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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

 あなたはいくつになっても夢を見ることができる


Dream Big 

 旧約聖書のヨシュア記14章に、85歳で困難な戦いに自ら進んで志願した人物が登場します。彼の名前はカレブです。カレブはヨシュアと共にイスラエルの勇者でした。

 

 普通ならば、85歳といえば、生きていても隠居生活をしている歳です。元気な人は、85歳でも、自分で買い物に行き、自分で食事を作って食べる。そういう生活をしてらっしゃる方もおられます。しかし、85歳で、普通の人にはとても出来ない困難なことにチャレンジするという人は極めて稀だと思います。

 

85才になったカレブは、「私の今の力は、あの時の力に劣らず、どんな働きにも、戦いにも堪えることが出来ます」と言いました。しかし、そうは言っても85歳ですから、たとえ気力はあっても、肉体は45年前と同じという訳にはいきません。しかし、彼の言葉は年寄りの強がりだったのではありません。彼はこう言っています。「主が私とともにいてくだされば、私は彼らを追い払うことができましょう。」

 

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  つまり、カレブは、神が一緒だから何でも出来ると言っているのです。天地を造られた神、全能の神が一緒におられるなら、自分が年老いていることなどは何も問題ではないと彼は考えていました。 「1+無限大」も「1万+無限大」もその答えは同じであるように、無限大の力を持たれた神が一緒であれば、1の力でも、1万の力でも、結果は同じだということです。これが神を信じる者の力です。

 

 その意味において、カレブは私たちに、「あなたはいくつになっても夢を見ることができる」ということを教えてくれます。「いくつになっても」ということは、高齢になってもというだけでなく、若くてもということです。20歳であろうが、40歳であろうが、60歳であろうが、80歳であろうが、夢を見ることは素晴らしいことです。

 

東京に聖路加国際病院という病院があります。この病院に『聖ルカ病院』という名前がついているのは、「ルカの福音書」を書いたルカが医者であったからだそうですが、この病院は、医師であり宣教師であったルドルフ・トイスラーによって開設されました。ドクター・トイスラーは、この病院にこういう夢を託しました。

 

「この病院は、クリスチャンの愛が人の苦しみを救うために働くとき、人を変える力となるということを、だれもが確信するようになるための、生きた器官である。」

 

 この創立の精神は今もしっかり引き継がれ、日本でもっとも進んだ病院として脚光をあびています。この病院をさらに有名にしたのは、日野原重明という人です。日野原先生は2017年に105歳で天に召されましたが、100歳を過ぎても精力的に活動しておられたそうです。日野原先生は、「人生は75歳から」という持論を持っておられました。

 

 この「人生は75歳から」というのは、おそらく旧約聖書のアブラハムからきているのではないかと思いますが、信仰の父と言われるアブラハムは75歳になってから、人類を救う、神様の計画の担い手として、新しい出発を始めました。

 

 モーセが、エジプトの奴隷となっていたイスラエルを救うために立ち上がったのは、彼が80歳の時です。それから彼は、120歳で死ぬまでの40年間、イスラエルを約束の地に導くという夢の実現のために力強く生きました。

 

 ヨシュアがモーセの後継者となって、カナンの地を征服するために歩み出したのは、彼が95歳の時です。それから彼は110歳で死ぬまでの15年間、カナン征服の夢を持ち続けながら、夢の実現に向かって進んで行ったのです。

 

 以前、世界で大成功を収めた200人の人々に関する研究発表がなされました。その中で、この200人全員に共通するものがありました。それは、彼ら全員が大きな夢を持ち、明確な目標を定め、その目標達成のために歩むことを止めなかったということです。

 

 私たちも夢を見る必要があります。しかも、小さな夢ではなく、神が持たせて下さる大きな夢を見なければなりません。小さな夢は小さな働きにしかつながりません。しかし、大きな夢は大きな働きにつながります。

 

人は年を重ねるにつれて過去を見、うしろを向きがちになります。しかし聖書は、人は聖霊を受けると「若者は幻を見、老人は夢を見る」と言います。

 

あなたも聖霊を受けて下さい。そして、幻を見、夢を見、祝福を受け取る人生を生きていただきたいと思います。

 

 

今日の一言: いくつになっても夢を持ち続けよう。

 

 

鶴田健次



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2019.01.26 04:16 | 牧師室より

牧師室より#420:自分の十字架を負う_convert_20190119033333 


自分の十字架を負う



 マタイ16:21-23に、イエス様とペテロのこんなやりとりがあります。イエス様がやがて十字架の苦しみを受けるということをおっしゃると、ペテロはイエス様をいさめて、「主よ、あなたが十字架につかれるなんて、とんでもないことです。そんな事をみんなの前でおっしゃってはいけません」と言いました。


 するとイエス様は、そこにペテロに対するサタンの惑わしを鋭く察せられて、「サタンよ、引き下がれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」とお叱りになりました。


 つまり、神が備えられた道に伴う苦しみを避けることは、神の御心ではなく、人間の思いであるということです。イエス様は、その苦しみを「十字架」と言われました。しかし、私たちの十字架は、神の御心に従うからこそ受ける試練であり、それはやがて祝福につながるのです。


 また、私たちの十字架は、強制的に受ける試練ではなく、自分で選ぶ試練です。イエス様は十字架の道を拒む自由を持ってらっしゃいましたが、私たちを愛する一心で、その十字架の道を自発的に選ばれたのです。


 ですから、十字架を負うというのは、その試練を選ぶ自由と選ばない自由がある中で、その人を愛するがゆえに、その人のためにその試練を選ぶということです。しかし、その十字架は神の御心であるがゆえに、その十字架の後には勝利と祝福が待っているのです。


 こんな話があります。インドの有名なシンという伝道者がチベットまで歩いて伝道に行きました。ある日、ひとりの旅人がシン先生と一緒に歩いていました。そこで、彼らは激しい吹雪に出会います。彼らは、唇が凍るほどの寒さで、ほとんど話も出来ない状況でした。


 そんな中、二人は意識を失って横たわっている人を見つけました。シン先生はその人を助けようと思って、一緒に歩いていた旅人に、「手伝って下さい。この人を助けましょう」と言いました。すると、その人は「そんな無茶なこと言わないでくれ。もしその人を助けたら、私たちみんなが死んでしまう」と言って、一人で先に行ってしまいました。


 しかし、シン先生は苦労しながら、意識を失った人を背負い、隣の村に向かって歩き始めました。すると、考えてもみなかった事ですが、その大変な肉体的負担のお蔭で、シン先生の体は温かくなりました。しばらく行くと、先生は凍った遺体を見つけました。よく見ると、それは、先に一人で行ってしまった旅人の遺体でした。


 シン先生に背負われた人も、歩いている間に、シン先生の体温で温められ、意識を取り戻すことが出来ました。キリストの愛の故に、寒さのために苦しんでいたシン先生は、寒さで死にそうな人を苦しみながら背負うことによって、彼も死にそうだった人も共に助かるという、人の思いを超えた祝福がもたらされました。


 十字架を負うことには素晴らしい祝福が待っているという証しです。


「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見出すであろう。」(マタイ16:25)


 本当の愛には犠牲と痛みが伴います。しかしイエス様の十字架が私たちに勝利と祝福をもたらしたように、私たちの負う十字架も人々に祝福をもたらすことでしょう。



今日の一言:十字架を負う生活には祝福が伴う



鶴田健次


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2019.01.19 03:36 | 牧師室より

牧師室より#419:誰もが困難を経験する_convert_20190112031014 


誰もが困難を経験する


 
 神は私たちの誰にも困難のない楽園を約束されたりはされません。たとえあなたの人生が神の御手の中にあっても、それはすべてが楽な道とは限りません。

 

 人生の谷を通ることは普通であり避けられないことです。あなたは今その中にいるか、ちょうどその中から出て来たところか、あるいは、その中に入って行こうとしているか、そのいずれかでしょう。神は祝福の中におられ、困難の中にもおられる神です。


聖書の中のヨセフとヨブのことを考えてみましょう。この二人は正しい人で、神を信じ、神を敬う人でした。彼らは何一つ悪い事をしたわけではありません。しかし、彼らは二人とも多くの苦難に耐えなければなりませんでした。彼らの人生の旅路には、平坦な道よりも険しい道のほうが多かったように見えます。しかし、最後には、彼らの人生は祝福で飾られたものとなりました。


 1-11-19 


 あなたにも同じことが言えます。たとえ今、あなたが困難の中にいようとも、それは必ずしもあなたが何か悪い事をしたからではありません。困難は誰にでも付きものです。


 聖書は、「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」(マタイ5:45)と言っています。


 ですから、たとえあなたがどんな道を通っているとしても、神があなたと共におられることを忘れないでください。神は真実な方です。そしてあらゆる谷を通してあなたを祝福へと導かれるのです。


「あなたがたが今入ろうとしている約束の地は、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている。」(申命記11:11)



今日の一言: 困難の先には祝福がある



鶴田健次



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2019.01.12 03:13 | 牧師室より

牧師室より#418:どんな時にも感謝をする理由がある_convert_20190105032129 

私たちにはどんな時にも感謝をする理由がある



人は誰でも三つのカテゴリーのどれかに当てはまると言われます。その三つのカテゴリーとは、 闘いの只中にいる人、闘いから抜け出ようとしている人、そして闘いの中に入ろうとしている人です。


 しかし、神が共におられるなら、たとえ私たちがどのカテゴリーの中にいたとしても、私たちには必ず感謝と喜びを感じる理由があるのです。


今あなたが置かれている状況は、あなたを悲しませ、怒らせ、落ち込ませるものかも知れません。そしてそれらの感情は、あなたを落胆させ、悲観的になるよう、あなたを誘惑するでしょう。


そんな時、あなたは自分が置かれてる状況を見るのではなく、上にあるもの(神)を見上げるべきです。自分の置かれている状況から目を逸らし、すべてを変えることのできる神に目を向けるのです。神は、ご自分に目を向ける者の心を完全な平安と喜びで満たすと約束されました。なぜなら、神ご自身が私たちの平安であり、喜びだからです。


ですから、私たちがどんな時にも神を見上げ、神に目を向けるなら、たとえどんな闘いの中にあっても私たちは喜びと平安で満たされます。神こそ私たちが感謝をする理由なのです。


旧約聖書のハバクク書に次のような預言があります。これは、ユダがバビロン滅ぼされる直前に預言者ハバククが預言したものです。


「そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。 しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。」(ハバクク書31718


ここに、驚くべきハバククの信仰の姿勢を見ることができます。ハバククという名前は「喜び迎える」という意味の名前です。その名のとおり、ハバククは「喜び迎える」信仰を持っていました。


これから起ころうとしていたことは、ユダの地における荒廃と飢饉です。いちじくの木も、ぶどうの木の実も、オリーブの木も実りがなく、畑も食物を出しません。羊や牛もいなくなります。そして、そのあとでバビロン帝国がユダを攻撃するのです。


しかし、ハバククは主にあって、それらのことを喜ぼうと言っています。なぜでしょうか。それはハバククが神がなされる未来のことを見ているからです。彼は試練を忍び通したユダの民の上になされる神の恵みを見て、それを喜んでいるのです。


これが信仰によって生きる者たちが持っている、大いなる恵みです。大変な状況の中にいながらにして、喜ぶことのできる力と根拠が与えられるのです。


ハバククの預言の鍵になる言葉は、「主にあって」ということです。どんな木も実を結ばないことを彼は喜んでいるのではありません。もちろん、それは悲しいことです。しかしハバククは、たとえ木が実を結ばなくても「主にあって」喜んでいるのです。なぜなら、そこに主が与えて下さる救いを見ているからです。


今日の一言: 私は主にあって喜び勇み、救いの神にあって喜ぼう。


鶴田健次


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2019.01.05 03:25 | 牧師室より
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