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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を


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すべての失敗は成功への足掛かり

 

 

生きている限り、人は必ず失敗を経験します。失敗をしない人など一人もいません。仕事に失敗し、結婚に失敗し、受験に失敗し、特に人間関係の失敗は誰もが経験することです。そして、失敗は人々を失望・落胆させ、時として人々に敗北感や絶望感を味わわせることがあります。

 

しかし、”失敗は成功のもと”という諺があるように、人によっては、失敗に対してもっと積極的なイメージを描く人もいます。英語でも、Failure teaches success.とか、Every failure is a stepping stone to success. という同じ意味の諺がある通り、失敗は、非常に積極的かつ建設的な性質のものであるというのも真理です。人生において、上手くいく人、いかない人の違いがいくつかありますが、そのひとつが失敗の捉え方ではないでしょうか。

 

人は失敗することによって、どうやればうまく出来るかを発見します。間違いを犯さない者は、そのことを発見することができません。人は失敗の経験を通して大切なこと、必要なことを学び、成長するのです。旧約時代の偉大な信仰者たちも、みんな失敗の経験者です。信仰の父アブラハムも、イサク、ヤコブも、さらにはモーセやダビデも大きな失敗をし、その失敗が彼らの生涯における貴重な体験となったのです。

 

この他にも、大きな事を成し得た人々はみんな失敗の経験者です。自動車王のヘンリー・フォードは、フォード・モーター・カンパニーを設立する前に、7回も失敗し、5回失業しました。「三度目の正直」どころか、周りの人から見れば何をやってもダメな人に見えたことでしょう。

 

ディズニーランド、ディズニーアニメの創造者であるウォルト・ディズニーも、「お前はイマジネーションがない。アイデアもダメだ」と言われて新聞社をクビになりました。自分の信じている才能を頭から否定されれば大きなショックで、その道を歩むことを諦めてしまう筈です。しかし、彼は諦めず、その失敗を機にさらに自分に足りない資質を身に付ける努力をしたのです。

 

ソニーの創業者、盛田昭夫も、ソニーの前身である東京通信工業を井深大と設立し、初めて手がけた製品である炊飯器が全く売れませんでした。起業して最初の商品がダメで大損をしたら、あなたはどうしますか。

 

「ハリー・ポッター」の作者、J.K.ローリングは、離婚と生活苦で鬱病になり、自殺を考えました。しかし、彼女は貧しいシングルマザーとして生活保護を受けながら執筆を続け、書き上げた「ハリー・ポッター」が大ブレイクし、歴史上最も多くの報酬を得た作家となりました。

 

発明王エジソンは、子供の頃、学校の先生から「バカ過ぎて、何も学べない子」と言われました。大きくなって初めてした仕事はクビになり、その次にやった仕事も立て続けにクビになりました。また、彼は白熱電球を実用化させるまでに一万回の実験に失敗をしましたが、失敗を失敗とは考えず、「一回一回の失敗は、単に上手くいかない方法を確認し消去しているに過ぎず、失敗を重ねるごとに一歩ずつ成功へ近づいているのだ」と考えた話はあまりにも有名です。

 

こう考えると、失敗というのは、むしろ私たちにとって必要なことであり、大きな益をもたらすものであることが解かってきます。これは特別な人にだけ言えることではなく、すべての人に当てはまる原理です。失敗とは、単に上手くいかない方法を確認し消去しているに過ぎず、失敗を重ねるごとに一歩ずつ成功に近いづいているのです。

 

 

今日の一言: 諦めないかぎり失敗というものはない。

 

 

鶴田健次

      

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2021.04.21 14:58 | 鶴田健次牧師より

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習慣は人を作り、人生を作る

 

 

 英国の作家であり医師であったサミュエル・スマイルズがこんな詩を書いています。

 

 思いの種をまき、行動を刈り取り
 行動の種をまいて習慣を刈り取る
 習慣の種をまき、人格を刈り取る
 人格の種をまいて人生を刈り取る

 

 「はじめは人が習慣を作り、それから習慣が人を作る」と言われるように、習慣は作ることができます。最初は意識して心がけますが、それを続ければ、だんだん慣れてきて、やがてそれが習慣になり、習慣になれば潜在意識に刻み込まれ、意識をしなくても自然にするようになります。したがって、良い習慣は人を成長させ、人を作ってくれるのです。

 

 そう考えると、幸せのヒントは「幸せになる種を蒔いて、幸せになる習慣を作る」ことだと言えるかも知れません。たとえば、自分が幸せを感じるような習慣、気分よく過ごせる習慣、毎日を楽しめる習慣、読書の習慣、自分を育てる習慣、運動の習慣、よく考える習慣、夢や目標をもって努力する習慣、愛する人の幸せを考える習慣などを作るための行動を続けること、それが幸せな人生を生きる良い方法だと言えます。ですから、私たちは最大限の努力を払ってでも、幸せになるための習慣を身につけるべきなのです。

 

 習慣は若いうちほど身につきやすく、一度身についたら終生失われません。ちょうど木の幹に刻まれた文字のように、時間の経過とともに大きく成長していくものです。また、人生の若い時期に得た習慣は、悪に対する防波堤になります。なぜなら、人間が品行方正になるのは習慣を通じてであり、モラルが損なわれないよう守ってくれるのもまた習慣の力だからです。

 

 また、もうひとつ忘れてはならない重要なことは、自分で自分を助けることを習慣にすることです。「天は自ら助くる者を助く」という有名な格言がありますが、この格言は、幾多の試練を経て現代に至るまで語り継がれてきたもので、この短い言葉には、人間の数限りない経験から導き出された一つの真理がはっきりと示されています。この自助の精神は、人間が真の成長を遂げるための礎だと言えます。

 「自分で自分を助けよう」など考えたこともない、という人も多いかも知れません。しかし、「自分で自分を助けよう」と考えれば、できることがたくさんあります。神は常に最善を導いておられるので、その約束を信じて、自分を元気づけ、励まし、心を健全に保つことを心掛ければ、私たちの人生はどれだけ素晴らしいものになることでしょうか。

 

 

今日の一言: 習慣は人を作り、人生を作る。

 

 

鶴田健次



 

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2021.04.15 06:30 | 鶴田健次牧師より

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人生の出会い

 

 マルティン・ブーバーは「人生は出会いで決まる」と言いましたが、その出会いには、人を不幸に導く出会いもあれば、幸いに導く出会いもあります。悪い人に出会ったばかりに、その人の人生の歯車が狂ってしまい、取り返しのつかないほど不幸な人生を余儀なくされることもあります。しかし、人生の出会いには、人の考えや計画を超えた不思議なものがあるのです。


 ある受刑者のこんな証しがあります。

 

 「私は前科3犯、合計約20年の受刑生活を過ごしてきました。私がそんな大それた罪を犯してきた理由は、根本的には、生まれつき私の中にあった神に反逆する罪の性質のせいですが、私と同じような悪い性質をもった沢山の人たちとの出会いのせいでもありました。

 また、私は両親の離婚と母親の愛を全く知りませんでした。私は両親に対してそのことをずっと恨んでいたのです。(イエス様と出会った今の私には、私と母親との間に心と心の擦れ違いがあったのだと分かりました。母親も私のことを愛してくれていたのに、私はそれを感じることができなかったのだと思うのです。母親も私に対してどのようにして愛の表現をしたらよいのか分からなかったのだと思います)

 以前の私は、刑務所の中で出会った他の受刑者たちから悪いことをたくさん学び、もっと悪くなって出てきました。三度目に逮捕・留置されて、私は自分に絶望して自殺を考えていた時に、留置場で神様はクリスチャンの日系ブラジル人と出会わせてくださいました。生まれて初めてのクリスチャンとの出会いでした。彼との心の触れ合いを通して、私は人を信じることができるようになりました。

 その後、聖書を読んでいた時に、私はイエス・キリストと心の深いところで出会い、徹底的に自我が砕かれて、神の素晴らしい愛を知りました。神の愛に触れた私の心には、革命的な変化が起きました。何が悪か、何が善かが、はっきり分かりました。

 自分に一番欠けていたものは、神を信じて人を愛する心であることを知りました。神を信じないから、人を愛さないから、次々に平気で罪を犯してきたのです。イエス様は、こんな私と毎日一緒に同じ部屋の中で刑務所生活をしてくださいました。

 神様は、S弁護士を送ってくださり、毎月の手紙のやりとりと、彼が差し入れてくれたキリスト教の書物を学ぶことで、イエス様との関係を深めることができました。刑務所の中での受刑者や監守たちとの出会いを通して、苦しんだり悩んだりしながら、実体験の中で、イエス様との関係をもっと深めさせていただきました。

 文通によって、多くの神父、牧師、伝道者、信徒と出会い、慰めと励ましが与えられました。その中で、マザーテレサの愛の宣教会のシスターたちと出会い、彼女たちの使命に共感して、出所後は、受刑者たちを助ける『マザーハウス』を立ち上げることに導かれました。神様は、私が与えられた使命を実行するために、ふさわしい助け手として、素晴らしい女性と出会わせてくださいました。彼女は私の生涯の伴侶として、私に仕えて助けてくれるのです。

 これからも、さまざまな人たちとの出会いがあります。一人一人との出会いを神様の導きと信じて大切にしていきたいと思います。私の最大の使命は、イエス様の十字架の愛を証しして、人々がイエス様と出会うように助けていくことです。」

 

 いかがでしたか。人生には、確かに多くの出会いがあります。この世に生を受けた時の両親との出会いから始まり、さまざまな出会いを誰もが経験します。この受刑者の方も、自分を不幸に導く出会い、また幸いに導く出会い、さまざまな出会いを経験して来られました。そして、その中で最も大切な出会いは、イエス・キリストとの出会いだったと証しておられます。その経験から、イエス・キリストの十字架の愛を証しして、人々がイエス様と出会うように助けていくことが彼の最大の使命となったのです。

 

 

今日の一言: 人生を幸いに導く出会いを選ぼう

 

 

鶴田健次


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2021.04.10 07:20 | 鶴田健次牧師より

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地球は丸い

 

 

地球は丸い。現代人なら、この事実を誰もが知っています。宇宙船や月から撮った地球の写真を見れば一目瞭然です。ところが、この当たり前の事実も、古代人にとっては想像もできないことで、昔は地球は平面であると考えられていたのです。

 

地球が丸いと考えはじめたのは、ギリシャの哲学者また数学者であったピタゴラス(紀元前6世紀)とその学派の人たちだと言われています。その後、アリストテレス(紀元前4世紀)が、月食のときの影の形を見て地球が丸いことを証明しようとしました。月食の影が地球の影であることを知っていたからです。また彼は、天動説を想定し、後のプトレマイオスによる天動説の体系作りに貢献しました。天動説は、「地球が動いたら、地球上のすべてのものが飛ばされてしまう」ということで、ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)が地動説を唱えるまで、長い間支持されました。

 

しかし、ピタゴラスやアリストテレスよりも古い紀元前8世紀ごろに書かれた旧約聖書のイザヤ書を見ると、驚くべきことに、地球が丸いものとして造られたことが既にはっきりと記されていたのです。

 

「主は地球のはるか上に座して、地に住む者を、いなごのように見られる」(イザヤ40:22

 

この「地球」と訳されている言葉は、原語のヘブル語では「地の円」を意味するもので、地球は、はるか上から眺めると、円形に見えるという描写です。この世が地球は丸いのではないかと考え始める前に、聖書は既に丸い地球を明らかにしていたのです。

 

聖書にはまた、地球の地軸の傾きについての描写もあります。今から約3000年ほど前に書かれた旧約聖書のヨブ記に、こういう言葉があります。

 

「神は北を虚空に張り、地を何もない上に掛けられる」(ヨブ記26:7

 

「神は北を虚空に張り」という表現の「張る」と訳された言葉は、原語のヘブル語では“natah”と言いますが、これは「傾ける」とも訳される言葉です。たとえば創世記24:14で、「水がめを傾けて私に飲ませてください」という部分にこの言葉が使われています。つまりヨブ記の言葉は、「神は北を虚空に傾け」という意味で、地球が何もない宇宙空間に浮かんでいるということだけでなく、地球の地軸が傾いた状態に置かれているということも言い表しているのです。

 

地軸とは、地球が自転する際の軸で、北極点と南極点を結ぶ運動しない直線を指します。地球の地軸は、公転面の法線に対して、約23.4度傾いています。地軸の傾きが日常生活に関係するのは、たとえば季節の移り変わりです。地軸が傾いていることから、夏には日が高く昇り、昼の時間が長く、冬には日が低く、昼が短くなります。つまり単位面積当たりの太陽エネルギーの照射量と日照時間が変化することで、季節が生じるのです。また北緯23.4度を走る北回帰線上では、1年に1度、夏至に太陽の南中高度が90度になります。これも地軸の傾きによるものです。逆に北緯66.5度(66.5=90-23.5≠23.4)の北極圏では、夏至には太陽が沈まず(白夜)、冬至には日が昇りません。

 

地軸は公転の影響を受けないため、常に一定の方向を指します。そのために天球の北半球と地軸の交点付近にある恒星(北極星)は、1日のどの時刻であっても、1年のどの季節であっても同じ高度(角度)に見えるのです。この高度は観測者の居る地点の緯度によってだけ決まるので、北極星の高度を測定すれば(もちろん北極星の見える北半球においてですが)、地球上のどの地点であっても緯度を計算できます。GPSGlobal Positioning System=地球上の現在位置を調べるための衛星測位システム)などが発達する以前、数百年にわたって北極星が航海に役立ってきたのは、こうした地軸の性質によるものです。

 

地球とすべての天体を創られた至高者なる神の驚くべき知恵を知らされます。

 

鶴田健次

 

 

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2021.04.06 23:40 | 鶴田健次牧師より

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十字架の悩みは我が罪のためなり

 

  2000年前の金曜日の午後の三時ごろ、黒雲が空を覆い、沈黙と暗黒が全地を覆っていた時に、主イエスの口から「十字架の七言」の第四言が発せられました。

 

 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)」(マタイ2746

 

 これまでに経験したことのないことが主イエスの身に起こりました。それは私たちの想像をはるかに越えた恐ろしい経験でした。

 

 イエス様はいつも神を「父」と呼んでおられました。それなのに、どうしてここでは「わが神」と呼んでおられるのでしょうか。思い巡らすに価するところです。

 

 単なる「神」ではなく「わが神」ですから、単に客観的な存在としての神ではなく、自分と深くかかわっている存在として呼びかけておられるように思われます。

 

 しかし「わが神」と呼ぶのは、父なる神に対する御子イエスの本来の呼びかけではありません。イエス様はいつも神に対して、「父よ」と呼びかけておられたからです。ですから、ここでの「わが神」とは、私たちの救い主である主イエスが、私たちの身代わりとして神に呼びかけておられたと考えてよいかも知れません。

 

 この呼びかけが詩篇221節にあるのと同じ呼びかけであることは有名です。その作者と主イエスが一体化しているのです。ですから、この詩篇22篇全体をよく理解する必要があります。詩篇22篇は、イエス様の受難の出来事の中で何度も引用されています。特に、マタイは主イエスの受難を描くのに、この詩篇22篇の1節、7節、8節、18節を引用しています。

 

 人間の悩みの淵、だれも助ける者がいない孤独の中で、最も深い暗闇の中で発せられたこの「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫びは、決して絶望ではなく、暗闇の深淵の中にあっても神との信頼の絆がつながっている言葉です。なぜなら、もし信頼の絆が切れていれば、このような叫びすらあげることはない筈だからです。その根拠は詩篇22篇そのものにあります。

 

 主イエスは十字架上でこの詩篇22篇の冒頭の叫びを口にされたただけでなく、その詩篇22篇の全体を祈っておられたと考えられます。つまり、この詩篇の前半は嘆きで終始していますが、その後半は神をたたえる賛美で貫かれているのです。

 

特に、詩篇2221節後半の「あなたは私に答えてくださいます」は、詩篇22篇の全体を見たときに、ここから内容が一転し、「嘆き」が「賛美」に変わる転換点となっていることに気づきます。そして続く22節からは完全に賛美の部分となっています。

 

ヘブル人への手紙212節には、この詩篇2222「私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、会衆の中で、あなたを賛美しましょう」が引用されています。

 

兄弟たちに語り告げるべき御名とは、詩篇2224節に記されているように、「まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった」というお方の御名です。このことを大会衆の中で讃えるというのです。イエス・キリストの来臨の目的は、まさに、この御名を告げ知らせることでした。

 

 その御名とは、信頼する者を決して見捨てることはしないという父なる神ご自身のことです。どんな状況の中に置かれたとしても、たとえそれが死の谷を過ぎることであっても、父なる神を信頼することこそ愛であり、命であることを示すことでした。

 

 神に敵対するサタンはその信頼の絆をなんとか断ち切ろうと、ありとあらゆる方法でイエス様を苦しめました。しかしイエス様は、「あなたは私に答えてくださいます」という確信を貫いていかれたのです。このイエス様の真実、イエス様の信仰が、神と人との本来の関係を回復させたのです。

 

 私たちが人生で経験するすべての苦しみの目的も、すべて神への信頼の絆を強めることにあると信じます。エジプトから救い出されて荒野に導かれたイスラエルの民の苦しみ、ダビデの荒野での放浪を余儀なくされた不条理な苦しみ、バビロン捕囚という亡国の苦渋の経験、そして十字架という完璧な拒絶を受けられたイエス様の苦難、そして使徒たちの苦難と続くこれらのすべては、神との信頼を証するためのものであったことを知るとき、私たちはどんなに励まされることでしょうか。

 

苦しみの極みの中で、信頼の極みを貫いて下ったイエス様によって、私たちは神との信頼の絆を再び築くことができるのです。どんなに賛美しても賛美しきれません。ただ感謝するのみです。

 

 

今日の一言:十字架の悩みは我が罪のためなり

 

 

鶴田健次


 

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2021.04.02 22:00 | 鶴田健次牧師より
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