マッカーサーを感動させた天皇の言葉
突然目の前に現れた天皇陛下の「ある一言」がマッカーサーの平静を一瞬で奪い去りました。
昭和20年8月15日、天皇陛下による「終戦の詔書」、いわゆる玉音放送をもって、日本国民は日本が戦争に負けた事を知らされます。アメリカとイギリスに宣戦布告をした大東亜戦争はここに集結したのです。この時、天皇陛下が憂いていたのは、占領軍の方針でした。日本のために命を懸けて戦った者たちが罪人として裁かれてしまうこと、これから苦難を受けるであろう国民たちの生活、これらの事を陛下はひどく心配していました。
玉音放送から半月後の8月30日、厚木の飛行場にひとりの男が降り立ちました。彼の名はダグラス・マッカーサー。日本のこれからをその手に握る連合国の最高司令官です。マッカーサーは大戦の中で、アメリカの極東陸軍司令官として日本と激戦を繰り広げました。開戦当初は、あまりにも強すぎた日本軍を目の前に敵前逃亡をしたこともありましたが、その後、一度は日本に奪われたフィリピンをなんとか奪還し、名誉を回復します。しかし、彼自身は日本に対して遺恨を残すことになりました。そのマッカーサーが、GHQの最高司令官として、トルーマン大統領から全米史上例のない全権を与えられ、日本を占領するために来日したのです。
マッカーサーはGHQの総司令部を千代田区の第一生命ビルに設け、皇居を見下ろす6階の執務室で、日本占領政策を着手し始めました。
9月2日に東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリで日本に降伏文書を調印させ、さらに日本政府に事前通告なしで東条英機ら39人を戦争犯罪人として逮捕させました。
9月10日には、アメリカの議会で天皇を戦犯として裁くべきだという政策が提出されたため、天皇や皇族も戦争犯罪人として逮捕される可能性が出て来ました。
そして、9月27日、天皇陛下は逮捕や命を狙われる危険がある中、連合国軍の最高司令官であるマッカーサーに会うためにアメリカ大使館公邸を訪れます。
その時、大使館公邸の玄関で、陛下を出迎えたのはマッカーサーではなく、マッカーサーの副官でした。この日本の運命を決めるであろう会談に、陛下は陛下の希望で、通訳をひとりだけ連れて、マッカーサーの待つ部屋に向かいました。
陛下訪問の知らせを聞いたマッカーサーの脳裏には、第一次世界大戦直後のドイツのことが浮かんでいました。その時、敗戦国の王となった皇帝ヴェルヘルム2世は、「戦争は国民が勝手にやったことであって自分には責任がない。だから私の命だけは助けてほしい」と命乞いを申し出ました。ですから、ドイツの皇帝同様、天皇陛下もきっと命乞いをするだろう・・・と予想をしていたマッカーサーは、パイプを口にくわえ、横柄な態度で、ソファーから立とうともしませんでした。椅子に座り、背もたれに体を預け、足を組み、パイプをくわえた彼の姿はまさに陛下を見下しているのが丸わかりでした。
そんな屈辱的ともいえるマッカーサーの態度に対して、陛下は直立不動で、まず国際儀礼としての挨拶をして、次に自分の進退について述べました。
「日本国天皇はこの私であります。そして、戦争に関する一切の責任もこの私にあります。この戦争は私の命においてすべてが行われたものであり、この日本には一人も戦犯はいません。私は絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟があります。しかしながら、罪なき8000万の日本国民は住むべき家がなく、着るにも衣がなく、食べるにも食するものがありません。まさに、深憂に耐えんものがあります。閣下の温かきご配慮をもって国民たちの衣食住の点のみ、是非ともお願いしたい。」
この陛下の言葉に、マッカーサーは今までに経験したことのない衝撃を受けます。「どうせ命乞いに来るのであろう」と思っていたのに、それが自らの命と引き換えに、「自国民を救ってほしい」と言う、そんなことを願い出る王など、世界の歴史の中で聞いた事がない。マッカーサーにとって陛下のこの言動は、全くの想定外でした。そして、彼はくわえていたパイプを机に置き、椅子から立ち上がり、今度は、まるで陛下の臣下であるかのように、直立不動で陛下の前に立ちます。
「天皇とは、こういうものでありましたか・・」
マッカーサーは、この時のことを回想録にこう記しています。「天皇陛下のこの言動は、私の心を大きく揺さぶった。陛下の死をもいとわない覚悟、私の知りうる諸事情に照らし合わせても、明らかに陛下の責任ではないことまで、陛下は引き受けようとされていた。この勇気に満ちた態度に、私は骨の髄まで揺り動かされ、その瞬間、私の目の前にいるこの天皇こそが日本における最高の紳士であると私は思った。」
わずか37分の会談でしたが、マッカーサーの陛下に対する見方は「180度」変わりました。マッカーサーは、次に重要な仕事が入っているにもかかわらず、予定を変更し、自ら陛下を玄関まで見送ります。この時、彼は陛下のやや斜め後ろを歩き、大使館から出てきました。これは、マッカーサーの陛下に対する最大限の敬意の表れでした。
昭和天皇のこのような話を聞き、主イエスが言われたこの御言葉を思い浮かべました。
「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)
鶴田健次
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集団免疫策こそコロナ危機を乗り越える道
コロナ危機が始まって5ヵ月。新型コロナウイルスに関するさまざまな情報が飛び交っています。また、毎日リアルタイムで感染者数、死者数、回復者数などが発表され、最近では抗体保有者数も注目されるようになりました。しかし、コロナ危機は全体的に、政治的な思惑が強いので、マスコミの報道などは鵜呑みにせず、公開されている情報をもとに自分なりの考察が必要です。
新型コロナは、世界的に感染者の90%が感染の自覚がないまま無発症か軽症で終わっていると言われています。当然、これらの無自覚者は政府の感染者統計には含まれません。したがって感染者の何人が死んだかという致死率は、政府統計の感染者数を分母にすべきではありません。それを分母にすると、コロナの致死率は非常に高くなります。
5月21日現在、世界の新型コロナの感染者は519万人、死者が33.3万人なので、これを基に計算すると致死率は6.4%になります。世界のインフルエンザの致死率が0.07%と言われるので、その91倍となり「ワクチンができるまで外出禁止にしなければならない」という話がまかり通ることになるのです。
今回のコロナ危機に対するマスコミの報道は、コロナの危険性を誇張する傾向にあり、コロナ危機発生以来、毎日のように繰り返されているので、世界中の人々がコロナを恐れ、コロナの恐怖戦略は大成功しているように思われます。
ところで、最近は、世界中で抗体検査が行われるようになりましたが、欧州各国の抗体保有率は、ベルギー6.4%、スペイン5%、米国5%、イタリア4.4%、英国3.8%、ドイツが0.7%と言われています。それに対して集団免疫策を実行してきたスウェーデンのストックホルムでは5月時点での抗体保有率は40%です。日本は、東京でこそ6%ですが、他の地域はもっと低い数字です。これが発展途上国になると、都市閉鎖が機能せず、無発症や軽症での感染が拡大していることから抗体保有者が50~80%という驚くべき数字で、自然に集団免疫が形成されているそうです。半面、人口の多い中国では、厳しい都市閉鎖策の結果、コロナ発祥地の武漢でさえ抗体保有率は2~3%ということです。
これらを踏まえると、現時点の世界全体の抗体保有率は5%くらいだろうと推測できます。とすれば、世界の人口は現在約77億人なので、抗体保有率を5%とすると、世界全体のコロナの感染者数は3.85億人ということになり、33万人の死者数を分子として計算すると、コロナの実際の致死率は0.089%ということになります。 毎年のインフルエンザの致死率が0.07%なので、新型コロナの致死率は、インフルエンザと大体同じということです。
ところが、インフルエンザがどんなに蔓延しても、世界的な都市閉鎖をすべきだという話は出ません。そんなことを言う人は変に思われます。一方、今回の新型コロナは、都市閉鎖をすべきでないと言う人の方が変だと思われています。コロナは大変な疫病だという恐怖戦略に完全に乗せられ、世界的な都市閉鎖が続けられているように思えてなりません。
都市閉鎖は、コロナ危機への対策としては絶対に得策ではありません。経済面で人々に強いる苦痛が大き過ぎます。都市閉鎖や経済停止は、外出禁止やSocial Distanceによって一時的に感染拡大を減らすにしても、永久に経済を停止させるわけにいかないので、いずれ閉鎖がを緩和されます。そうすると、第二次、第三次感染が広がります。そして、免疫力が低かったり、持病を持っていたりしてコロナに感染して重症化する人の多くは死ぬことになります。
持病持ちの人々の中には、生活費を稼ぐために仕事をしなければならない人も多いです。持病持ちなので、雇用は不安定です。そのような人々は、今回の都市閉鎖や経済停止の中で、真っ先に仕事を失っています。再就職は難しく、彼らは貧困層へと落ちぶれ、住環境が悪くなり、持病の治療のための医療費も払えなくなって死んでいくのです。コロナでなく、都市閉鎖が彼らを死なせることになります。都市閉鎖を推奨する人々は、彼らのような持病持ちを保護するためには経済閉鎖が良いと言い続けてきました。しかし実際は、都市閉鎖が持病持ちを殺すのです。
スウェーデンで実践され、イギリスなどで提案されてきた集団免疫策は、持病持ちや低免疫者を死なせないための策として提案されてきました。ワクチンがない以上、集団免疫策はコロナ危機を乗り越える唯一の政策ではないでしょうか。
今日の一言:集団免疫策こそコロナ危機を乗り越える道
鶴田健次
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心の適正距離
「わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さを担うべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。わたしたちひとりびとりは、隣り人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばすべきである。」
これは、新約聖書のローマ書15章1-2節の言葉です。ここで言われている強い人というのは、幅広い解釈が可能ですが、信仰によって本当の自由と確信が与えられた人のことです。なぜなら、人間の本当の強さは、そこにあるからです。そういう人は、弱い人の弱さを担い、その人の益を図って喜ばせてあげなさい、と勧められているのです。
このように、他者に対する愛の配慮はとても大切な聖書の教えですが、相手の本当の益のために何かをするということは簡単なことではありません。良かれと思ってする人助けの行為の中に、どれだけ相手のためにならないものが多いことでしょうか。
たとえば、あなたが人の心の痛みをよく理解できる人である場合、そういう痛みを持つ人の助けになりたいと思うとします。それは痛みを持つ人への優しさであり、そのような温かい気持ちを持てることは素晴らしいことです。
ところが、その相手が深い心の傷を持っているときは、その優しい気遣いが、それまでにその人が我慢してきた「わかってほしい」「受け入れてほしい」という欲求を刺激してしまい、あなたに向かって「甘え」が噴き出してしまうことがあります。その人が心を許せる人が少ない場合、その「甘え」は集中的に「わかってくれそうな」人に向かうので、助けたいと思って手を差し伸べたものの、過剰な依存に疲れ果ててしまいます。
その相手にしても、あなたの「優しい」言葉を信じたい気持ちで一杯でありながら、願い通りにならない場合、傷つくのが怖くて、ついあなたを試すようなことを無意識的に繰り返してしまいます。「信じたいのに信じられない」のがこの人の辛いところで、あなたに期待するがゆえに、あなたの「優しさ」を試すことをするのです。これを心理ゲームと言います。そして、その度に、相手の期待する対応ができなければ怒るので、どんなに強い人でも消耗し切ってしまいます。
甘えというのは、心の距離が近いほど出やすくなり、抑えが利かなくなります。一方的に甘えられて大きな負担を感じるなら、心の距離が近くなり過ぎているのかも知れません。
人の痛みをよく理解できる人は、つい人を助けるために無理をしがちで、自分の気持ちを我慢してまで相手のニーズを満たそうとします。そのために、相手はますます依存的になり、それが満たされないと「やっぱり自分はダメなのだ」と無価値感を強くします。
私たちは、無価値感が強いと、自分も他人も信頼できなくなるものです。自分で自分を信頼できないと他人に依存したくなり、思うように助けてくれないと他人を責めたくなります。でも、それは間違いです。誰でも、自分を信頼できる要素を持っている筈で、その思いを引き出してあげることが本当の意味での親切です。
相手を助けるときに無理をしてしまうのは、相手への信頼が足りないからかも知れません。その意味で、相手を心から信頼してあげることで相手の本来の力を取り戻すことになるとすれば、適切な距離をとって見守ってあげることが一番の親切である場合もあるのです。
今日の一言: 適度の距離から見守ることが本当の親切
鶴田健次
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聖書は驚くべき科学の書
真っ暗な宇宙空間に浮かぶ青い地球。人類初の宇宙飛行士ガガーリンは「地球は青かった」と言いました。宇宙飛行士が撮った地球の写真を見れば、地球が青い球体であること、また、その地球が宇宙空間に浮かんでいることが誰にでも分ります。ところが、現代人にとっては当たり前のこの事実が、古代人にとっては考えられもしないことでした。
古代人が宇宙を意識し始めた初期の頃は、彼らにとっての宇宙は、自分たちが住んでいる地球上のそのまた限られた地域に限られていて、宇宙の果ては海であったり、山であったりというものでした。
たとえば、古代メソポタミア人は、大地の周りを高い山々が取り囲んでいて、天空はその山の上にのっているというふうに考えていました。彼らの考えによると、太陽は天空を横切って、地下のトンネルをくぐった後に、再び東からの昇ってくるのだということでした。
また、それ以外にも、古代バビロニアの宇宙観、古代エジプトの宇宙観、古代インドの宇宙観、古代中国の宇宙観など、古代の人々は、それぞれに独自の宇宙観を持っていましたが、そのどれもが今の私たちから見れば非常に幼稚なものでした。
ところが、神の言葉とされている聖書は、今から3000年も昔に、すでに地球を宇宙空間に浮いている存在として描いていました。
「彼(神)は・・・・地を何もない上に掛けられる」(ヨブ記26:7)
当時は、もちろん人工衛星もないわけで、地球の外から地球を見ることなど不可能な時代でした。しかし、そのような時代に、聖書は既に、地球が宇宙空間に浮かんでいるという事実を明らかにしているのです。すべての人々が幼稚な宇宙観しか持ち得なかった時代に、現代人にしか知り得ないことを聖書が明らかにしているという事実は、まさに驚くべきことです。それは、時間を超越して存在する神が、その存在を示すために、後の時代にならなければ分からないことを、こうして明らかにしておられるのです。
この他にも、聖書の中には、その科学的な正確さを示す多くの記述がありますが、その一部を挙げると以下のようなものです。
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地球が丸い物体であることを記している(地球の原語は“地の円”) (イザヤ40:22) |
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星は数え切れない(創世記15:5) |
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海底の谷の存在(サムエル下22:16) |
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海の中の泉の存在(創世記7:11、8:2、箴言8:28) |
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海の海流の存在(詩篇8:8) |
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水の循環(ヨブ36:27-28) |
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すべての生き物はその種類にしたがって増える(創世記1:21) |
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エントロピーの概念(詩篇102:26) |
これらの記述は、この世の自然科学がその事実を見出すずっと以前に既に聖書の中に記されていたことで、実に驚くべきことです。実際、聖書の天地創造に関する記述は、多くの人々に非科学的であると言われ、嘲笑の的にされてきました。人々は、長い間、地球、海洋、大気、大陸などの起源に関して、それが全くの空想的なものであるにもかかわらず、科学者(?)と称される人々の学説を根拠もなく支持してきました。
しかし時代が進み、自然科学者たちの目覚しい研究成果によって、彼らの学説は空想的なものから科学的根拠に基づくものに変えられてきました。ところが何と、その彼らの研究成果は、聖書の記述内容を否定する方向よりも、それを裏づける方向に向いているのです。
そこで聖書を神の言葉と信じる科学者たちは、自然科学の学問が完成に近づけば近づくほど、その学説は聖書の記述内容をさらに証明するものになると信じています。なぜなら、自然科学の学問は、神によって創造された自然界に見られる普遍的な法則性を探求するもので、神が創造された自然と、神が記された創造に関する記述は一致する筈のものだからです。
今日の一言: 聖書は驚くべき科学の書
鶴田健次
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失敗というものはない
あなたは「失敗」という言葉を聞いて何をイメージされますか。敗北、絶望、悲劇、後悔、反省、その類でしょうか。それとも、「失敗」に対して、もっと積極的なイメージを描く方もおられるでしょうか。実際、失敗の捉え方は人によってさまざまです。人生において、上手くいく人、いかない人の違いがいくつかありますが、そのひとつが失敗の捉え方ではないでしょうか。
一万回の実験の失敗(?)の末に明るく寿命の長い白熱電球を完成させたトーマス・エジソンは、「私は失敗したことはない。ただ一万通りの上手くいかない方法を見つけただけだ」と言いました。つまり諦めない限り、失敗は存在しないのであり、諦めて、そこでやめてしまうときに初めて、その事が失敗になるのだということです。
幼い子供が立って歩こうとするとき、また自転車に初めて乗るとき、何度失敗しても諦めずに立ち上がろうとします。そして、失敗(?)を繰り返しながら、やがては上手に歩き、また自転車に乗れるようになっていきます。何度もチャレンジを続け、失敗(?)するたびに新しいことを学び、成長し、やがて成功を手にするのです。
ところが、現実は、誰もが失敗を経験します。中には失敗の連続という人もいるかも知れません。また失敗をしたという意識、つまり失敗感が、私たちを絶望の中に閉じ込めてしまうこともあります。また強い後悔の念を呼び寄せ、自分を責めるようになることもあります。そして、自分を責める度合いが強ければ強いほど、それがトラウマとなって私たちを束縛し、自信を失わせ、やがては失敗を恐れて何もしないことを選ぶ生き方をするようになる場合もあります。
こういう現実を思うときに、実際問題、何をどんな風に失敗したかよりも、私たちがどう自分を責めたかの方が心の痛みは大きくなるような気がします。失敗というのは、私たち自身がそう感じたときに生まれるものです。ですから、多くの偉大な事を成した人たちが、本当は失敗というものはないのだと断言する理由は、それを決めるのが自分自身だからだと思います。
あなたが諦めたとき、その出来事は失敗となります。言い方を変えれば、周りの人が「それは失敗だろう」と思っていても、自分が諦めなければ失敗にはならないのです。逆に、エジソンのように、それを成功の踏み台にすることもできるのです。
事実、失敗という経験は、あなたへのメッセージであり、そこには多くの学びがあります。ですから、もし何かに失敗したと感じたなら、そこから何かを学ぼうとする姿勢が大切です。たとえそれがどんな事であれ、その失敗があなたに何を与えてくれたかを謙虚に受け取るのです。そこで何を受け取るかはあなた次第です。何が答えであるかも、あなた自身に決める権利があるのです。
昔の信仰者たちは、そういう体験を神の視点で見つめ、神との関わりの中で教訓を得ました。そして、それは彼らをして「苦しみに遭ったことは私に良い事でした」と言わしめるほどの特別な経験となったのです。
今日の一言: 失敗というものはない
鶴田健次
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