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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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投影の心理

 



 皆さんは、友達に自分が避けられているような態度を取られたりすると、相手にも色んな事情や都合があるのかも知れないのに、そういう事はあまり考えず、嫌われてしまったのかと思い、必要以上に相手の顔色をうかがうようになったりしたことがありませんか?

 

 もちろん、実際に嫌われているという場合もあるでしょうが、そうではない場合も実にしばしばあることなのです。にも拘わらず、嫌われていると思い込み、まるで負のスパイラルにでも陥ったかのように、悪い事ばかりを考え、悩み、そういうものを引き寄せてしまいます。そういう場合、どうすればすぐに嫌われてると思わないようにできるでしょうか。

 ではまず、相手が自分を嫌っていないと想定してみましょう。相手が嫌っていないにも拘わらず、自分は嫌われていると感じてしまうとしたら、心の中では、どんな動きが起きているのでしょうか。それは投影の心理が働いていると考えられます。私たちは心の中にある物を外に映し出し、外に起こっている出来事に色づけをして見ることがあります。このように心の内面を外に映し出すことを投影と言います。

 

 例えば、星空を見て、「きれいな星空だなあ」と思う人もいれば、なんとも言えない淋しさを覚える人もいます。夜空に星が輝いているという光景は同じなのに、人によって感じ方が違うのです。それは、人それぞれの心理状態が影響しているからです。

 

 同じ物を見るにしても、赤いサングラスと、青いサングラスをかけて物を見るのでは、物の色が違って見えるようなもので、その時の心理状態によって物の見方、感じ方が変わってくるのです。相手が嫌っていないにも拘わらず、嫌われているように感じてしまうことを投影の心理を使って考えてみると、自分の心の中の何を外に映し出しているのでしょうか?

 

 もし相手が嫌っていると感じていることが、投影だとしたら、自分で自分を嫌っているマインドを相手に映し出していると考えられます。自分を嫌うマインドを外に投影した場合、例えば以下のような感じで、物事を捉えがちになります。

 

 ・自分が自分のことをよく思っていないように、人も自分のことを良く思っていないのではないのだろうか。
 ・自分が自分のことを受け入れられないように、人も自分のことを受け入れられないのではないのだろうか。

 

 このように、潜在的に心が捕らえてしまうのです。そこで大切なことは、まず投影に気付くということです。相手に嫌われていると感じていたのは、自分が自分を嫌っていたのを投影していたのだと気付いているのと、投影に気付かずに、人に嫌われているのだと思いながら人と接するのとでは天と地の違いがあります。

 

 相手が自分を嫌っているのでは?と、人のせいにしていたものを、自分の投影として取り戻し、そう感じるのは自分のせいなのだとして、改めて捉え直すことが変化への第一歩になります。「自分のマインドを投影していたからなんだ」と思うことができれば、自分のマインドに変化を起こすことで、人への感じ方が変わり、「嫌われてしまうんじゃないか?」という恐れがなくなる希望が持てます。

 

 自分で自分のことをどう思うかを変えていくことで、嫌われてしまう恐れを消していけるわけです。では、他人から嫌われていないと感じる心理を作り出すには、どうしたらいいのでしょうか。また、他人から好かれているとか、受け入れられていると、捉えられる心を作っていくには、どうしたらいいでしょうか。

 

 自分が自分のことを、嫌っているマインドを投影することが、他人から嫌われているのでは(?)と感じる心理を作り出すのですから、他人から嫌われていないと感じる心理を作り出すには、自分を嫌っていないマインドを投影できるようになればいいわけです。

 

 自分のいいところも、不出来のように思っているところも、ひっくるめて自分なんだという具合に、自分を受け入れることができると、このマインドが外に投影されるようになります。すると、自分で自分を受け入れられているように、他人も自分を受け入れてくれているはずだと、心が捉えていくようになります。

 

 同じように、自分のことを愛するように心掛けていくと、このマインドが外に投影されるようになり、自分で自分のことを愛しているように、人も自分を愛してくれているはずだ、と心が捉えます。他人が、どう思っているかの真意は分かりませんが、心がそのように捉えていくようになっていけば、他人を善意的に捉えていくので、恐れがなくなり、楽に人と付き合えるようになります。

 

 また、恐れがなくなっていき、善意的に他人のことを捉えていくようになると、実際に人から善意的に捉えられていくようになるものです。良い投影を作るためには、自分を受け入れること、自分を愛することを日常的に意識するといいでしょう。

 

 

 今日の一言: 自分を愛し、自分を受け入れよう

 

 

 鶴田健次

 


 

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2021.05.31 23:09 | 牧師室より

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人の思いと神の思い

 

 

「人の心には多くの計画がある、しかしただ主のはかりごとだけが成る」(箴言19:21)

 

 これはソロモンの箴言にある有名な御言葉です。確かに、私たちには色んな思いや計画がありますが、明日の命も分らぬ身である私たちの思いや計画は不確かです。それに対し、すべてのものをその摂理の中で導かれる主のはかりごとだけが成るというのは普遍的な真理です。その意味において、私たちがどこに目を向け、何を指針に生きる道を選ぶかは非常に重要なことです。

 

 ある男が海辺を歩いていた時、魔術のランプを拾いました。男がランプをこすると、突然、煙と共に巨人が現われました。その巨人は、「ご主人様、願いごとは何でしょうか?願いを一つだけかなえて差し上げましょう」と言いました。すると、男は考えたすえに、「一年後の新聞を持って来てくれ」と頼みました。株式市場の株価を先に知って、そこに全財産を投資することで巨万の富を得ようと考えたからです。


 巨人はすぐさま一年後の新聞を持って来ました。男はわくわくする思いで株価表を探しました。しかし偶然にも、訃告欄を見ることになりました。すると、驚くなかれ、そこに自分の死亡の知らせと葬式の日時が書かれていたのです。人の思いや計画の不確かさが表わされている話です。

 

 また、人生には多くの思い込みがあり、そのために見るべきものが見えていないということがよくあります。旧約聖書の第二列王記5章に、ナアマン将軍の癒しの物語が記されています。ナアマンはアラムの大将軍でした。勝利の凱旋の度にきらびやかな軍服をつけ、誇らしげに歓呼の中を進む勇士の身体は、実はライ病に侵され、心は悩みで満ちていたのです。
 
 誰にも話せない身体のただれや汚れ、家で軍服を脱ぎ、その身体を見る時の辛さを思うとき、彼の常勝の戦いはその内なる怒りの爆発だったのかも知れないことを感じます。

 ナアマンはイスラエルとの戦いで、ひとりの少女を捕虜にして家に連れ帰り、妻の侍女としました。少女はナアマンの妻の悩みを聞き、ナアマン将軍がイスラエルの大預言者エリシャの所に行けば癒してもらえるのにと言いました。

 ナアマンは王の紹介状と、謝礼のための金、銀、晴れ着を持参し、癒される期待と希望に胸をふくらませ、意気揚々とイスラエルへ向かい、エリシャの家の入口に立ちました。ところが、預言者エリシャは直接彼を迎えることもせず、使いを送って彼に伝言を伝えます。

 「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります」

 

 それを聞いたナアマン将軍は、そんなことでライ病が治るはずがない、と烈火のごとく怒りました。彼は、当然エリシャが自分を迎え、イスラエルの神の名を呼び、患部に手を置いて、祈ってくれるだろうと思っていたのです。癒してもらう者が、癒し方まで心で決めているというのは、なんとも変な話であり、そこに傲慢な心が見え隠れします。

 このように、人生には様々な思い込みがあります。ナアマンは大将軍で、数々の実績の裏付けがあり、行く先々で手厚くもてなされてきた自尊心の塊のような人です。そのような彼の自尊心が、軽く扱われてしまったのです。

 しかし、これはナアマンだけでなく、すべての人の中にある問題ではないでしょうか。私たちは自分の思っていたようにならないと、すぐに怒り出してしまう弱さと愚かさがあり、それに気づかずに人のせいにして、恨んだり憎んだり許せなかったりするのです。

 ところが、ナアマンには賢明な家来がいました。周りに良き友や助言者を持つ人は幸いです。ナアマンの家来はナアマンに近づいて言いました。

 

 「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい。』と言っただけではありませんか。」

 家来が賢明なだけでなく、将軍と言われるだけあって、ナアマンも賢明でした。賢明な助言を受け入れたナアマンはヨルダン川に下って行き、預言者エリシャの言ったとおり、ヨルダン川に七たび身を浸しました。するとどうでしょう。彼の身体は元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなっていました。

 

 奇跡は傲慢な者には無縁のものです。へりくだり、謙遜になったからといって、自尊心は損なわれません。損なわれるような自尊心は持たない方が賢明です。ナアマンの偉大さとライ病の癒しは、彼が自分の思いから解放され、神の思いに素直に従ったとき、豊かな恵みとなって与えられたのです。

 自分の思いだけに固執せず、神の言葉に信頼し、それを行い、身も心も健やかにされ、素晴らしい人生を生きていきたいものです。

 「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ書55:9)

 

 

今日の一言: 神の御旨に従って生きよう

 

 

鶴田健次


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2021.05.28 07:32 | 牧師室より


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コペルニクス的転回

 

 コペルニクス的転回とは、もともとはインマヌエル・カントが自らの哲学を評するために使った言葉ですが、これから派生して、それまでの天動説に対するコペルニクスの地動説のような、物の見方が180度変わる大転換をコペルニクス的転回と言うようになりました。

 

 また、このように、人は人生の様々な特殊体験を通してコペルニクス的転回を経験し、物の見方が180度変わることによって、その生き方が変わり、人生が大転換されるものです。

 

 たとえば、復活のキリストとの出会いを通して、キリスト教の迫害者からキリスト教の伝道者に変わった使徒パウロなどは、まさにこのコペルニクス的転回の経験者の一人です。また、ニクソン政権の大統領補佐官であったチャック・コルソンもその一人として挙げることができるでしょう。

 

 敏腕弁護士であった彼は、ニクソン大統領の補佐官として活躍しましたが、ウォーターゲート事件で実刑判決を受け、刑務所生活を送ることになります。しかし彼は、そこに至る苦悩の日々の中で、イエス・キリストを救い主として受け入れ、また数年に及ぶ服役体験が、彼の人生を大きく変えました。受刑者たちが獄中で人間以下の扱いしか受けていないことを体験した彼は、出獄後、刑務所の改善運動と受刑者伝道にその生涯を捧げるのです。

 

 パウロにしろ、コルソンにしろ、キリストを通して神との関係を回復し、新しい価値観、人生観、世界観を与えられることで、コペルニクス的転回を経験したのです。

 

 カリフォルニアにあるカルバリーチャペルにラウル・リースという牧師がいます。メキシコから渡って来たギャング、またカンフ-の達人であった彼は、殺人をはじめ、麻薬の売買、強盗、恐喝、売春と、ありとあらゆる悪事を働き、すべての人から嫌われ、恐れられ、最後には妻と一人娘までもが彼を恐れ、彼から離れて行こうとしました。 

 

 その事を知った彼は、この世で唯一、自分の側にいてくれると思っていた妻と娘まで失うくらいなら、いっそうのこと二人を殺して、自分も死のうと決心します。彼はライフル銃をつかみ、二人が外出から帰って来るのを待ちました。そこには完全に人間としての望みを捨ててしまった者の姿がありました。

 

 心のイライラをまぎらすために、彼はテレビのスイッチを入れました。するとそこに映し出された画面は、カルバリーチャペルのチャック・スミスという牧師が神の愛について説教をしているところでした。彼は、生まれて初めて聞く神の愛についてのメッセージを信じる事が出来ませんでした。自分のような悪人を、たとえ神でも愛してくれる筈がない、ここまで悪い事をしてきた者を、たとえ神でも赦す筈がない、と彼は思いました。 

 

 しかしメッセージを聞いていくうちに、もしこんな自分でも愛してくれるという神がいるなら、またこんなひどい罪を犯した自分を赦してくれるという神がいるなら、死ぬ前に、その神に自分の人生を賭けてみようと彼は決心します。そしてそう決心するやいなや、彼は、いても立ってもいられなくなり、急いで車を飛ばし、この礼拝のテレビ中継をしているコスタメサにあるカルバリーチャペルという教会に行きました。

 

 教会に着いて礼拝堂のドアを開けると、ちょうど説教が終わり、イエス・キリストを信じる決心をした人々が、静かな音楽が流れる中を、チャック・スミス牧師のいるステージに向かってゆっくりと歩いていました。彼は、その意味も分からないまま、生まれて初めての大粒の涙を流しながら、中央の通路を走り、ステージの前にひざまずきました。

 

 言いようのない神の愛を全身に感じながら、彼は、ただただ感動の涙に肩を震わせるだけでした。そして、はからずもその時、その礼拝堂の会衆の中に、この信じられない光景を見ていた彼の妻と娘の姿がありました。

 

 この大きな神の愛を経験した彼は、全く生まれ変わり、愛する妻と娘を取り戻すことが出来ました。家庭に喜びと明るさがもたらされ、彼はこの素晴らしい神の愛を伝える為に牧師になり、今では一万人を超える大教会の牧師をしています。だれが昔の彼の人生に、こんなシナリオを書く事ができたでしょうか。

 

 神の愛はどんな人の人生をも変えることができます。どんな人にもやり直しの機会を与えます。神の愛は傷ついた人の心を癒し、絶望の中にいる人に希望を与えます。

 

 あなたは、この神の愛を受け取っておられますか?

 神の愛はあなたをあらゆる罪の束縛から自由にします。 

 

 

今日の一言: 誰にでもコペルニクス的転回を経験する機会がある

 

 

鶴田健次

 

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2021.05.25 01:14 | 牧師室より

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”アフルエンザ”という精神病

 

 

 皆さんは「アフルエンザ」という言葉を聞いたことがありますか。なんとなく風邪の一種のような名前ですが、アフルエンス「affluence(裕福さ)」からの造語です。つまり、アフルエンス+インフルエンザ=アフルエンザというわけで、直訳すれば「裕福病」とでもなるでしょうか。

 

もっと、もっと、と多くの富を求め、常に成功を善として、そのための忙し味わえないことです。そればかりか、自分を取り巻く人々も、成功のための道具でしかなく、今ある人間関係が成功に役に立たないと思うと、怒り、相手を責め、その関係を壊してしまうのです。


 例えば、「アフルエンザ」にかかった人が恋人と付き合うと、相手にもステータスを求め、それが無くなると別れてしまいます。なぜなら、恋人はブランド品と同じで、身に付けることで自分がどう映るかが重要なのです。ですから、相手への関心はなく、ただその人と付き合うことで周囲から羨ましがられることが恋人の絶対条件となるのです。

 

 あるいは、「アフルエンザ」の人が子供を持つと、子供の心には関心がなく、子供がどの学校に入るか、どこに就職するか、誰と結婚するかが大切になります。当然、子供の習い事や進路に関しては人一倍熱心ですが、子供の疲れや孤独感というものにはほとんど無関心です。結局、そういう親の関心事は世間の目なのです。

 特に富裕層の子供たちの中には、幼い頃から何でも買い与えられ、しつけられることなく甘やかされ放題で育った結果、すべてをお金で解決できると思い込み、行動に歯止めが効かなくなった者たちがいます。日本では「ドラ息子」という一言で片付けられ、精神の病気と認定されるまでには至っていませんが、アメリカでは今、この「アフルエンザ」が深刻な犯罪の裁判の争点として話題になっています。

 

 20136月の深夜、24歳の女性の車がパンクし、路肩に緊急停車していました。近所に住む母親(52歳)とその娘(21歳)が手助けするために駆けつけました。そこにたまたま通りかかった牧師(41歳)も加わり、合計4人でタイヤ交換をしていました。

 

 そこに、泥酔した高校生(16歳)の運転するトラックが猛スピードで突っ込み、4人を即死させてしまったのです。さらにその少年のトラックは、牧師を待つ息子たちが乗っていた車に衝突し、その車が道に押し出され、2人の女性が乗った車に衝突しました。そして少年が乗ったトラックからは、同乗していた2人の高校生が放り出され、重症を負い、全身麻痺になってしまいました。

 

 後日、少年裁判所でその少年の判決が出ました。検察はその少年に20年の実刑を求めていましたが、判決は実刑なしで10年の執行猶予でした。今後、アルコールや薬物中毒患者用の治療施設に入り、最低1年は施設から出てはならない、という条件がつけられただけです。

 

 実刑が出なかった理由は、その少年が、何でもお金で解決しようとする親のせいで「アフルエンザ」を患っており、善悪の判断ができない人間に育ってしまったと認められたからです。それで刑務所よりも治療施設が相応しいという結論になったのです。それを聞いた遺族の悲しみと無念さは激しい怒りに変わり、全米に燃え広がりました。

 

 その少年は13歳の頃からアルコール中毒の症状が出ており、酒、薬、万引きなどで既に何度も警察のお世話になっていました。しかし、大金持ちの両親は何もせず放任し続けたのです。その少年は日頃から友人らに「金で解決できないことはない」と豪語していたということです。実際、4人の尊い命を奪ったその事件でも、両親が高額の費用で雇った弁護士によって実刑を免れることができたのです。

 

 メディアは、「アフルエンザ」なる精神病が実在するのかしないのか、正義はどこへ行ってしまったのかと大騒ぎしました。さらに、その少年が入る治療施設の年間入所費が5000万円の超高級施設だということが分かると、怒りの感情が論調を支配するまでになったのです。

 

 この出来事を通し、改めて親の責任と親業の大切さを痛感します。子育てで大切なことは、子供が肯定的な自己像を持てるように、言葉と態度で常に肯定的なストロークを子供に掛けてあげることです。また子供のために多くのお金ではなく、多くの時間を使って子供に対する愛を表わすこと。そして、親自身の生き方を通して正しい価値観を子供に植え付け、しつけを怠らないこと。さらに、どんな苦境の中でも「幸せを感じられる心」を養うことです。大切な子供たちに、そんな親業が施されることを心から祈ります。

 

 

今日の一言: 子育ては親の最大の責任

 

 

鶴田健次


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2021.05.19 00:47 | 牧師室より

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聖書に心動かされた人々

 

 

チャールズ・ディケンズが 「聖書は、この世界でいまだかつてなかった、また今後あろうとも思われない最善、最良の書である」と言ったように、聖書は、知れば知るほど世にも驚くべき本であることに目が開かれていきます。

 

「聖書」という言葉は、新約聖書が書かれたギリシャ語では「ビブル」と言いますが、これは「本」を意味する「ビブリオン」から生まれた言葉で、「本の中の本」ということです。またこの聖書は、世界中の人々に圧倒的な影響を与え、これ程までに人々の心に変革をもたらしたものはどこにもありません。

 

聖書は古い本ですが、今も生き続けています。そして、2000以上の言語に翻訳され、毎年5億冊以上が印刷され、世界中の人々に愛読されています。1455年頃に、活版印刷術が発明されたとき、始めて印刷されたのは聖書でした。1971年に、人類が月に到達したとき、始めて地球の外に持ち出されたのも聖書でした。

 

学者も無学者も、偉い人も偉くない人も、古今東西の人々が、聖書の偉大性を証言していますが、ここにその一部をご紹介します。

 

 

ゲーテ(ドイツを代表する作家)
聖書は、読めば読むほどすばらしくなる。聖書は、理解が進んで、この自分と関わりがあるとわかるにつれ、美しくなる。私が獄につながれ、ただ一冊の本を持ち込むことを許されるとしたら 私は聖書を選ぶ。

 

マルチン・ルター(ドイツの神学者、牧師、ルーテル教会の創始者。宗教改革者)
聖書は、生きている。聖書は私に語りかけてくる。聖書には足があり、私を追いかけてくる。聖書には、手があり、私を掴まえる。

 

矢内原 忠雄(経済学者、東京大学総長)
聖書は学者の書であり、無学者の書であり、万人によって万人に学ばれるべく、万人によって解されるところの人類の書なのである。われわれが謙虚になって聖書をひもといて見れば、それ(知識)は最も基本的な形において聖書に示されておる。これを今日の社会情勢と、人間の知識の進歩と、世界の複雑性に照らし合わせて応用すればよいだけです。根本は聖書に示されている通りです。
 
アルフレッド・テニスン(ヴィクトリア王朝の時代の詩人)
聖書を読むこと。そのことが教育である。

 

イマヌエル・カント(ドイツの哲学者、思想家)
聖書の存在は、人類がかつて経験したうちで最も大きい恵みである。その価値を減らそうとのいかなる企ても、人類への罪悪となる。

 

淵田 美津雄(真珠湾攻撃の総指揮官、戦後にクリスチャンとなる)
私は熱心に聖書を読みました。私の人生観はキリストによって完全に変えられました。
 
マハトマ・ガンジー(インド独立の父、宗教家、政治指導者)
私の生涯に最も深い影響を与えた書物は聖書である。

 

ジョージ・ワシントン(アメリカ初代大統領)
神と聖書なしに、この世を正しく統治することは不可能である。 

 

アブラハム・リンカーン(第16代米国大統領)
聖書は、神が人間に賜った最もすばらしい賜物である。人間にとって望ましいものはすべて聖書にある。
聖書はそれ自身の権威を裏づける無数の証拠を持っている。

 

セオドア・ルーズベルト(米国大統領)
聖書を教えない単なる教育は、無責任な人に鉄砲を渡すようなものである。

 

W.E.グラッドストン(英国首相)
私はこの時代に、偉人と呼ばれる95人の人を知っている。うち87人は、聖書を奉ずる人であった。聖書の特色はその特異性にあり、他のあらゆる書物を無限に引き離している。

 

ヘレン・ケラー(二十世紀の奇跡の人と呼ばれるアメリカの教育家、社会福祉事業家)
私が毎日、もっとも愛読する書物、それは聖書です。私の辞書に悲惨という文字はありません。
聖書はダイナミックなカであり、変わることのない理想を示すものです。

サルトル(フランスの哲学者、小説家)
私は自分が偶然の産物、宇宙のほこりだとは思わない。むしろだれかに期待され備えら予示された存在、つまり創造者である神だけがここに置くことができた存在だと思う。

ジョン・ラッセル(アメリカの小説家)
私が著作したことに何か功績があるとすれば、それはひとえに、私が幼かった時に、母が日ごとに聖書のある箇所を読み聞かせ、暗唱させてくれたお陰である。

 

チャールズ・ディケンズ(イギリスのヴィクトリア王朝を代表する小説家)
聖書は、この世界でいまだかつてなかった、また今後あろうとも思われない最善、最良の書である。

 

アーサー・ホリー・コンプトン(ノーベル賞受賞者)
秩序正しく広がっている宇宙は、『初めに神が天と地とを創造した』(聖書の冒頭のことば)という、もっとも荘厳なことばの真実さを証明する。

 

アイザック・ニュートン(英国物理、数学、天文学者)
いかなる世俗の歴史におけるよりも、聖書の中には確かな真理がある。

 

その他に、コペルニクス、ケプラー、ガリレオ、ベーコン、ボイル、デカルト、パスカルといった近代科学の開拓者達も神を信じていました。科学者として、研究をしながらケプラーは「神よ、私はあなたにならって、あなたの思いを思い巡らします」と祈ったのです。ガリレオは「聖書と自然の現象は共に神の言葉から出てきている。神は知られる。その性質はその御業によって、その教理は啓示された御言葉によって」と述べています。ニュートンは聖書をよく学びました。彼のノートには聖書のさまざまな主題について、130万語も記されていたそうです。

 

 

今日の一言: 聖書は本の中の本

  


鶴田健次



 

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2021.05.13 23:03 | 牧師室より

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