ることができるでしょうか・・・・。
あなたは、このように死を前にした人に希望の言葉を語ることができますか?
その場しのぎの慰めではなく、本当の希望を語ることができますか? もしそれができるなら、あなたには希望があります。しかし、もしできなければ、あなたが死を前にしたとき、あなたには希望がありません。
短い命にも、長い命と全く等しい意味を与え、何かが出来ても出来なくても、あなたの存在そのものに無限の価値を見出させ、それを裏付けるものがあるとしたら・・・・、
また、すべての人に全く同じ生きる価値と権利と資格を与えるものがあるとしたら・・・、
そして、それが70年、80年の人生だけでなく、永続的に意味を成し続けるものであるとしたら・・・、
それこそが「究極の希望」と言うにふさわしいものです。
そしてこの「究極の希望」は、どんな悲劇からもあなたを立ち直らせ、どんな絶望にも明るい光を投げかけ、人間の最後の敵である死に対してですら、胸躍る喜びと希望を与えるのです。
クリスチャンのあなた、あなたは本当にこの希望を持って生きておられますか?
この大切な真理を知らない方に、この究極の希望をちゃんと証しておられますか? 今日は、この問いかけでメッセージを終わります。
今日の一言: 人は誰でも「究極の希望」を持つ必要がある
鶴田健次
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み心によって語る
ヨブ記には友人たちのヨブに対する言葉がいかに愛がなくそれゆえ知恵に欠けているかを書いてあります。
貧しい人が教会の礼拝に来た時に差別の心がみ言葉によって清められておらず信仰があると言っているだけであることをヤコブは指摘しています。言っているだけの信仰、行ないのない信仰は魂の離れた体と同然だと言いました。
言葉だけになってその舌を制御していない罪深い姿、汚れや悪を放置したまま語り自分が語っていることに責任を持たず相手の精神的、霊的貧しさに共に住もうとする言葉ではなくないがしろにする言葉を放っているということです。ちょうど、ヨブの友人たちがその過ちに陥っていました。
「こうして、キリスト ご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立 てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げる ためであり、(エペソ4:11-12)」
自分の感情で意見を述べるのではなく神の言葉を語るように気をつける必要があります。パウロは「自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をもあなたの教えを聞く人たちをも救うことになるのです。」教える事だけでなく、自分自身に も気をつけて行ないなさいと命じています。
この発言の前にパウロは聖霊の賜物を軽んじてはならないと励ましています。教師において絶対必要条件は、神によって語っている、あるいは神に召されて語ってい るという確信で、召しによって神から贈られた聖霊の賜物があることです。
教会で多くの人々が教師になりたがっていることがあります。
教えることは自分が嫌でもそうせざるを得ない召しがあるかどうか確認しないといけません。パウロは「わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである(1コリント 9:16)」神から罪人が悔い改めることを告げずに彼がその罪で死んだのなら、あなたも告げなかったことによって死ななければいけないという戒めを受けました。
預言者エレミヤは「もしわたしが、「主のことは、重ねて言わない、このうえその名によって語る事はしない」と言えば、主の言葉がわたしの心にあって、燃える火のわが骨のうちに閉じこめられているようで、それを押えるのに疲れはてて、耐えることができません。(20:9)」語ることにはこのようにものすごい召を共ないます。
ヤコブは「私たちはみな」と書いてあるところに自分自身も含め教師は格別に厳しい裁きを受けると言うこと無欠ではなくむしろ多くの点で失敗をするものであり、失敗から免れるよう最善の努力をするべきだと言っています。
「ことばで失敗をしない人がいたら、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」
試練によって忍耐を働かせること言葉において失敗しないということは霊的成熟に繋がります。
舌を制御するために努力をするということは私たちの力でできるものではなく、大事なのは神の御霊に満たされているかを考えて語るとその言葉には知恵があり人を助けることになります。
9 わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。 10 同じ口から、賛美とのろいとが出て来る。わたしの兄弟たちよ。このような事は、あるべきでない ヤコブ3
このことが実際に起こるのです。
教会の礼拝で神を賛美し、気に食わない人の悪口を言います。これほど矛盾したことはないということです。ヤコブは、人を「神にかたどって造られた」と言っていますが、人をののしることは、神をののしっているのと同じことになると言っています。
13あなたがたのうちで、知恵があり物わかりのよい人は、だれであるか。その人は、知恵にかなう柔和な行いをしていることを、よい生活によって示すがよい。 14しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら、誇り高ぶってはならない。また、真理にそむいて偽ってはならない。 15そのような知恵は、上から下ってきたものではなくて、地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものである。 16ねたみと党派心とのあるところには、混乱とあらゆる忌むべき行為とがある。ヤコブ3
あなたの先祖は猿ですか?
人間は生まれたくて生まれてきた訳ではなく、自分で選んだわけではない母親から生まれ、自分の意志からではなしにこの世に存在するようになったことは歴然たる事実です。そしてこの事実に対する説明は基本的には二つしかありません。
一つ目は、「まったく偶然に、自然発生的に存在するようになった」とする進化論的立場です。つまり、地球ができて何十億年もの時間があれば、誰も見た訳ではないけれど、自然発生的に生物が誕生したのだとする立場です。そしてこの理論によれば、あなたの先祖は猿です。
二つ目は、「あなたは誰かによって造られた」とする創造論的立場です。そして、それは人間を始めとして、生物の構造はあまりにも合目的的にデザインされており、このようなものはたとえ数十億年の時間があっても偶然に生まれることなど不可能なことであると考えます。そして、これを造った存在は当然のことながら人間よりも遥かに優れた存在であり、これを「神」と呼びます。それによれば、あなたは猿の子孫などではなく、神が目的を持って造られた尊い存在なのだということになります。
ここでもし、数十年とか数百年、あるいは数千年で進化が起きたと言えば、誰も進化論など信じません。なぜならそんな短期間では何も起こらないことを経験的に知っているからです。つまり進化の過程を明らかな根拠もなく数十億年であるとするところに進化論のもっともらしさが生まれるのです。そして、悲しいかな、何も証明されているわけではないのに多くの人々がそれを信じさせられているという現実があるのです。
聖書では、目に見えない事実を認めることを「信仰」と言います。ですから猿から人間になる過程を見たこともないのに進化論を認めることは、一見、科学的装いをしてはいても、未だに何の証明もされてはいない訳ですから、それを信じることもまた「信仰」なのです。
あなたは猿の子孫であることを望みますか?
それとも聖書が証言するように、神の愛による最高傑作であることを望みますか?
それからもうひとつ、神の存在に関して言えば、「神は存在しない」という見解と、「神は存在する」という二つの見解があります。そこで神無しの世界観に基づけば、あなたは偶然の産物であり、あなたの存在には何の意味も目的もないことになります。なぜなら、偶然性の中には意味も目的も存在し得ないからです。
それに対して、神有りの世界観では、あなたは至高者なる神の最高傑作であり、あなたの存在には素晴らしい意味と目的があることになります。なぜなら、神の言葉である聖書がそう証言するからです。
あなたは、どちらを望みますか?
意味も目的もなく偶然に生まれた猿の子孫として生きていくことですか。
それとも素晴らしい意味と目的をもって神に造られた尊い存在として生きていくことですか。
今日の一言: あなたは猿の子孫ではなく神に造られた尊い存在である
鶴田健次
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14わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように。詩篇19章
みなさんは聖書の中の言葉をどれくらい信じておられるでしょうか。変な質問でしょうか。キリスト者であれば全てが真実だと知っているはずですよね。
私は100%聖書の言葉は真実だと受け取っています。なぜなら神がそう言われたからです。だったら書いてあることは全て行うべきなのだと言うことです。「いや、これは昔のことで今はないよ」とかイエスが「行いなさい」と言われたことを人が否定すべきことではないのです。
この世では一見、私たちに反対するかのように押し迫ってくる出来事や状況は、神のご計画がなるために起こります。神は、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方です(エペソ3:20)また、神の思いは、私たちの思いと異なり、天が地よりも高いように、神の思いは私たちの思いよりも高い、とイザヤは言いました。この信仰をもって、嵐のときに、主によって守られましょう。
イエスさまは、復活されてから、弟子たちにこう約束されました。
17信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、 18へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる。 マルコによる福音書 16
聖霊によって蛇をもつかむことができるとイエスさまは約束されました。このことはパウロ自身に起こり、病人に手を置くと癒されるとあるようにパウロは信仰によって主の命令を行い主が働かれました。
見て救われる、
8たまたま、ポプリオの父が赤痢をわずらい、高熱で床についていた。そこでパウロは、その人のところにはいって行って祈り、手を彼の上においていやしてやった。 使徒行伝28章
主イエスが地上におられたとき、病気の人々を直されたように、パウロも直すように導かれました。祈ってから、手を置きました。主へ祈ってから手を置き癒しが起こりました。
9このことがあってから、ほかに病気をしている島の人たちが、ぞくぞくとやってきて、みないやされた。
他の人々の病も癒やされました。最後は尊敬されて見送られています。たとえ言葉が通じない人々の中でも、異教的な考えを持っている人々の間でも、福音を伝えることは可能なんです。なぜなら働かられるのは主だからです。
私たちが人間の考えで福音を伝えるのではなく主の働きに任せることです。
聖霊に満たされると主の救いを証したくて仕方なくなります。キリストを述べ伝えたくていてもたってもいられなくなります。皆さんも信仰を持って聖霊に満たされている事を感謝してみると聖霊に満たされている事を知ります。イエスの救いは「完全」だと言われているから救われた私達には既に神の恵みが「完全」にあるのです。
聖霊に任せれば伝道は自然と行われます。
19それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、 20あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。マタイによる福音書 28
(LL)
一つのドアが閉ざされても
かつてモーセが数百万人のイスラエルの民を約束の地カナンに導くためにエジプトから連れ出したとき、エジプトの王パロは軍隊を率いて彼らの後を追いました。逃げるイスラエルは行く手を紅海に阻まれ、後方から追って来たエジプトの軍隊に挟み撃ちにされそうになりました。
ところが、八方塞の状態に置かれたイスラエルの民のために、神は紅海の水を二つに分けて海底に道を設け、彼らはまるで乾いた地を渡るようにして紅海を渡り、難を逃れることができたのです。
神は驚くべき力を持っておられます。天地万物を創造された神は、海を二つに分け、天からマナを降らせ、手も触れずに難攻不落の城壁を壊してしまわれます。また死人を生き返らせ、太陽を天空に止めさせ、日時計を戻すことさえなさるのです。
さらに、創造者なる神の知られざる力は、私たちの人生における「躓きの石」を「踏み石」に変える能力です。つまり一つの可能性のドアが閉ざされても、神はもう一つのドアを私たちのために開くことがお出来になるのです。また、ひとつの失敗が不思議な方法で成功の鍵となり、苦い経験が新しい段階に進む決断の時となるのです。これらはすべて聖書のこの約束の言葉に根ざしています。
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる。」(ローマ書8:28)
神は、神を愛する者のためには、必ず万事を益として下さいます。それは決して私たちの上に降りかかるすべての事が良いものであるという意味ではなく、神は私たちの人生に降りかかるどんなに醜いことでも、それを美しくすることがお出来になるということです。
神は私たちの人生の最悪の経験を通して、私たちを強め、正しくし、謙遜で誠意ある者に作り変え、最良の結果をもたらして下さるのです。
あなたは今、一つのドアが閉ざされた経験をしておられませんか?
しかし心配は無用です。なぜなら、神はあなたのためにもう一つのドアを用意しておられるからです。
今日の一言: 一つのドアが閉ざされても、もう一つのドアが開かれる
鶴田健次
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