恵み
今日は、「恵み」について考えてみました。
「恵み」という言葉は、たとえば「自然の恵み」というふうに、「恩恵」という意味で使われますが、キリスト教では、原罪を持つ私たちにただ信仰によって与えられる神の愛による罪の赦しと救いのことを「恵み」と言います。つまり、愛される資格のない者が愛されること、赦される資格のない者が赦されること、これが「恵み」です。
殺人の罪を犯して終身刑の判決を受けるとしたら、それはこの世の人生を棒に振る絶望的なことです。しかし、私たちの中にある罪の問題を解決しないで永遠のさばきを受けることは、終身刑どころの絶望ではありません。
そんな絶望の中にいた私たちが、救い主イエス・キリストを信じるだけで罪を赦され、永遠のさばきではなく永遠の命の世界に生きる者とされるというのは、私たちにとってあまりにも分の良すぎる話だと言えます。ところが、この分の良すぎる話がどんなに有難い話であるかは、神が払われた犠牲の大きさを知らずには理解できないことです。
ある病院の待合室に二組の家族の姿がありました。また、そこには何とも言えない張りつめた空気が漂っていました。一つ目の家族は、二十歳前後の若者たち4、5人とその母親。若者たちは、革ジャンを着て、髪の毛を染め、顔のあちこちにピアスをし、どことなく荒々しい感じでした。
待合室の隅のほうには、一人の警官が立っていて、彼らを監視しながらレポートを書いていました。明らかに何かの事件が起こった事が判ります。
部屋の反対側の方には、どことなく品の良い男性が、医者が着る白いガウンを着て、妻と娘と一緒に座っていました。彼らの顔は暗く沈み、目を赤くして、深い悲しみの中にあるようでした。そこに一人の女性記者がいて、何やら特ダネになりそうなことをその男性から聞いて、メモを取っていました。
一つ目の家族の若者たちは、「ゲシュタポ」と呼ばれるギャングの一味でした。彼らの中には一つの慣わしがあり、新しいメンバーになるには、走る車の中から誰かをピストルで撃って殺し、“男”であることを証明しなければなりませんでした。
その「ゲシュタポ」のメンバーである兄弟たちの一番下の弟はリックという名で、心臓病にかかって死にそうでした。心臓移植だけが命を取り留める方法でしたが、彼らには保険がありませんでした。心臓病の手術代は国の福祉のほうで支払われる予定でしたが、かなりの高額になる医者代は自分たちで払わなければなりませんでした。
しかも、心臓の提供者がまだ見つからず、彼は助かる見込みがほとんどありませんでした。しかし、その日の夕方になって、突然、心臓の提供が可能になったということで病院に呼び出されたのです。
一方、その男性医師は有名な心臓病の専門医でした。彼は、心臓移植のために病院に呼ばれ、病院に駆け込んで来て初めて、死んだばかりの心臓提供者が自分の息子であることが分かりました。しかも、これが新聞記者にとって特ダネとしての価値があったのは、心臓を提供する相手が、この男性医師の息子を殺したギャングの弟だったからです。
そこで問題は、この一部始終が分かった今、この男性医師が自分の息子の心臓を、息子を殺した犯人の弟に提供するかどうかということでした。この医師と彼の家族はクリスチャンで、このいきさつが分かってしばらく病院のチャペルで祈っていました。もし彼が息子の心臓をこのギャングに与えるとしたら、手術も引き受けるのだろうかということも大きな疑問でした。一体、この世のどこに自分の息子の心臓を息子を殺した犯人の兄弟に与える者がいるか。また誰がその父親にその移植手術を頼むことができるか。
待合室の緊張はどんどん高まってきました。もしその医師が息子の心臓をそのギャングに与え、手術をしたとしても、彼らには高額の医者代を払うことができません。
待合室の緊張が頂点に達した時、その男性医師は、死にそうになっているギャングの母親を自分の方に呼びました。部屋中のすべての人が彼の方を注目します。そこで彼はこう言いました。「私が手術を致しましょう。息子の心臓をあなたの息子さんに提供します。そして、医者代は要りません。神様も私に同じ事をして下さいましたから。」
待合室に歓声がわきあがりました。彼らは大声で「リックに新しい心臓が与えられた。しかもタダでだ。おい信じられるか。タダでだぜ!」 その医師は、そこにかがみ込んで泣きました。
そこで、警察官が大喜びをしているギャング達に向かって、「おい、君たち、確かに君たちにはタダであっても、彼にはタダなんかじゃない」と言いました。彼にとっては息子の命という大きな代価が払われたのです。しかも彼は、その息子の心臓を息子の命を奪った者に与えたのです。なぜ彼はそこまでの事をしたのでしょうか?
「恵み」というのは、こういう事を言うのです。神が下さる本当の恵みの意味を理解するためには、恵みは確かにタダで受け取るプレゼントであっても、そのために「計り知れない神の犠牲」があったということを知る必要があります。
神は、無情な人々に大切な御子イエス・キリストの命を奪われてしまいました。そして神は、いわば高価で罪も汚れもないその心臓を、キリストを殺した者たちの魂に移植されたのです。だから、この偉大な医師である神が、この移植を可能にするために、どれ程までの代価を支払われたのかが分からなければ、私たちは神の恵みの本当の意味を理解できないのです。
今日の一言: 計り知れない犠牲がもたらした驚くべき恵み
鶴田健次
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祝福の法則
あなたは、神が人を祝福される時には、ある法則があることをご存知ですか?それは、神は人を「祝福の器」として祝福されるという法則です。「器」というのは、料理をのせる食器のように、他のものを運んだりするときに用いるものです。つまり、「祝福の器」とは、神の祝福を他の人に運ぶために用いられる道具だということです。
信仰の父と呼ばれるアブラハムは、その人生において、多くの富を得た人でしたが、それはアブラハムが自分だけの祝福を願ったからではありません。彼は神の約束の言葉を聞いたとき、その神の言葉を信じて、言われた通り、遠い見知らぬ土地に移り住みました。それは彼が75歳の時でした。
その神の約束の言葉というのは、アブラハムだけを祝福するという約束ではなく、アブラハムと彼の子孫を通して、地上のすべての民を祝福するという約束でした。自分がこの世を去り、後の時代に生まれて来る子孫を通して世界の人々を神の祝福にあずからせるという約束でした。つまり、自分以外の人々を神の祝福に導くという約束を受け入れ、その祝福の担い手として生きたからこそアブラハムも祝福されたのです。
ヨセフの場合はどうだったでしょうか。ヨセフは、兄弟によって奴隷として売り飛ばされるという悲惨な経験をしました。しかしエジプトで奴隷となっていたヨセフは、神の不思議な導きによって、エジプトの王パロの見た夢を解き明かし、ついにエジプトの総理大臣になりました。これはヨセフが自分だけのことを考えて生きたからではありません。神と人のために生きるヨセフを神が祝福の器として用いられたからです。
神は総理大臣となったヨセフを通して、7年間の大豊作のときに食物を蓄えさせ、7年間の大飢饉が見舞ったとき、多くの人々を救ったのです。さらには、自分を売った兄弟たちを飢饉から助け出し、イスラエル民族を絶滅から守ることで、祝福を運ぶ器として用いられたのです。
私たちは、自分の祝福を望むなら、自分だけが祝福されることを求めてはなりません。ヤコブの手紙にこう書かれています。「求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。」(ヤコブ4:3)
ヤコブは、神に祈り求めても与えられないのは、自分だけの楽しみのために使おうという間違った動機で祈り求めるからだ、と書いています。自分だけの祝福を求めても神は答えてくださいません。私たちは、祝福されたいと思えば、他の人と一緒に祝福されることを願わなければなりません。
イエス様が男だけで5000人の人々を満腹にされたとき、イエス様が用いられた5つのパンと2匹の魚は、少年がイエス様に差し出したものでした。このように、人のためにと差し出されたものを神が祝福なさるのは、さらにその祝福が、周りの人々に広がっていくようにするためなのです。
今日の一言: 神は「祝福の器」を祝福される
鶴田健次
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ひざまずいて神に祈ろう
今日は、「祈り」について考えてみました。
求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、明けてもらえるであろう。(マタイ7:7)
これは、イエス・キリストが語られた『山上の説教』の一節です。
ここでイエス・キリストが言っておられるように、祈りというものは、「獲得の力」、「発見の鍵」、「打開の力」です。
私たちは誰でも、人生の行き詰まりを経験することがあります。それはちょうど、道のない荒野にいるのと同じで、どこに向かって進めばいいのか皆目見当がつきません。そこで、私たちは周りにいる人に聞きながら、あちこち歩いてはみるものの、結局、人は助けにならないことを経験します。
エレミヤ書33章3節に、「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す」という有名な御言葉があります。
この言葉は、昔、イスラエルがバビロン帝国に支配され、いつになったら自由になれるのか分からず、将来に何の希望も見出せなかったとき、神が預言者エレミヤを通してイスラエルの民に語られた言葉です。そこで、この言葉どおり、彼らが神を呼び求めると、神は素晴らしい将来の計画を彼らに示されたので、その八方ふさがりの状況の中で、彼らは生きる根拠と希望を見出すことができたのです。
かつて日銀の総裁であられた速水総裁は、「変えることのできるものを変える勇気、変えることのできないものを受入れる冷静さ、その両者を見分ける知恵を与えたまえ」という、ラインホールド・ニーバの祈りを常に座右においていると言われたことがあります。
経済界の要職にあった日銀総裁がクリスチャンであり、祈りが座右の言葉とは素晴らしい証しです。忙しさの中にあっても、いつも立ち止まって祈ることを知っている人は、大きな事を任せられ、またそれをこなすことができます。また祈りは、私たちを不必要な失敗や失望や心配から救ってくれます。
ニューヨーク生命保険会社に、リー・バックスという人がいました。彼がマンハッタンの本社で仕事をしていると、「会長がお呼びです」と秘書から連絡がありました。彼は、「いよいよ念願のマーケティング担当副社長のポストが手に入るぞ」と思いました。営業部員として入社して20年、この日を目指して彼はひたすら働いてきたのです。
彼は、当時、東部地区の営業部長でしたが、会社への貢献度を考えれば、全国一万人のセールスマンを統括する会社の要ともいうべきポストに起用されることは誰もが考えることでした。会長室は一つ上の階で、彼は、階段の方が早いので、階段を使いました。
ところが、階段の途中の踊り場で、突然立ちどまり、ちょっとの間、彼は考え祈りました。「どんな事態も冷静に受け入れ、最善の方向にもっていくことのできる賢明さと落ち着きを与えてください」と。それから彼が会長室に入ってみると、実は左遷の命令でした。彼はがっかりしました。怒りが込み上げてきました。しかし祈りのおかげで、「神はさらに素晴らしい計画を持っておられるに違いない」と思うことができ、その落胆と怒りが一瞬でおさまったのです。
リー・バックスは椅子にゆったりかけて、「わかりました」と答えることが出来ました。そして彼は神の祝福を信じ、いつも祈りを大切にしながら会社のために努力していきます。そして4年後、彼は念願の副社長に抜擢されるのです。もし、この時、彼が祈ることをしていなければ、冷静さを欠き、副社長の器ではないというレッテルを貼られていたことでしょう。
祈りの欠如は、主の御心から目をそらさせます。また冷静さを欠かせ、信用を失わせます。物事を自分本位に見させ、判断を間違わせます。そして、神の時を待てなくさせ、間違った選択をさせてしまうのです。
今日の一言: 日々ひざまずいて神に祈ろう
鶴田健次
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