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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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今日は、‘贖罪の原理’ついて考えてみました。

 

贖罪とは、元来、犯した罪に対して償いをするという意味ですが、キリスト教においては特に重要な意味を持ちます。それは、自分の力では償いをすることができない人間に代わって、神の子キリストの命が犠牲として捧げられ、その代価によって神に対する人間の罪が償われて、両者の間にあった敵対関係に和解がもたらされることを意味します。

 

 もし殺人の罪を犯して終身刑の罰を受けるとしたら、それは一生を棒に振る絶望的なことです。ところが、すべての人間が原罪という罪のために永遠の滅びが定められているという事実は、実は終身刑どころの絶望ではありません。そんな私たち人間が、救い主キリストを信じるだけで罪を赦され、永遠の滅びではなく永遠の命を頂けるとしたら、それはあまりにも分の良い話ではないでしょうか。しかし、この分の良い話がどれだけ有難いものであるかは、そのために払われた犠牲を抜きには語れません。

 

 病院の待合室に二組の家族の姿がありました。片方の家族は二十歳前後の若者たち4、5人とその母親で、その若者たちは革ジャンを着て、髪の毛を染め、どことなく荒々しい雰囲気がありました。部屋の反対側には、品の良い男性が白衣を着て妻と娘と一緒に座っていました。彼らの顔は暗く沈み、深い悲しみの中にあるようでした。そこに一人の女性新聞記者がいて、何やら特ダネになりそうなことをその男性から聞きながらメモを取っていました。

 

 一組目の家族の若者たちは、「ゲシュタポ」と呼ばれるギャングの一味でした。彼らの中には一つの慣わしがあり、新しいメンバーになるには、走る車の中から誰かをピストルで撃って殺し、“男”であることを証明しなければなりません。その「ゲシュタポ」のメンバーである兄弟たちには、リックという心臓病を患っている弟がいて、心臓移植だけが助かる道でした。しかし彼らには、お金もなく、保険もありません。それに心臓の提供者もなく、リックが助かる見込みはどこにもありません。ところが、夕方になって突然、心臓の提供が可能になったということで病院に呼び出されたのです。

 

 もう一方の男性は有名な心臓病の専門医でした。彼は緊急の心臓移植のために病院に呼ばれ、病院に駆け込んで来て初めて、死んだばかりの心臓提供者が自分の息子であることを知ったのです。しかも、これが新聞記者にとって特ダネとしての価値があったのは、心臓を提供する相手がこの男性医師の息子を殺したギャングの弟だったからです。

 

 そこで問題は、この一部始終が分かった今、果たしてこの男性医師が自分の息子の心臓を息子を殺した犯人の弟に提供するかどうかということでした。この医師と彼の家族はクリスチャンで、このいきさつが分かって暫く病院のチャペルで祈っていました。もし彼が息子の心臓をこのギャングに与えるとしても、手術はどうするのかがもう一つの問題でした。一体どこに自分の息子の心臓を息子を殺した犯人の兄弟に与える者がいるでしょうか。また誰が殺された息子の父親にその移植手術を頼めるでしょうか。待合室の緊張はどんどん高まってきました。たとえその医師が息子の心臓をそのギャングに与え、手術をするにしても、彼らには高額の医者代を払うことなど出来ないのです。

 

 待合室の緊張が頂点に達した時、その男性医師はリックの母親を自分の方に呼び、こう言いました。「私が手術をしましょう。息子の心臓をあなたの息子さんに提供します。医者代は要りません。なぜなら、神様も私に同じ事をして下さったからです。」

 

 待合室に歓声がわきあがり、彼らは大声で、「リックに新しい心臓が与えられた!しかもタダだ!おい信じられるか!タダだぜ!」と叫びました。その医師は、そこにかがみ込み、体を震わせながら泣きました。警察官は大喜びをしているギャング達に向かって、「確かに君たちにはタダだが、この人にはタダではない」と言いました。彼は、息子の命という大きな代価を払ったのです。そして、その息子の心臓を息子の命を奪った者に与えたのです。


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 神の恵みとは、こういう事です。神の恵みの本当の意味を理解するには、恵みは確かにタダでも、そのために神がどれだけ大きな犠牲を払われたかを知らなければなりません。神は、無情な群集たちに大切な独り子イエス・キリストの命を取らせ、いわば罪も汚れもないキリストの心臓を、キリストを殺した者たちの魂に移植をされたのです。だから、この偉大な医師である神が、この移植を可能にするために、どれ程までの犠牲を払われたのかが解らなければ、神の恵みの大きさと、その有難さを理解することはできないのです。あなたはこの‘贖罪の原理’が解りますか?

 

 

今日の一言: 神はあなたのために大きな犠牲を払われた

 

 

鶴田健次


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2019.12.28 03:48 | 鶴田健次牧師より

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クリスマスの教えは失うこと


 クリスマスとは、御子イエス・キリストの降誕を祝う日です。しかし、なぜキリストの降誕がここまで世界を挙げて祝われるのでしょうか。それはキリストの降誕が、絶望の世界に希望をもたらし、暗黒の世界に光をもたらしたからです。つまり、罪のために永遠の滅びが定められているすべての人に、キリストを信じる信仰によって罪が赦され、永遠の命が与えられる道が開かれたからです。


 しかし、人間にとっては有難すぎるこの救いが与えられるために、神の子キリストはご自身の命を身代わりとして捧げなければなりませんでした。つまり、言い方を替えれば、イエス・キリストはご自分の命を失うためにこの世に来られたということです。


 ですから、クリスマスのメッセージは、失うことがもたらす恵みということです。だからこそイエス様は、愛する私たちが救われるという、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、自ら進んで十字架につかれたのです。


 新約聖書にたくさんの教会が登場しますが、中でもマケドニヤの二つの教会が輝いています。その理由は、その二つの教会が失うことの喜びを知っていたからです。その二つの教会とは、ピリピ、そしてテサロニケの教会です。


 彼らは、迫害と貧しさ、偶像礼拝などに悩まされました。しかし、否定的に思えるそれらの環境は、教会がめげてしまう要因にはならず、逆に教会に力を与えてしまう結果になりました。パウロがコリントの教会に出した手紙にこう書いてあります。


 「さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。」(2コリント8:1-2)


 実に彼らは失うことを恐れるどころか、喜んだのです。それは、キリストにあって、失うことがもたらす計り知れない恵みを知っていたからです。世界にで働く宣教師、伝道者、そして彼らを派遣する教会も、それをよく知っています。


 アライアンス教団にメーベル・フランシスという女性宣教師がおられました。1880年、ニューハンプシャー州の牧師の家庭に生まれました。彼女が幼いとき、毎朝祈る母の言葉が彼女の耳に刻まれました。


 「主よ、どうか極東の島国、日本という国に宣教師を遣わし、その国民を救ってください。」


 ある朝、彼女は母に告げました。「お母さん、私が日本に参ります。」 そして彼女は成長し、宣教師として、日本を選んだのです。彼女は、四国においてキリストの器として、素晴らしい足跡を残しました。


 多くの教会を生み出し、牧師を育て、戦争中も帰国せずに日本に留まり、日本人のために働きました。戦後、孤児達を助けた功績により、日本政府から表彰されました。その際、昭和皇后の前に招かれた彼女は、皇后に向かってこう言われたそうです。「あなたは、救われていますか?」


 彼女は自分の人生を神に捧げ、日本人のために時間と労力を捧げつくしました。彼女の問いは、キリストからのあなたへの問いそのものです。 「あなたは、今、救われていますか?」


 クリスマスの教えをどう位置づければよいでしょうか。 贈り物? 家族愛? 施し? 人間愛でしょうか? 

いや、そうではなく、クリスマスの教えは「失うこと」ではないでしょうか。


 神は人間のために、最も大切な独り子を失ってくださいました。キリストは天にある神の座と栄光を捨てて、この世に降りて下さいました。新約聖書は、失うことこそ愛だと言っています。与え、捧げ、ゆだね、託す。そしてイエス様は弟子達に言われました。


「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マルコ8:34)


 私たちの苦手は、失うことです。人間ならば、誰でもそうだろうと思います。得ることを望みます。受けることを求めます。与えられることに喜びを感じます。そのためには日夜祈ります。しかし、失うために祈ったことはあるでしょうか? 


 考えてみると、いつも得ることを求めていたように思います。「祝福をください。癒してください。覚えてください。恵み給えてください」とばかり祈ってきたような気がします。


 キリストは、私たちのために、すべてを失ってくださいました。人生も命も、私たちのために。それも人間の内側を支配する醜い罪のためにです。


 イエス様がお生まれになった理由は、与えること、失うことを抜きに語ることはできません。十字架に向かって生きられた33年間、人間のためにご自身のすべてを失ってくださいました。クリスマスの真の意味はここにあります。


 すべてを人類に与えつくして、主イエスは生涯を終えられました。家畜小屋に生まれ、飼い葉おけに寝かされ、ひっそりと眠る御子イエスを拝んだ羊飼いたちと博士たちは、どんな印象を持ったことでしょう。


もうじきクリスマスが来ます。失うためにお生まれになったキリストに出会うために、静かな心で、その日を待ちたいと思います。



今日の一言:クリスマスの教えは失うこと



鶴田健次




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2019.12.25 01:17 | 鶴田健次牧師より

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やみは光に勝たなかった

  

 今日、世界中が私たちの期待とは違う方向に向かっているように思います。いったい世界はどうなるのか、という不安を多くの人が抱いています。まさに終末の時代を予感させます。

 

 政治も経済も大きな問題を抱えています。いつ世界経済が破綻するか分からない状態です。またエネルギー問題、資源問題、人口問題、食糧問題、環境問題、人権問題、倫理問題、宗教問題、南北問題、核問題などの問題を世界は抱えています。

 

 こういう現実に目を向けると、人類の将来に希望を見出すことは困難です。しかし、そういう現実の中で、一年の終わりを迎えつつ、クリスマスの意味を心に留めるとき、そこに大きな慰めを得ることができます。

 

 ヨハネ15節を見ると、こう書かれているからです。

「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」

 

 たとえ、この世の悪がどんなに強大で、また闇がどんなに深くても、最終的には、どんな悪も闇も光であるキリストには勝てないのです。

 

 また、ルカ21011節には、こうあります。

「御使は言った、『恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。』」


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 クリスマスのメッセージは、突き詰めれば、神の目には私たち人間の命は尊いもので、そのことを明らかにするために救い主キリストが来られた、ということです。これは、人間の尊厳を軽視するこの世の風潮とは、真っ向から対立する概念です。

 

 障害を持った人、年老いた人、回復の見込みのない病人、生産性のない人、このような人たちに生きる意味や権利があるのか。ノース・フロリダ大学のクリス・ガバード教授は、かつて、この種の問いに対して否定的見解を持っていました。

 

 彼は、知的能力を高く評価するような環境に育ったために、「正常に機能しない頭脳」を軽蔑するようになりました。その結果、大きなハンディを負った人たちの自殺は認められるべきであるという立場を取るようになりました。

 

 ところが彼は、息子の誕生を通して、自らの見解に変更を迫られるのです。彼の息子は、出産の際に、脳に回復不可能な傷を負いました。そして、脳性麻痺のために盲目で、全身が不自由になったのです。

 

 ガバード教授は、こう語っています。「誕生した息子を見て、私の心は揺れた。・・・それまでは、このような状態の新生児は、生かしておかない方がいいと考えていた。しかし、今、目の前にいるのは、私の息子である。彼は、チューブやワイヤーをあちこちに付けて、最先端の医療用保育器の中で眠っていた。・・・

 

 私を一番驚かせたのは、その子が私に似ていることであった。予想だにしなかった衝撃が、私を襲った。彼は、私が子供時代の写真から抜け出て、そこにいるかのような顔をしていた」

 

 今日、ガバード教授は、障害を負った新生児の尊厳を擁護する論客の一人になっています。2010年のギャラップの調査では、アメリカ人の46%が、自殺の手助けをすることを容認しているそうです。

 

 このことに関して、ガバード教授はこう述べています。

「そのような善良な市民の多くが、私の息子の苦難を終わらせてあげたいと思っている。しかし彼らは、私の息子が本当に苦しんでいるのかどうか、立ち止まって考えようとはしない。

 

 ガバード教授の体験は、人間の尊厳というテーマを考え直すよう、私たちに迫ってきます。聖書は、人間は「神のかたち」に造られているがゆえに尊い存在なのであると教えています。人間の尊厳の根拠は、そこにあるのです。

 

 外から見る人間の姿がその人のすべてではありません。それどころか、目に見える部分は、ほんの一部分に過ぎないのです。むしろ目に見えない魂と霊が、その人の本当の存在であり、それこそが神のかたちに似せて造られた尊い存在なのです。

 

 ガバード教授は、脳性麻痺を負いながら生きている自分の息子を、こよなく愛しています。それは、その子が自分のコピーのような存在だからです。同様に、創造主である私たちの父なる神は、「問題の多い」私たちを愛しておられます。その愛の表現が、御子イエス・キリストが人となられたというクリスマスの出来事なのです。

 

私たちの内には本当の愛などありません。私たちの愛は、自己中心の愛、条件付の愛です。本当の愛は神から来るものです。だから、神の愛を受けた者だけが、本当の意味で隣人を愛することができるようになるのです。

 

今年のクリスマスが、神の愛を体験する機会となりますように。

 

 

今日の一言:あなたは神のかたちに造られた尊い存在

 

 

鶴田健次


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2019.12.20 13:44 | 鶴田健次牧師より

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すべてのことについて感謝しなさい

 

 使徒パウロは、第一テサロニケ5章18節で、「すべてのことについて感謝しなさい」と勧めました。この聖句は16節、17節の聖句とともに、聖書の中でも最も有名な聖句のひとつです。

 

 「すべてのことについて感謝しなさい」 これはすべてのこと、どんな状況でもということです。つまり嬉しい時でも、悲しい時でも、失敗した時でも、さらには苦しみに直面している時でも、すべてのことについて感謝しなさいという意味です。いったいどうすればこのような時にも感謝できるのでしょうか。

                                                

 ここで鍵になるのは、同じ18節にある、「キリスト・イエスにあって」という言葉です。自分の力ではとても感謝などできなくても、キリスト・イエスにあるならば感謝できるのだということです。災害に見舞われても、病気になっても、思うように事が進まなくても、この世を治めておられる神様の視点で物事を見るなら、どんな状況でも感謝することができるのです。

 

 ジョン・クゥアンの「一生感謝365日」という本の中に、すべての感謝の基本ということで、次のように書いてあります。

 

「幸せは持っているものに比例するのではなく、感謝に比例する。自分の人生のすべてのことを感謝だと感じられれば、それに比例して幸せも大きくなる。ではどのように感謝することができるだろうか。 (中略)

イエス・キリストを送ってくださったことにより、死から永遠のいのちに移されたことよりも尊く、価値のある贈り物が他にあるだろうか。だからこそ私たちは、イエスの十字架を見上げて感謝しなければならない。これがすべての感謝の基本であり、始まりである。」

 

 これがキリスト・イエスにあってということです。私たちはイエス・キリストにあってこのような素晴らしい救いを受けているのです。ですから、たとえこの地上で悲しいことや苦しいことがあっても、そうした目の前の出来事に押し潰されず、その先にある栄光の望みを見て喜び、感謝することができるのです。

 

 この手紙を書いたパウロは獄中にあっても喜んで毎日を生きていました。彼の人生は苦難の連続でした。宣教の働きにおいては、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついには死さえも覚悟したと彼は言いました。そればかりか、彼は肉体に一つのとげを与えられ、それを去らせてくださいと三度も主に願ったにもかかわらず、取り去られることはありませんでした。

 

 辛く苦しい人生を呪えと言われて呪う権利がある人がいるとしたら、このパウロとヨブが一番に挙げられると思います。それほどの苦しみを味わったのです。そのパウロが、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい」と言うことができたのは、彼がこの素晴らしい宝を見出していたからです。

 

 ピリピ書4:11-13で、パウロはこのように書いています。

 

 「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」

 

 これがパウロの喜び、パウロの感謝の秘訣だったのです。私たちは、私たちを強くしてくださる方によってどんなことでもできるのです。私たちに永遠の命を与えて下さった神の恵みがあれば、すべてのことについて感謝することができるのです。

 

聖歌の「やすけさは川のごとく」を書いたホレイショ・スパフォードは、絶望的な状況でも、神の前で喜び、賛美し、感謝した人です。弁護士であり、法医学の教授であった彼は、ムーディーが赴任していたシカゴの教会の執事でした。しかし、シカゴ大火災で全財産を失い、火災の直前に息子を失いました。大きな試練に遭ったスパフォードとその家族には、休養が必要でした。1873年、彼は妻と4人の娘と共に、ヨーロッパ旅行を計画しました。しかし、スパフォードは、D・L・ムーディーの伝道旅行を手伝うために、妻と4人の娘を先に船に乗せました

 

ところが、妻と四人の娘たちを乗せた船が衝突事故を起こし、娘たち全員が亡くなってしまいました。生き残った妻に会い行くために舟に乗りました。船長と話していると、船長が、「もう少ししたら、娘さんたちが眠っているところを通りますよ」と言いました。その言葉を聞いたスパフォードは、それまで冷静さを保とうと頑張っていた心に、大きな嵐が吹き始めました。寝室に戻り、悲痛な叫びの祈りを神にささげました。

 

 長い祈りの中で、絶望し、泣き疲れているスパフォードに神の臨在が波のように押し寄せました。その瞬間、今まで体験したことのない平安が彼の心に満ち溢れました。全ての苦難と絶望と悲しみは神の臨在の波にのみ込まれ、人知では計り知れない心の平和がやってきました。そして、彼の心に、神を賛美する歌詞が湧き上がってきました。

 

やすけさは川のごとく 心ひたすとき
悲しみは波のごとく わが胸満たすとき

 

すべてやすし み神共にませば

 

When peace, like a river, attendeth my way,
When sorrows like sea billows roll;
Whatever my lot, Thou has taught me to say,
It is well, it is well, with my soul.

 

It is well, with my soul,
It is well, with my soul,
It is well, it is well, with my soul.

 

世界を信仰の目で見上げることができるなら、そこに変化が起こります。神様の力がどれほど大きいか、神様が自分をどれほど愛してくださっているかを知るなら、私たちは神様に感謝をせずにはいられません。信仰の目が感謝を生み出すからです。

 

 

今日の一言: すべてのことについて感謝しなさい

 

 

鶴田健次

 

 

鶴田健次


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2019.12.16 11:58 | 鶴田健次牧師より

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 今日は、ゴミ捨て場の思考ということについて考えてみました。

 

 ある哲学者が、「あなたが現在の状態にあるのは、あなたが意識的にせよ、無意識にせよ、それを望んだからだ」と言いました。この考えには、もちろん例外はあるとして、基本的に私は賛成です。

 

 以前、私がまだビジネスマンのころ、ロサンゼルスから車で二時間ほどの郊外にある会社を訪ねたことがありました。その会社は分かりづらい所にあって、最初は100人中98人までが迷うそうで、途中で分からなくなったら電話を下さいということでした。しかし、私は方向感覚には比較的自信があったので、100人中の2人になろうと思って行きました。

 

 ところが、途中で道路工事が行われていたので、私は止む無く別の道を通ることになり、そのために(?)完全に道に迷ってしまいました。約束の時間もあったので、私は近くにあったガソリンスタンドに駆け込み、適切な道を尋ねることにしました。

 

 スタンドの店員は、快く教えてくれ、親切に地図まで書いてくれました。そして、その地図どおりに行けば、余裕をもって目的地に着くことができると保証してくれたのです。私はアメリカにも親切な人がいるもんだと気を良くし、地図どおりに車を走らせました。ところが、走っても走っても、地図にある目印のところに行き着きません。約束の時間が過ぎ、その会社に電話をすると、私は全く反対に向かって走っていたのです。もちろん、私は自分の意図でわざわざそこまで来たわけではありません。間違った方向を教えられたためにそうなったのです。

 

 同じ事が、私たちの人生にも言えないでしょうか。一文無しであるとか、絶望状態にあるとか、憂鬱であるとか、家庭や仕事が上手くいっていないという、私たちの望まない現実があるとすれば、私たちは間違った方向に進むように教えられ、そのゴミ捨て場の思考を持ち続けてきたのかも知れません。

 

 では、このゴミ捨て場の思考とは、一体どういうものでしょう。

 ある大都市の郊外で、もともとゴミ捨て場であった所に新しく立派なショッピングセンターが建てられることになりました。そこは長い間、誰もゴミ捨て場以外には考えてもみなかったところです。ところが、ある時、想像力豊かな市民が、そこを綺麗なショッピングセンターにしようと決めたのです。そこで、彼らはゴミを捨てるのをやめ、綺麗な盛り土を運んできて、長い間に蓄積されたゴミを覆うことにしました。相当な量の盛り土が何ヶ月もかけて運ばれ、完全にゴミを覆い尽くし、やがてその土台の上に立派なショッピングセンターが出来上がったのです。

 

 この話は、誰かが過去に私たちの思考にゴミを投じてきたかも知れないことを考えさせてくれます。しかし、これまでにどんなゴミが投げ込まれていても問題ではありません。そのようなゴミはすべて克服することができます。そう決断するなら、私たちにとって、今日がこれから始まる人生の初日なのです。

 

栄養失調の人が、バランスのとれた食事をたっぷり食べても、一食だけでは完全な栄養状態を取り戻すことはできません。積み重ねが大事です。私たちがしなければならないことは、過去に蓄積された間違った物の考え方や生活習慣というゴミを真理に基づく正しい生活習慣という綺麗な盛り土で覆うことです。そのために最も効果的なことは聖書を読むことです。なぜなら聖書は私たちの心を健全に育てる唯一の魂と霊の糧だからです。

 

「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。 それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。」(2テモテ3:1617

 

日々、聖書を読み続ければ、その素晴らしい教えによって、深く深く、そのゴミをより奥へ埋めることができます。そして、聖書に基づく健全な物の考え方と生活習慣が、やがて私たちの人生に素晴らしい実を結ばせてくれることになるのです。

 

 

今日の一言: 今日がこれから始まる人生の初日

 

 

鶴田健次

 

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2019.12.07 03:05 | 鶴田健次牧師より
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