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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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人生の畑に良い種を蒔こう

  

 私たちは人生の畑に良い種を蒔くことを、地上の人生の目標にしたいと思います。畑は正直です。蒔いた種類に従って、蒔いた量だけ、畑は生産をします。人生の畑も同様です。毎日、毎日が、私たちに与えられた人生の畑です。私たちは、ここに何かを蒔かなければならないのです。

 

パウロは、「人は自分のまいたものを刈り取ることになる」と言いました。人は、悪を蒔いて、善を刈り取ることはできません。人に害を加えれば、その人から益を得ることはできません。過去の間違いは赦されることはできても、蒔いた間違いは必ず刈り取ることになります。

 

もしあなたが何か罪を犯した場合、たとえその罪がどんなに大きな罪であろうが、あなたが本気で神様の前に悔い改めるなら、神様はその罪を赦して下さり、あなたとの正しい関係を回復して下さいます。ところが、蒔いたものは必ず刈り取らなければならないので、あなたは何らかの方法で、その罪の代価を払うことになります。

 

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 あるクリスチャンが、こんな証しをされました。彼は、クリスチャンになる前は会社を経営していたのですが、不渡りを出して債権者たちから追いかけられるようになりました。

 

 そんな生活から逃れるために、彼は自殺しようとしましたが、未遂に終わり、友人の誘いで教会に行くようになりました。しばらくして、彼はイエス様を救い主として受け入れ、クリスチャンになりました。

 

 そして、その日から毎日祈りを捧げることに決めて、祈り始めました。「全知全能なる神様、私の罪を赦して下さったことを感謝します。願わくは、私の負債を一度に返済できるようにして下さい。」 

 

 そう祈りながら、宝くじを買い始めました。ポケットにお金が入ってきたら、宝くじを買いました。ところが、結果はいつも空しいものでした。それで彼は、「神様は全知全能でいらっしゃるのに、なぜ、私の負債をすぐに返済できるようにして下さらないのか?」と考え、荷物をまとめて、祈祷院に行きました。

 

 負債を返済できるようにしてもらうまで、絶対に祈祷院から出ない、と彼は覚悟をして、断食をしながら、声が嗄れるほど大声を出して祈りました。1日が過ぎ、2日が過ぎ、・・・3日が過ぎても、何の答えも得られませんでした。

 

 4日目の朝、静かに祈っていると、聖霊の声が聞こえました。「あなたの罪は赦された。しかし、あなたの負債はあなたが返済しなければなりません。この世での負債をあなたが作ったのですから、わたしにその負債の返済を求めるのは間違いです。わたしを信じ、わたしに熱心に仕え、十分の一を捧げながら事業をしたら、わたしがあなたの事業を祝福します。しかし、負債はあなたが返済しなさい」。

 

 その言葉で、彼は自分の間違いに気付きました。自分が蒔いたものは、自分が刈り取らなければならない。負債の種を蒔いたのだから、今度は負債を支払う種まきをしなければならない。

 

 そう示された彼は、熱心に商売をし、正確に十分の一を神様に捧げ、日曜日はどんな事があっても教会の礼拝に出席しました。すると神様は彼の商売を祝福し、彼は負債をきれいに返済することができました。

 

 人生の畑は、蒔いた通りに刈り取るのです。悔い改めることによって、罪は赦していただけますが、刈り取りは、自分が蒔いた通り、自分が刈り取らなければなりません。ですから、将来のために良い種を蒔くことが大切なのです。

 

 この世に生きているかぎり、幾つになっても、私たちは種まきと刈り取りを続けます。信仰の種、従順の種、希望の種、愛の種、義の種、喜びの種を蒔いておいたら、豊かな実を刈り取る人生を生きることができます。

 

人は、蒔いた通りに刈り取りもすることになります。良い種を蒔けば良い実を刈り取り、悪い種を蒔けば悪い実を刈り取ります。人が何を蒔こうとも、その通りに刈り取ります。それは、神様の法則なのです。ですから、神様が私たちに与えて下さった人生の畑に、気をつけて、毎日、良い種を蒔くようにしていきたいと思います。

 

 

人は自分の蒔いたものを刈り取ることになる

 

 

鶴田健次


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2019.06.29 00:02 | 鶴田健次牧師より

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一貫した人生の目標

  

 新約聖書のパウロの手紙を読んで分かることの一つは、パウロが一貫した人生の目標を持っていたということです。 彼は、ただイエス・キリストの福音を伝えて生きていたのではなく、生涯を通して走り続けることのできる明確な目標を持って生きていました。

 

ピリピ書3:13-14を見ると、彼は「私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」と言っています。

 

彼は、目標がはっきりしていたので、その行く道で、どんな困難が生じても、それに邪魔されず、目標に向かって走ることができました。その目標とは、神から与えられた使命、つまり異邦人に福音を伝えることでした。

 

 使徒行伝9:15を見ると、イエス様はパウロのことを、「あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です」と言われました。つまりパウロという人は、異邦人に福音を伝えるために神様が選ばれた特別な器であったということです。

 

そして彼は神様から称賛を得、栄冠を得ることを願ったのです。よくやったと称賛を受け、神様から栄冠をいただける伝道者になることを願ったのです。

 

 皆さんは、毎日、何に向かって走っておられますか。朝起きて、顔を洗い、服を着替えて、朝食を取り、それぞれの生活が始まります。ある人は仕事に出かけ、ある人は学校に行き、またある人は家事をする、というように、何をしながら生きるかは様々です。

 

しかし、何をするにしても、その生活のすべてを貫いている人生の目標は何でしょう。ただ毎日の生活をしているだけでしょうか。食べて寝て、仕事をして、それを繰り返して、あとは死ぬだけでしょうか。それでは、自分の人生を全うしているとは言えません。私たちは、神の前で自分自身の人生が何なのか、その目標を知らなければなりません。

 

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自然界の全ての生き物は、みな生きる目標を持っています。バラの花は、バラの花としての目標を果たします。カーネーションは、カーネーションとしての目標を果たし、ひまわりは、ひまわりとして、百合は、百合として、自らの存在の大きさにかかわらず目標を果たします。それが造られたものの完全な生き方です。

 

 もちろん目標に向かって生きるということは、多くの困難が伴います。パウロも神様の召しに応えていく人生において、数多くの試練に遭いました。福音を伝えながら数多くの迫害を受け、牢獄に入れられて苦労しました。

 

 パウロは数多くの迫害に遭いましたが、倒れてもすぐに起き上がりました。起き上がりこぼしのように、倒れても、倒れても、起き上がりました。それは、彼の内に神様がおられたからです。神様の召しに向かって進んで行くなら、神様が支えて下さるのです。

 

 神様を知らない人は、自分の力で生きるしかないので、力尽きれば倒れてしまいます。しかしイエス・キリストを信じる者の中には、聖霊によってキリストの命が宿っています。キリストのよみがえりの命が臨んでいます。ですから、どんな試練と患難に遭って倒れても、起き上がりこぼしのように起き上がることができるのです。

 

 ブラジルホーリネス教団の創設者である物部赳夫先生のお話をします。物部先生は、1925年、ブラジルにいる日本人にキリストの福音を伝えるために、70日間の船旅をしてブラジルに行かれました。そして、言葉では言い表わせない苦労を重ねながら伝道を続け、現在のブラジルホーリネス教団の基礎を作られました。

 

 福音が力強く伝えられる所には、必ず地に落ちた一粒の麦があると言われますが、まさに物部先生こそ地に落ちた一粒の麦でした。物部先生は非常に健康な方で、寝る時間も惜しんで色んな地域を回り、開拓伝道に励まれたそうですが、たとえ病気になっても日曜日の礼拝の説教を休むことはなかったそうです。具合が悪いときでも、布団に寝たままで説教をされたそうです。

 

 そのような過酷なまでの伝道の働きを続けられ、そのために健康を害し、それでも休むことなく働かれたので、5年間の宣教の働きの後、39歳の若さで天に召されました。その召される前の礼拝のときも、布団に寝たままで説教をされ、その時、先生の目の前で熱心に説教を聞いていた4人の青年が、その場で牧師になる決断をし、その後のブラジルホーリネス教団の中心的な働きをするようになったということです。

 

なぜ物部先生は、様々な困難に会いながらも、このような過酷なまでの伝道の働きを続けることができたのでしょうか。それは、この人生の究極の目標をご自分の一貫した目標として持っておられたからではないでしょうか。

 

 

今日の一言: 一貫した人生の目標を持とう

 

 

鶴田健次



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2019.06.21 23:07 | 鶴田健次牧師より

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20世紀で最もキリストに似た人物

  

東洋の聖フランシスコ、また20世紀で最もキリストに似た人物と呼ばれたサンダー・シングという人をご存知でしょうか。彼は19世紀末期にヒマラヤに生まれ、家は代々、ヒンズー教の一派であるシーク教でした。

 

サンダー・シングはこの家に育ち、小さい頃から霊的に敏感で、様々な宗教書を読みあさり、真の神を求めていました。7歳の頃までには、ヒンズー教の聖典バガバッド・ギーターを全部暗唱するほどになっていました。


 そして、15歳の頃までには、すでにイスラム教の聖典コーラン、インドの聖典ウパニシャッド、ヴェーダ、シャーストラ、グラント、仏教の聖典などを読破していました。


 サンダー・シングが14歳のとき、最愛の母と兄が亡くなり、その耐え難い悲しみと孤独の中で彼は、死とは何か、来世とは何か、永遠の幸福はどうしたら見出せるのかを、切実に追い求めるようになりました。


 彼はあらゆる宗教の聖典を読みふけり、学者や僧侶のもとに足しげく通っては質問を投げかけましたが、満足のいく答えは得られませんでした。またどんな修行を積んでも彼の心を満たすものはありませんでした。


 その後、ミッション・スクールに入学し、キリスト教にふれる機会がありましたが、シーク教徒であった彼は、異教の教えに反発し、宣教師に石を投げ、聖書を公衆の面前で引き裂いて焼き捨ててしまいました。

 

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 ところが、聖書を焼き捨てたことは、心を平和にするどころか、彼の心をますます不安にさせたのです。彼はそれから三日目に、とうとう命懸けの決断をしました。それは、もし彼が朝まで祈り続けて神からの道が示されなければ、日の出前に鉄道自殺を遂げる、という決意でした。


 1904年12月18日の朝3時、彼は凍てつく寒さの中で水をかぶり、救いの道を示したまえと一心に神に祈り始めました。


おお、神よ。もし本当におられるのなら、わたしに正しい道を示して下さい。わたしは献身者になりましょう。さもなくば、自殺します


 そして心の内につぶやきました。「何も啓示がなければ死ねばよい。あの世で神を見出せるだろう。」


 彼は朝3時から祈り始めましたが、答えが得られないまま、4時半になりました。突如、室内が明るい光に照らされました。光はさらに強まり、浮かぶ光の輪の中からやがて神々しい人が現われました。


 釈迦かクリシュナ(ヒンズー教の神の一つ)か、と思った彼は、その方を礼拝しようとしました。すると、次の言葉が稲妻のように彼の心の中に響きわたったのです。


「あなたはなぜ、わたしを迫害するのか。わたしがあなたのために十字架上でこの命を捨てたことを思え。」


 彼の前に現われたお方は、予想していたインドの神仏ではなく、彼が三日前に焼き払ったあの聖書の語る救い主、神の御子イエス・キリストだったのです。その体には、2000年前に受けた傷の跡がくっきりと見えたといいます。


 その御顔は慈愛に満ち満ちていました。
こうしてサンダー・シングは、それまで一度たりとも味わったことのない、真の心の平安と歓喜を見出したのです。


 この日を境に、彼はクリスチャンの献身者として、宣教を開始することになりました。この時の経験が本物であったことは、その後の彼の宣教のすさまじさが物語っています。


 敵国の宗教に転向したことで、彼は家から追放され、毛布一枚、聖書一冊しか持たずに出ていきました。その時に持たされた毒入り弁当で、死線をさまようことになりますが、主イエスが彼を不思議な方法で救われたのです。


 彼は洗礼を受け、キリストにならって荒野で40日間の断食を行ないました。迫害を受けることも度々でしたが、彼の宣教によって多くの人がキリストを受け入れました。彼の前では暴徒もひれふし、人食い豹も子猫のように懐いたと言います。彼が祈ると、癒される病人が続出しました。

 

 彼は晩年、キリスト教に対して最も偏見の強いチベットに宣教に行きました。そこで彼は行方不明になりました。おそらく殉教したのであろう、と言われています。


 主イエス・キリストは、あの日の朝以来、常にサンダー・シングと共におられました。サンダー・シングが主イエスを見たのは、鉄道自殺を考えていたあの日だけではありません。彼はあれから常に、目の前に主イエスを見ていたのです。

 

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 わたしは常に主をわたしの前に置く。
 主がわたしの右にいますゆえ、
 わたしは動かされることはない。
 このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。
 わたしの身もまた安らかである
。(詩篇1689

 

 

今日の一言: わたしは常に主をわたしの前に置く

 

鶴田健次

 

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2019.06.14 23:07 | 鶴田健次牧師より

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