自分の将来
人はみな同じような環境で生まれるわけではありません。物質的に豊かな環境で、必要なものがすべて与えられ、何ひとつ苦労することなく育っていく人もいれば、生まれたときから貧しくて、欲しい物も手に入らず、ひもじい思いをしながら育っていく人もいます。
しかし、世界の歴史を見ると、生まれた環境が、必ずしもその人の将来を決めるものではないことが分かります。いやむしろ、世界を変えるような偉大な働きをした人物の中には、不幸な環境と誰もが思うような中で生まれ育った人が決して少なくはないのです。
アブラハム・リンカーンは、丸太小屋で生まれました。雨漏りのする家で育ち、普通の教育も受けられず、小さい頃は、母親から聖書を読むことと、書くことを教わっただけでした。しかし、彼は独学で学んで弁護士になり、やがてアメリカの大統領になって南北を統一する偉大な働きをしました。
トーマス・エジソンも学校を中途で止め、それから耳が聞こえなくなりましたが、やがて世界的な発明王になりました。また、ヘレン・ケラーは、2歳のときに熱病をわずらい、目が見えず、耳が聞こえず、口が利けない、という三重の苦しみを負いますが、良い先生と神様に出会い、また骨を刻むような努力の末に、世界の歴史にその名を残す「二十世紀の奇跡」と呼ばれる偉大な人物になりました。
このように、必ずしも、その人の育った環境が恵まれなかったから不幸になるのではありません。そう考えれば、自分の不幸を周りの人や環境のせいにして、一番肝心なポイントを見逃している人のなんと多いことでしょうか。
人生は、自分の撒いた種の刈り取りです。また人生は自分がどんな心の姿勢を選び、どんな行動を選んできたかの結果です。つまり、瞬間瞬間の「心の姿勢の選択」と「行動の選択」の結果が、いま現在の「あなたの人生」の全てなのです。誰のせいでもありません。少し厳しい言い方をしていますが、これは聖書が教える永遠の真理です。つまり、『人は自分のまいたものを刈り取る』のです。
そのように、今あなたが手にしている人生の現実は、あなたが意識するしないに拘わらず、あなたが「望んで選んで来たもの」です。すべては、あなたの選びの結果です。「こんな結果など望んだことなどない!」と言われるかも知れません。しかし、あなたは常に自分の望むとおりにすべての事を選んで来られたのです。
現在、手にしている幸せも不幸も、自分が選んできたものの結果であるという事実に気づき、それを認めることは非常に重要なことです。この状況受容を本当に出来たときに、あなたは自分の人生を変えるためのスタートラインに立つことができるのです。
また、あなたには更に大切な選択があります。それは永遠の選びということです。この世における幸せも不幸も自分が選んできたものの結果であるように、永遠の世界、つまり「永遠の天国」と「永遠の地獄」も自分が選ぶものです。
神の言葉である聖書は、「すべての人が罪を犯したために神の栄光を受けられなくなり」、その結果、「いちど死ぬことと、死んだあとに永遠のさばきを受けることが定められている」という事実を明らかにしています。
人間が死ぬという現実は、人間の罪がもたらしたものです。そして、この罪がもたらす最終的な結果は、永遠の滅び、永遠の地獄です。しかも、この定めは、一人の例外もなくすべての人に与えられているものです。ですから、すべての人が、この滅びの定めから救われなければならない立場に置かれているという重大な事実に気づく必要があるのです。
ところが、神も聖書も知らない世の中の人々は、この絶望的な事実を知らず、そのために何の危機感も持っていません。その理由は、彼らがこの事実を正しく受け止めるために必要な情報を持っていないからです。
ところが、聖書のことが少しずつ解かり、また聖書を通して本当の神に対する理解が与えられ、また聖書が教える人間の罪ということが解かってくると、罪には裁きが伴なうという法の原則に基づいて、永遠の滅びという崖っぷちに立たされている自分の姿が見えてくるのです。
そして、その絶望的な現実に対して、あなたは自分で何もすることができないので、愛と憐れみの神は、あなたを愛するあまり、御子イエス・キリストの命を犠牲にすることによって、あなたを救うこととされたのです。それがイエス・キリストの十字架の贖いです。
そして神は、このキリストの十字架によってあなたの救いの業を完成し、この救いを無償のギフトとしてあなたに差し出しておられるのです。しかし、たとえ救いがギフトであっても、それを受け取らなければ自分のものにはなりません。
そこで、あなたは、この無償のギフトを感謝していただくか、それとも拒否するかの選択をしなければなりません。ここに、永遠の命はあなたの選びにかかっているという事実が明らかになるのです。
この神からの救いのギフトを貰うことを選べば、あなたは永遠の命を自分のものにできます。ところが、その救いのギフトを貰わないことを選ぶなら、あなたは自分で永遠の滅びを選ぶことになるのです。
この世の人生が選択であるなら、永遠の人生も選択であるということです。
今日の一言: 人生は自分で選ぶもの
鶴田健次
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人は誰でも変わることができる
一人の少年が、野球のバットとボールを持って裏庭に出ました。「僕は世界一のバッターだ」。彼は自分にそう言い聞かせて、ボールを宙に放り上げバットを振りました。しかし、結果は空振りです。彼は迷わずボールを拾うと、再び放り上げ「僕は世界一のバッターだ」と言いながらバットを振りました。また空振りです。
彼は、さらに集中力を高めながら再びボールを放り上げ、さっきよりも更にきっぱりとこう言います。「僕は世界一のバッターだ!」。そして。力いっぱいバットを振りました。三度目の空振りです。少年はバットを地面に置くと、満面の笑みを浮かべて言いました。「わかったぞ。僕は世界一のピッチャーなんだ!」
実に、見上げた姿勢です。彼は物事の明るい側面を見ようとしています。物事が思うようにいかないときは、不満を言う代わりに、その状況の中から良い部分を探し、明るい考えで心を満たすなら、その明るい考えがその人の人生を形作っていくことになります。
心理学者のウィリアム・ジェイムスは、「今世紀最大の発見は、心構えを変えることで人生を変えられるということがわかったことである」と言いました。
感動的な女性の話をご紹介します。
その女性は何をしても続かない人でした。
田舎から東京の大学に来て、サークルに入るものの、すぐにイヤになって所属を変えるような人でした。
そんな彼女にも、やがて就職の時期が来ます。
最初の就職先はある食品メーカーでした。しかし、勤め始めて3ヵ月で上司と衝突し、辞めてしまいます。
それ以降に就職する会社も、「つまらない」、「やりたくない」、「私のやりたかったことじゃない」と就職しては辞めてしまうの繰り返しでした。そうしたことを繰り返していくうちに、彼女の履歴書は入社と退社の繰り返しになり、ついに、彼女を正社員として雇うところはなくなってしまいました。
生活のためには働かなくてはならない。結局、彼女は派遣会社に登録します。ところが派遣も勤まりません。派遣先の社員とトラブルを起こしては辞めてしまう・・・。彼女の履歴書には辞めた派遣先のリストが長々と追加されることになります。
そんな日々が続いたある日のことです。彼女に新しい仕事がやって来ました。スーパーのレジ打ちの仕事です。当時のレジは今のものとは違い、いちいち値段をキーボードに打ち込まなければならず、タイピングの訓練が必要でした。
ところが、勤めて1週間も経たないうちに、「私はこんな単純作業のためにいるのではない」と考えるようになりました。
そんな事を思っていた矢先、彼女のお母さんから電話がかかってきました。
「帰っておいでよ」
受話器の向こうからお母さんの優しい声が聞こえてきました。
母の一言で決心し、辞表を書き、荷物をまとめ出したとき、机の引き出しの奥から1冊のノートを見つけました。小さい頃に書きつづった大切な日記でした。そのノートに「ピアニストになりたい」とはっきりと書かれていたページを彼女は見つけました。彼女が唯一続けられたもの、それがピアノの練習でした。「今また嫌になって逃げ出そうとしている」....そして思い起こしたかのように、お母さんに泣きながら電話するのです。「お母さん、私、もう少しここでがんばる」と....
彼女は辞表を破り捨て、翌日も単調なレジ打ちの仕事をするために出勤します。
ある時、「2、3日でもいいから」と頑張っていた彼女に、ふと考えが浮かびます。
「ピアノを練習していくうちに鍵盤を見ずに弾けるようになった・・・」と
そして、心に決めたのです。
「そうだ、私流にレジ打ちを極めてみよう!」
彼女はキーの配置を覚え、ピアノを弾く気持ちでレジを打ち始めました。すると、不思議なことに、これまでレジしか見ていなかった彼女は、今まで見もしなかったところへ目がいくようになったのです。
最初に目に映ったのはお客の様子でした。「ああ、あのお客さん、昨日も来ていたな」、「ちょうどこの時間になったら子ども連れで来るんだ」、「この人は安売りのものを中心に買う」、「この人は高いものしか買わない」など・・・。
そんなある日、いつも期限切れ間近の安い物ばかり買うおばあちゃんが5000円もする尾頭付きの立派な鯛をカゴに入れてレジへ持ってきたのです。
彼女はびっくりして、思わずおばあちゃんに話しかけました。
「今日は何かいいことがあったのですか?」
「孫がね、水泳の賞を取ったんだよ。」
「そうですか! それは、おめでとうございます!」
これがきっかけで、彼女はたくさんのお客と話ができるようになったのです。
ある日のことでした。
「今日はすごく忙しい」と思うほど、忙しい日でした。
そして店内放送が響きました。
「本日は込み合いまして大変申し訳ございません。どうぞ空いているレジにお回りください!」
ところが、わずかな間を置いて、また放送が入ります。
「本日は込み合いまして大変申し訳ございません。重ねて申し上げますが、どうぞ空いているレジにお回りください!」
そして3回目、同じ放送が聞こえてきた時に、初めて彼女はおかしいと気付いたのです。そして周りを見て驚きました。お客は彼女のレジにしか並んでいなかったのです。店長はお客に「どうぞ空いているあちらのレジへお回りください」と言った、その時でした。
「私はここへ買い物に来ているんじゃない。あの人としゃべりに来ているんだ。だからこのレジじゃないとイヤなんだ」
その瞬間、彼女はワッと泣き崩れてしまいました。
その姿を見て、お客が店長に言いました。
「そうそう。私たちはこの人と話をするのが楽しみで来てるんだ。今日の特売はほかのスーパーでもやってるよ。だけど私は、このお姉さんと話をするためにここへ来ているんだ。だからこのレジへ並ばせておくれよ。」
彼女はポロポロと泣き崩れたまま、レジを打つことができませんでした。
仕事というのはこれほど素晴らしいものだと、初めて気付いたのです。
そうです。すでに彼女は、昔の自分ではなくなっていたのです。
今日の一言: 心構えを変えれば誰でも変わることができる
鶴田健次
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人生に対する新しい解釈
イエス・キリストの誕生は、一言で言えば、この世を大きく二つに分けた出来事であったと言えます。それは、この世の歴史を紀元前と紀元後に分けただけでなく、暗黒の世界に光を、絶望の世界に希望をもたらした出来事だったからです。
また同時に、それは私たち個人の人生をも二つに分ける出来事でした。つまり、罪のために永遠の裁きと滅びを余儀なくされていたすべての人類に、キリストを信じる信仰によって、罪の赦しと永遠の命が与えられることとなったのです。
さらにまた、キリストにある人生は、この問題だらけの世界に住みながら、永遠の命の世界に生きる者としての新しい視点、そして物事に対する新しい解釈が与えられるのです。
パウロは、ある時、非常に素晴らしい神秘的な体験をします。それは神から天国を見せてもらうという体験でした。その体験はあまりにも特別な体験なので、彼が思い上がることのないように、神は彼の体に一つのとげを与えられました。
そのとげは、ある種類の病いで、伝道者パウロにとっては致命的な病気でした。そこで彼は必死になって、その病気が癒されるようにと祈りました。しかしその病気は癒されませんでした。パウロには「癒しの賜物」が与えられていて、彼が祈ると他の人の病気が次々に癒されたのですが、彼自身の病気は直らなかったのです。
ところが、その時、彼は神の声を聞きます。それは、「私の恵みはあなたに対して十分である。わたしの力はあなたの弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」という語りかけでした。
そこでパウロは、目からうろこが落ちる経験をするのです。
「もし私に何の問題もなく、私が強ければ、私は自分の力だけに頼って、自分の力だけで生きていたに違いない。それでは、私に出来ることしか出来ないことになる。しかし、この病気のおかげで、私も弱い人間の一人であり、神の恵みと助けを祈り求める者とされている。だから神が私を助けて、私に出来ない筈の大きな働きをこうしてさせてらっしゃるのだ。であれば、キリストの力が私に宿るように、むしろ、喜んで自分の病気、自分の弱さを誇ろう。たとえどんな困難や行き詰まりがあっても、それに甘んじよう。なぜなら、私が弱い時にこそ、私は強いからだ。」
そういう気付きが与えられ、本当の強さはそこにあるのだということを悟ることができたのです。
星野富弘さんの詩に「つばき」という詩があります。こんな詩です。
木は自分で動きまわることができない
神様に与えられたその場所で精一杯枝を張り、
許された高さまで、一生懸命伸びようとしている
そんな木を、私は友達のように思っている
これはきっと、ご自分のことと重ね合わせて歌ってらっしゃる詩だと思います。身動きもできない体になって、そこで初めて神の愛に気付き、神の愛の招きを受け入れることができた。頼りにならない自分の力で生きていたときには、人生の意味も目的も何も考えずに、ただ生きていただけだった。
ところが、首から下が全く動かなくなって初めて、つまり自分に頼れなくなって初めて、神の手の中に自分を預けてみた。すると、こんな体にならなければ見えない世界が見えてきて、ただそれを詩に表わすことによって、何百万人もの人々に力と勇気と励ましを与えられる生き方ができている。そして、来るべき時が来たら、この不自由な体から解放され、永遠に朽ちない完全な体が与えられて天国に生きる者とされる。クリスチャンとは、こういう人生の解釈に生きる者なのです。だから、どんな事があっても強いのです。
将棋に勝つのは、将棋の駒が立派だからではありません。その差し手が強いからです。たとえ紙でできた将棋の駒であっても、将棋の名人は、その駒を使って、誰とどんな勝負をしても必ず勝つのです。私たちはいわば将棋の駒です。大切なことは、名人である神の言われる通りに生きることです。そうすれば勝利の人生が与えられるのです。
今日の一言: キリストにある人生には、物事に対する新しい解釈が与えられる
鶴田健次
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祝福の法則
あなたは、神が人を祝福される時には、ある法則があることをご存知ですか? それは、神は人を「祝福の器」として祝福されるという法則です。「器」というのは、料理をのせる食器のように、他のものを運んだりするときに用いるものです。つまり、「祝福の器」とは、神の祝福を他の人に運ぶために用いられる道具だということです。
信仰の父と呼ばれるアブラハムは、その人生において、多くの富を得た人でしたが、それはアブラハムが自分だけの祝福を願ったからではありません。彼は神の約束の言葉を聞いたとき、その神の言葉を信じて、言われた通り、遠い見知らぬ土地に移り住みました。それは彼が75歳の時でした。
その神の約束の言葉というのは、アブラハムだけを祝福するという約束ではなく、アブラハムと彼の子孫を通して、地上のすべての民を祝福するという約束でした。自分がこの世を去り、後の時代に生まれて来る子孫を通して世界の人々を神の祝福にあずからせるという約束でした。つまり、自分以外の人々を神の祝福に導くという約束を受け入れ、その祝福の担い手として生きたからこそアブラハムも祝福されたのです。
ヨセフの場合はどうだったでしょうか。ヨセフは、兄弟によって奴隷として売り飛ばされるという悲惨な経験をしました。しかしエジプトで奴隷となっていたヨセフは、神の不思議な導きによって、エジプトの王パロの見た夢を解き明かし、ついにエジプトの総理大臣に抜擢されるという栄誉にあずかるのです。これはヨセフが自分だけのことを考えて生きたからではありません。神と人のために生きるヨセフを神が祝福の器として用いられたからです。
神は総理大臣となったヨセフを通して、7年間の大豊作のときに食物を備蓄させ、7年間の大飢饉が見舞ったとき、多くの人々を救ったのです。さらには、自分を売った兄弟たちを飢饉から助け出し、イスラエル民族を絶滅から守ることで祝福を運ぶ器として用いられたのです。
私たちは、自分の祝福を望むなら、自分だけが祝福されることを求めてはなりません。ヤコブの手紙にこう書かれています。「求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。」(ヤコブ4:3)
ヤコブは、神に祈り求めても与えられないのは、自分だけの楽しみのために使おうという間違った動機で祈り求めるからだと書いています。自分だけの祝福を求めても神は答えてくださいません。私たちは、祝福されたいと思えば、他の人と一緒に祝福されることを願わなければならないのです。
あなたは如何ですか? あなたの周りにいる人々の祝福を願い、そのために何をされていますか?
イエス様が男だけで5000人の人々を満腹にされたとき、イエス様が用いられた5つのパンと2匹の魚は、一人の少年がイエス様に差し出したものでした。このように、人のためにと差し出されたものを神が祝福なさるのは、さらにその祝福が、周りの人々に広がっていくようにするためなのです。
これは神が定められた「祝福の法則」なのです。
今日の一言: 神は「祝福の器」を祝福される
鶴田健次
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挑戦
「1000回の憧れより、たった1度の挑戦のほうがずっと価値がある」とは、サミュエル・スマイルズの言葉ですが、確かに、憧れだけで何の行動にも移らなければ何も生まれませんが、ただの一度でも何かに挑戦すれば、そこには成功につながる可能性が生まれます。結局のところ、「成功の反対は失敗ではなく、何もしないことである」と言われる所以はそこにあるのだと思います。
ところで、”挑戦”という言葉を聞いて、あなたはどういう印象を持たれますか?
私は、”挑戦”という言葉を聞くと、胸が膨らみ、内側から沸々と力が湧いてきます。そして、ある時などは、この言葉のおかげで、自分が目指してきた目標とは別のものに意識が向けられている自分に気付かされ、再び初心に戻って頑張ろうという思いにさせられることがあるものです。
そのように、目標の実現に向かって挑戦を続ける中で絶えず経験することの一つは、困難のゆえに、本来の目標を他のものに替えてしまおうとする誘惑です。しかし、そういう理由で目指すべき目標を替えても、また同じことの繰り返しになるのは火を見るより明らかです。
その意味では、成功の秘訣は「目標の一定不変」にあると言っていいかも知れません。つまり、熟慮して人生の目標を掲げたなら、どんな事があってもその目標を他のものに替えないことです。たとえ大して力のない人でも、一つのことに忍耐をもって全力で取り組めば、大きな成果が得られるものです。
世界にキリストの福音を広めた一番の立役者である使徒パウロは、福音宣教のために生きる自らの姿勢をこのように言い表しています。
「兄弟たちよ。私は、すでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」(ピリピ3:13、14)
これはクリスチャンの地上での生活を競争に例えているわけですが、勝利の栄冠を得るためには目標を目指して一心に走らなければなりません。その原則を”挑戦”ということに当てはめるなら、挑戦する者は、目標を目指して一心に走ることが大切です。
競争においては、わき見をすることは禁物です。それはルール違反にはなりませんが、栄冠を得ることにはつながりません。競争においては、目標を目指して一心に走ることだけが勝利につながる秘訣です。
日本を代表するプロスキーヤーであり登山家の三浦雄一郎さんは、65歳の時に、5年後の70歳でエベレスト登頂を果たすという目標を立てられました。それ以来、外出時には常に両足に重りを付け、20kg近いリュックを背負うというトレーニングを再開されたそうです。当初は藻岩山登山ですら息切れがするという状態であった体力を5年がかりで回復させ、2003年5月22日、世界最高峰のエベレストに世界最高齢となる70歳7か月での登頂を果たされました。
あなたも何か意味のある目標を掲げて”挑戦”をしてみませんか? そして、いつまでも若々しく生きてください。
今日の一言: 目標を目指して一心に走ろう
鶴田健次
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