自分を変える
あなたは自分を変えようと試みたことがありますか?
その結果はどうでしたか?
自分を変えるのは簡単ではないと思いませんか?
クリスチャンにとって、自分を変える一番良い方法は、自分の古い生活習慣を捨て、イエス・キリストの生き方を新しい習慣として取り入れることだと言えます。これがどんな自分の努力よりも効果のある方法です。エペソ書4:22-24にこう書いてあります。
「すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、 心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。」
神は、私たちを即座に変えることもお出来になりますが、ゆっくり私たちを開発する方法を選んでおられるようです。イエス様は、ちょうど神がイスラエルの民に『約束の地』を“少しずつ”占領させていかれた(申命記7:22)ように、弟子たちの訓練においても慎重でした。神は私たちの人生にも段階を追って働かれることを好まれるのです。
では、なぜ私たちが変わり、成長するのに、そんなに時間が掛かるのでしょうか。4つの理由を考えてみました。
① 私たちはゆっくりとしか学べない者だからです。
私たちは、問題の原因をすぐに他人のせい、また状況のせいにしてしまうので、同じ問題を繰り返す傾向があります。私たちは、何かをちゃんと身につけるには、何十回も一つのレッスンを学び直さなければなりません。その中で、本当の問題が何であるかを学ぶのです。イスラエルの歴史は、私たちが如何に神からのレッスンを忘れてしまい、すぐにまた古い行動パターンに逆戻りしてしまうかを例証するものです。私たちは何度も同じ経験をしなければ学べない者なのです。
② 私たちに捨て去るべきものがたくさんあるからです。
多くの人がカウンセラーのもとに行き、長年に渡って生じた内面の問題をすぐに直してもらおうと期待しますが、実際には、それが直るには時間がかかります。私たちの問題のほとんどは、また悪い習慣のすべては、一夜にして身に付いたわけではないので、即座に改善されるものではないのです。悪い習慣を取り除き、良い習慣と入れ替えるためには骨の折れる取り組みが必要になります。聖書はこれを、「古い自分を脱ぎ捨てて、新しい自分を着ること」と呼びます。たとえ私たちが信仰によって新しくされても、取り除かれ、入れ替えられるべき古い習慣や行動パターンが私たちの中にまだたくさん残っているのです。
③ 成長は、しばしば痛みと恐れが伴うものだからです。
変化のない成長などありませんし、恐れと損失のない変化もありません。また、痛みのない損失もありません。すべての変化は、ある種の損失を伴うものです。私たちは、新しいものを経験するために古いものを手放さなければなりません。しかし、私たちはこれらの損失を恐れるのです。たとえ私たちの古い習慣が自分に害をもたらすものであっても、それらは擦り減った靴のように、少なくとも馴染み深い快適さがあるので替え難いのです。
④ 良い習慣は、身に付けるのに時間がかかるからです。
私たちの性格は、すべての習慣の総和であるということを知る必要があります。私たちは習慣的に親切でなければ自分を親切だとは言えません。私たちはいつも正直でなければ自分を誠実とは呼べません。私たちの習慣は、私たちの性格を定義するのです。
自分を変えるということは、今までとは違う新しい習慣を身に付けるということです。新しい習慣を身に付けるには一つの方法しかありません。それは、その習慣を実践し続けることで、その習慣が借り物ではなく自分のものになるということです。それには時間がかかります。即座に身に付く習慣はありません。その事で、パウロは弟子のテモテにこう言っています。「すべての事にあなたの進歩があらわれるため、これらの事を実行し、それを励みなさい」(1テモテ4:15)
今日の一言: 新しい習慣を身につけよう
鶴田健次
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セルフコントロール(自制)の大切さ
今日は、「セルフコントロール(自制)」の大切さについて考えてみました。
自制をできる人は自分の気持ちを支配します。
彼らは気分に支配されたりはしません。世界でなされてきたほとんどのものは、たとえそれをする気分でなくても、それを実行に移す人々によって成し遂げられています。「自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ち壊された町のようだ。」(箴言25:28)
自制をできる人は自分の言葉に気をつけます。
彼らは口を開く前に心にギアを入れます。言うべきかどうかを制御するためです。一旦、口から出た言葉は、引っ込めることができません。「自分の口を見張る者は自分の命を守り、くちびるを大きく開く者には滅びが来る。」(箴言13:3)
自制をできる人は自分の反応を抑えます。
あなたは冷静さを失う前にどれだけのことができますか。「人に思慮があれば、怒りをおそくする。その人の光栄は、そむきを赦すことである。」(箴言19:11)
自制をできる人は自分のスケジュールに忠実です。
もしあなたが自分の時間をどのように使うかを決めなければ、他の人(物)がそれを決めるでしょう。そういう生き方がもたらす結果は不本意な人生です。「そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」(エペソ5:15-16)
自制をできる人は自分のお金を上手に管理します。
彼らは稼ぐお金よりも少ないもので生活し、残りを将来のために投資します。立てた予算の価値は、そのお金はどこに行ったのだろうと思うより、そのお金にどこに行って欲しいかを言うことにあります。「知恵のある者の住まいには、好ましい財宝と油がある。しかし、愚かな者はこれをのみ尽くす。」(箴言21:20)
自制をできる人は自分の健康を維持します。
もちろん特別な素晴らしい例外はありますが、健康であれば、より多くの事を成し遂げ、それを楽しむことができます。「各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ちなさい。」(Iテサロニケ4:4)
あなたは、どの領域で自制を身につける必要がありますか? あなたが今日この自制の大切さに目覚めて訓練を始める決断をするなら、あなたの明日は素晴らしいものになるでしょう。しかし、自制を継続させていくためには意志の力だけでは十分ではありません。あなた自身の力よりも大きな力が必要です。それは聖霊によって与えられる力です。
「神が私たちに与えてくださったものは、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」(2テモテ1:7)
今日の一言: 自制は聖霊の実
鶴田健次
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あなたは試練にどう向かう?
人生には試練は付きものです。生きていれば誰もが試練や苦難を経験します。それが生きていることの証しです。そして、この試練をどう受け止めるかで人生の進路が大きく変わります。
「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これも、あれも神のなさること。」(伝道の書7:14)
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。 」(詩篇119:71)
一般的には、苦しみは不幸と考えるのが普通です。しかし、この詩篇の記者は、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした」と言っています。それは、「苦しみ」というものの一面が、神の愛と恵みの発露だからです。
ルカの福音書15章に登場する「放蕩息子」は、父親から離れて放蕩三昧の生活をし、飢えと苦しみと孤独のどん底の中で、自分の間違いを認め、悔い改めて父親のもとに帰って来ました。父親は、息子が離れて行くのを止めさせることも出来たのですが、敢えてそうはしませんでした。その息子の自由意志に任せたのです。
しかし、その息子がいない間、父親は断腸の思いで息子の帰りを祈りつつ待っていました。それが、父親のわが子に対する本物の愛です。自ら自分の間違いに気づいて帰って来るのを、父親は一日千秋の思いで待ち続けたのです。そして、私たちに対する神の愛も同様なのです。
「神は悩んでいる者をその悩みの中で助け出し、そのしいたげの中で、彼らの耳を開かれる。」(ヨブ記36:15)
この御言葉を注意して読んで下さい。「神は悩んでいる者をその悩みから助け出される」とは書いてありません。神は、人を「悩みの中で」助け出されるとあります。悩みや苦しみがなければ、人はなかなか自分の人生の意味や目的を真剣に考えようとしません。
「これを信じれば、病気が治ります」とか、安易に約束する宗教がたくさんありますが、神は苦しみや悩みの現実の中で、その苦しみや悩みからすぐに助け出されるのではなく、その中で人生を深く考えさせ、自分から罪を悔い改めで神に立ち返らせて下さることで真実の愛を表わされる方なのです。
ヨハネの福音書9章にあるお話ですが、イエス様が道の途中で、生まれつきの盲人をご覧になられました。それを見た弟子たちは、イエス様に「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」と尋ねました。するとイエス様は、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のみわざがこの人に現われるためです」と、それまで誰も聞いたことのない驚くべき答えをされました。そして、その盲人の肉眼はイエス様の奇蹟よって開かれ、また彼の霊の目も開かれたのです。
神様の愛は、すべての人に注がれています。そして、神の究極的なご計画は、人間の神に対する不信仰の結果である罪と死(永遠の滅び)から、人間を救うことにあります。そのために、神はご自分の独り子イエス・キリストをこの世に遣わされ、人間の罪の身代わりとして十字架につけてくださり、三日目に復活させて下さったのです。
あなたの身代わりとして御子イエスを十字架につけられたのは、あなたに対する神の愛の現われです。なんと驚くべき神の御愛でしょうか。この愛の神に背を向け、罪の生活を続けながら、「神などいない。この世のどこに愛があるのだ」言っている人は、土に深い穴を掘って、その中に入り、その穴の上にふたをして、「太陽の光など何も見えないではないか」と言って不平を言っている人と同じです。
試練は、苦しむためのものではなく、その苦しみの中で神を知り、自分を知り、目が開かれて新しい人生を生きるようになるためのものなのです。
今日の一言: 苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。
鶴田健次
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収穫の原則
「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます」(IIコリント9:10)
あなたは、自分の必要の供給源として、神だけに頼る決心をすることの大切さを考えたことがありますか? 私たちクリスチャンは、自分の必要を満たすために、神だけを頼りにし、他の何ものにも頼らないことを神に申し上げる必要があります。
私たちは、供給のチャンネルを供給の源と勘違いすることがあります。神は、あなたの必要を備えるために、そのチャンネルとして、仕事から得る給料を用いられるかも知れません。しかし、あなたの雇い主は神の備えの単なるチャンネルに過ぎないのです。そして、神が望まれるなら、いつでも別のチャンネルに移すこともおできになるのです。
もしあなたが、自分の必要を満たすために何か別のものを頼りにし、供給のチャンネルと供給の源を間違い始めると、明らかな警告のしるしが見え始めます。それは「心配」です。
たとえば、供給のチャンネルの代わりに、供給の源として仕事を頼りにしているとしましょう。すると、あなたは、会社で事がある度に、「仕事を無くしたらどうしよう?」と心配し始めるに違いありません。しかし、知って下さい。供給のチャンネルは閉ざされることがあっても、あなたの必要を満たす供給の源は常に活発に働き、あなたのために備えられているのです。しかし、あなたが神以外のものを頼りにしているなら、あなたは備えていただくチャンスを神に与えないのです。
あなたは、自分に何が欠けているかを知ると、その必要を満たすチャンネルを選ぶ権利を神に与えなければなりません。それは、あなたが選ぼうとしているものと違うかも知れません。実際、神は、あなたが神を頼りにし続けることを学ぶために、意図的に違うチャンネルを選ばれることがあるのです。しかし、そこには大切な目的があることを見落としてはいけません。
神をどこまでも神として生きていくことこそ、クリスチャン生活の醍醐味です。神が、あなたの必要に対し、あなたが不可能と思っている方法で、あるいはあなたが考えたこともない方法でそれを満たして下さるのを見ることは、なんとスリルに満ちたものでしょうか。
今日の一言: 供給の源は神である
鶴田健次
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