コロナウィルスの究極の対策
中国の武漢から始まった新型コロナウィルスの感染が世界中に広がり、今ではアメリカが狙い撃ちされているのではないかと思われるほどに、特にアメリカ経済の心臓部であるニューヨークを中心に全米に感染が拡大しています。その結果、4月23日午後11時現在、感染者が890,941人、死者が50,088人になりました。
また、3月13日にトランプ大統領によって国家非常事態宣言が告げられ、さまざまな経済活動がストップしたことで、過去5週間の失業保険申請者が2650万人にのぼり、失業率が3.5%前後という記録的な好景気が続いていた経済状況が一変してしまいました。
そして、この緊急事態に世界の金融市場は敏感に反応し、ダウ平均が一ヶ月で37%も下落し、ガソリン需要の激減とOPECプラスの石油減産交渉の決裂が原因で原油の先物が75%も急落してしまいました。また米連邦準備制度(FRB)は、政策金利をほぼ0%まで切り下げ、大規模な量的緩和政策を導入することで、景気刺激のために打てる策をほとんど打ってしまいました。
さて、この状況は今後どのように発展していくのでしょうか。それは、今回の事態がどのようにして始まったのかによってそのシナリオは違ってくると思います。この新型コロナウィルスは自然発生したものなのか。それとも人為的なものなのか。もし人為的なものであるとしたら、それは誰かの過失によるウィルスの漏洩なのか。それとも綿密な計画による意図的なものなのか・・・・。
しかし、マスコミの情報には不確かなものが多過ぎて、何が本当なのか判断が難しいです。専門家の誠実な意見ですらも、もしその人たちが正しくない情報をもとに推理をしているとしたら、その推理すらも人を騙す結果になってしまいます。
ところで、ずっと不思議に思っていたことですが、ジョンズ・ホプキンス大学のリアルタイム・カウンターでは、ここ一か月以上も、中国の感染者は8万人台のままです。また、数週間前から、回復した人の数が90%を超えていました。これは、まるでワクチンを所持しているかのような回復ぶりです。このような高い回復率が事実なら、なぜそのノウハウを他国に分ち合わないのでしょうか。しかし、なぜかジョンズ・ホプキンス大学のリアルタイム・カウンターは、回復した人の数を出さなくなりました。
面白いことに、新型コロナウィルスの騒ぎが起こる二か月前の2019年10月18日、ビル・ゲイツ財団とジョンズ・ホプキンス大学の主催でEvent21という行事が行われました。世界中から130人の代表が特別に招待され、伝染病がどのように世界に広がり、またどのような結果をもたらすかについてシュミレートしたそうです。その際にシュミレーションされたものは、コウモリから豚を介して人に感染する新種のコロナウィルスでした。肺炎と同じような症状で、発症6か月後に全世界に拡散され、そのシナリオによれば18か月後には6500万人が死亡するというものでした。
現在、全世界を恐怖の中に巻き込んでいるこの事態は、果たして偶然だったのでしょうか?
世界経済は今後どのようになるでしょうか。産業界にも激しい風が吹いています。会社は倒産し失業者が溢れます。オーストラリアの山火事と地球温暖化による気候の問題や今回のような感染症流行、バッタの群れによる大被害、そうなると必然的に世界的な経済破綻が起こり、資本主義経済の体制が崩壊しかねません。またこのタイミングで、もし日本に地震が追い打ちをかけるように起こったら、私たちの祖国日本はどうなるでしょうか。
このような出来事が連鎖的につながる中、今年5月からバチカンでローマ教皇が全世界の指導者たちを招待したイベントが次々と開かれます。タイミングがあまりにもピッタリすぎないでしょうか。これが偶然なのでしょうか。このような発言をするのは本当に慎重にならざるを得ませんが、世界主義者たちの計画通りに世界征服の野望が現実化されているようには見えないでしょうか。
私たちクリスチャンは聖書の終末預言を知っている者です。人間の力で追い切れない災害が同時多発的に起こったときに、必然的に世界は、全地球的な和合を通してシステムを制御し、新しい秩序を立てることになります。
今起こっていることは、獣の刻印の患難時代に入る入り口ではないでしょうか。この事態が収拾されず引き続き発展していき、福音の歴史のクライマックスであるイエスキリストの再臨まで繋がっていかないでしょうか。
仮に今回は、どうにか収拾がついて乗り越えたとしても、キリストの再臨は確実なことなので、今回のような災害は必ずまた襲ってきます。そして次にやってくる時は、今よりも遥かに手に負えない激しさで迫ってくるでしょう。仮に今回どうにか事態が収拾するなら、それは神様が私たちにチャンスを与えて下さるからです。今回の警告を無視するなというメッセージです。
それでは今後、私たちはどのようにするべきでしょうか。この危機の前で私たちが何を準備すべきかは、まさに私たちの永遠を決める問題です。聖書はこの地球の終末の時、人類の歴史が終わることを明らかにしています。またその時に何が起こるかについても詳しく書いています。今世界で繰り広げられている事は、イエス様の再臨に関するあまりにも明白な証拠の数々です。神様が私たちに今、最後の準備をするように叫ぶ声が聞こえてきませんか。この声に耳を傾けなければなりません。
あるハンターがいました。そのハンターがワシを捕らえようとして銃を向けていたのですが、そのワシは自分が死ぬことを知らずにどこかひたすら狙っていました。じーっと見ていたワシは蛇を捕まえて食べようと、その蛇を見つめてハンターを全く意識していませんでした。ところが蛇もまた同じようにどこかを見つめていました。蛇もまたカエルを捉えて食べようとワシに狙われていることを全く意識していなかったのです。カエルもまた同様に、てんとう虫を捕まえて食べようと微動だにしないで狙っていました。ところがてんとう虫もびくともしません。てんとう虫はアブラムシにすっかり気を取られていて蛙を全く意識していませんでした。ハンターはこのような食物連鎖を見て、こっそり銃を置いてふと自分の後ろを振り返って見てみました。誰かがこれと同じように自分を狙っているのではないかと思いました。ハンターは直接その対象を見ることができなかったのですが、彼を確かに狙っているものがありました。それは死という砂時計でした。
この終わりの時代に、私たちは一体何をどのように準備したら良いのでしょうか。実際、人々がなぜコロナウィルスを恐れているかというと、死ぬことを恐れているからです。ならば、私たちは死に備えなければなりません。死は誰もが経験する過程です。では、死の次は何でしょうか。その次のことについて考えてみたことはありますか。世の中の人々は、死を祝福だとは決して言いません。ところが聖書はこう宣言しています。
「主の聖徒たちの死は主の目に尊い。」(詩篇116:15)
聖書は聖徒の死を祝福だと言っています。聖徒たちの死は主の目には貴重なことなのです。なぜでしょうか。イエス様が地上におられたとき葬儀に出席され、そこでこのようなことを言われました。
「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』」(ヨハネ11:25、26)
死は恐ろしいものです。しかし、その準備をすればいいのです。そうすれば祝福された死を迎えることができます。むしろ死んだ後の方が遥かに幸福なのです。イエス様は復活であり、命なので、イエス様を信じる人は死んでも再び生きるのです。死は終わりではなく、新たな始まりなのです。その準備はいつするべきでしょうか。死んでからですか。いいえ。死ぬ準備は今しなければなりません。
今日の一言:死の準備をすれば死は祝福である
鶴田健次
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プラス無限大の世界
こんな場面が描かれている名画を見たことがあります。それは、一人の農夫が畑を耕す手を止め、握っていた鋤(すき)を下ろして地面にひざまずき、両手を合わせて祈っていると、そこに天使が来て、祈る農夫の代わりに畑を耕すという場面です。
人々はそれぞれ自分の人生の畑を耕しています。それがすべての人の人生です。そこで、ある人は畑を耕しながら神と交わる時間を持ちます。そしてある人は、休まずに、ただひたすら働くだけです。この両者の生き方には大きな違いがあります。神と交わる時間は、与えられた務めに対し、神の前で点検を受ける時間であると共に、神から知恵をいただく大切な時間だからです。
イエス・キリストは、岩の上に家を建てた賢い人と、砂の上に家を建てた愚かな人の譬えを用いて、人生という家の建て方を教えられましたが、そこでは、キリストの言葉を聞いて行う人を岩の上に家を建てた人に、一方キリストの言葉を聞いても行わない人を砂の家に家を建てた人に譬えています。
この二つの家は、見かけは甲乙つけがたい立派なものですが、嵐や洪水が押し寄せて来たときに、その違いが明らかになるのだとキリストは言われました。つまり、岩の上に建てられた家は嵐や洪水が来てもしっかり立ち続けることができましたが、砂の上に建てられた家はひとたまりもなく倒れてしまいました。なぜ両方とも立派な家に見えたにもかかわらず、片方だけが立ち続けることができたのでしょうか。それは、その家が岩の上に建てられていたからです。
さて、話を戻して、祈りのある人生と、祈りのない人生について考えてみます。祈りのある人生とは、神と共に生きる人生であり、神の知恵と力と助けが伴う人生です。言うまでもなく、祈りのない人生とは、神が共におられない人生であり、自分の知恵と力と経験だけを頼りに生きる人生です。
あの偉大な使徒パウロは、人間的には誰よりも自分に自信を持っていいはずの優秀な人でしたが、その彼が、イエス・キリストを知り、人間の弱さと限界に目が開かれたとき、「キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。・・・・・私が弱いときにこそ、私は強いからです」(2コリント12:9-10)と言いました。
つまり、自分を頼りとして生きる人生はプラスアルファの人生であり、神に信頼し、神と共に生きる人生はプラス無限大の人生だということです。そして、プラス無限大の人生とは、まさにこの「鋤を下ろして両手を合わせる農夫」の生き方なのです。
あなたはどちらの人生を望まれますか?
プラスアルファの人生ですか?それともプラス無限大の人生ですか? あなたを愛し、あなたのために十字架で死んでよみがえられたイエス・キリストを信じるなら、あなたは神の子とされ、祈りによって神の偉大な御手を動かすことができるのです。
どんなに忙しくても、しばらく鋤を下ろして祈る時間を持ちましょう。
今日の一言: プラス無限大の世界に生きよう
鶴田健次
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“チャンス”
世界中がコロナウィルスの話題で持ちっきりですが、先日、ふとチャンスということについて考えていたら、聖書のこの御言葉が頭に浮かんできました。
「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」(2コリント4:18)」
なぜこの言葉が思い浮かんだのか判りませんが、おそらくチャンスだと思えたことが必ずしも好転に結びつかず、逆に問題だと思えていた事が大きなチャンスにつながるということが人生にはあるものだ、というようなことを考えていたからだと思います。
私たち人間は、どうしても目に見えるものに大きく左右されがちです。しかし経験的にも分かることは、見えるものは一時的な場合がしばしばで、結局のところ、多くの事柄が普遍的な原理に基づいて展開されていくということです。ですから私たちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ必要があるのです。
一万回以上の実験に失敗しながら白熱電球の実用化を成し遂げたトーマス・エジソンは、失敗を失敗とは考えず、「一回一回の失敗は、単に上手くいかない方法を確認し消去しているに過ぎず、失敗を重ねるごとに一歩ずつ成功へ近づいているのだ」と考えました。つまり、見える失敗にではなく、見えないもの(Vision)に目を注いでいたということです。「問題は、何かを示す指針であり、やめろという標識ではない」と誰かが言いましたが、あらゆる問題には、別の面でのチャンスがあるということだと思います。
カルフォルニア州のパシフィック大学には、正門から入るとすぐに、空に向かってそびえ建つ新ゴシック風の建造物があり、ここを訪れる来訪者たちは誰でも高さが50メートルもあるこの塔に目を奪われてしまいます。ところが、ほとんどの人は、これが給水塔であることに気づきません。
さて、この美しい給水塔が建設されるに至ったこのような逸話があります。あるとき、大学内で水不足が深刻になり、何か対策が必要になりました。技師たちは、議論を続けた結果、正門を入ったところに高い給水塔を建てる以外に方法はないとの結論に達しました。しかし学長には、その案は受け入れがたいことでした。なぜなら、巨大で醜い鉄の給水塔は、キャンパスの美しい景観を壊してしまうからです。
そこで、議論が重ねられた結果、この不格好な建物を荘厳な建物にする案が出されました。それは全体をコンクリ-トの建物とし、その上の給水塔の部分はステンドグラスで囲み、下の部分は9階に分け、役員室、会議室、放送室などに使うというものでした。こうして、この大学の職員たちは窓から素晴らしい眺めを楽しみながら仕事をしています。数多くある大学の中でも、このような素晴らしい建物で大学に来る人を歓迎しているところはまれです。
この話は、たとえどんな問題が生じても、その問題解決には多くの創造的な可能性が秘められていることを示しています。見える問題に心を奪われて考えを縛られるのではなく、見えない可能性に目を向け続けるなら、思いもよらない可能性の門が開けてくるものです。チャンスとは、見えないものに目を注ぐ心が手繰り寄せるものだと言えるかも知れません。
今日の一言: チャンスとは手繰り寄せるもの
鶴田健次
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“ヤマアラシのジレンマ”
19世紀のドイツの哲学者ショーペンハウアーの寓話に次のようなものがあります。
寒空の下、一匹のヤマアラシがいました。ヤマアラシはひとりでさみしく思っていました。そこへ、同じように寒がっているヤマアラシに出会いました。寄り添って温め合えば、さみしくないし、お互いが温かくなると思った二匹は、すり寄りました。
しかし、ヤマアラシたちはある程度近寄ると、自分の身を守るためのとげがお互いの身体を刺し合いました。二匹はどうにかして近寄って温め合おうとしましたが、背中の自分の身を守るためのとげが近寄らせてくれません。どうやっても近寄ることのできないヤマアラシ。二匹はお互いのとげが刺さらない距離を保ちながら、一緒に泣きました。
ヤマアラシたちは泣き合っているうちに、気がつきました。近寄りすぎるとお互いの身を守るためのとげで相手を傷つけてしまうけど、傷つけあわないぎりぎりの距離を保てば、お互いがさみしくなく、それなりのぬくもりを得られるということに。
心理学の大家フロイトは、この寓話を元に、‘ヤマアラシのジレンマ’という人間の姿を表しました。それは、「自己の自立」と「相手との一体感」という二つの欲求によるジレンマに悩む人間の姿です。
相手の針の長さをよく考えて近づきつつ、遠ざかりつつ、時には傷ついたり寒くなったりを繰り返して、適度な距離感が掴める様になることがコミュニケーションのコツであり、かつ最も難しいところです。そのためにも、相手の針の長さだけではなく、自分の針の長さを知らなければなりません。
ところで、動物には、自分のテリトリーを誇示する意識があることはよく知られていますが、動物心理学者のヘディガーは、このような動物の行動を研究して「距離の法則」を発見しました。
たとえば、ここに野生の馬がいるとしましょう。人間などが近づいていき、ある一定の距離になると逃げようとします。これは「逃走距離」と言います。さらに人が近づき、もし逃げられないとなると、馬は逆に襲い掛かってきます。これを「攻撃距離」と言います。
文化人類学者のエドワード・T・ホールは、この説を人間関係に応用し、プロクセミックスと名付けて、人間同士の距離を以下の4つに区分しました。
密接距離(0-45cm)
固体距離(45-120cm)
社会距離(120-360cm)
公衆距離(360-750cm)
そして彼の研究によれば、人間関係が悪いのは、ほとんどの場合、密接距離(0-45cm)と固体距離(45-120cm)の関係を持っている時だそうです。つまり、人間関係の距離がいわゆるベッタリの関係になる時、やがてその関係に問題が生じるようになるということです。
ですから、相手との関係の距離が近すぎた時に、人間関係に問題が生じますから、もしそうなったら、一度距離を開く必要があります。そして再度少しずつ近付いて行きながら、適切な距離を判断するようにしていけばいいのです。
問題が生じたら、もうその人とは付き合わないというのは子供の言うことで、そういう態度では幸せな人生など送れません。そうではなく、何事にも取り組みという態度で臨みながら、適切な距離を人との関係に見出すことが出来れば、平和な人間関係を持つことができます。
聖書に、「愛はすべてを完全に結ぶ帯である」という言葉があります。帯には長さがあり、長過ぎても良くないし、短くても良くありません。適切な長さが必要です。つまり、愛とは距離であり、しかも適切な距離のことです。
ぜひ寛容な心で人を受け入れ、赦し合う心を持ち、適切な距離をもって平和な人間関係を築いていきましょう。
今日の一言: 愛とは適切な距離のこと
鶴田健次
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