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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

牧師室より#396「天国って本当にあるの?」_convert_20180728045451 


天国ってほんとにあるの?



 それにしても、来世とか天国といった、そんな世離れした話がほんとに信じられるものだろうか? それを真に受けて信じている人がいるんだろうか? いるとしたら、それは一体全体どんな人間なのだろう?と首をかしげる人があるかも知れません。あなたは如何ですか?


 しかし、天国を架空の神話と見なすのは、昔の共産国と日本人ぐらいのもので、他の国の人たちは大体みな、来世を当然とし、天国を現実の世界として信じています。


 C・S・ルイスといえば、オックスフォードとケンブリッジ大学で英文学を講じた教授として世界的に著名な学者です。この方がキリスト教信仰は、きわめて理に適ったものであることを論証する本を何冊も出していますが、その中に「天国」についての次のような論証があります。


「希望は神学的な徳目の一つである。このことは永遠の世界を絶えず待ち望むことが、ある現代人の考えているような、一種の現実逃避や希望的な考え方ではなく、キリスト者がなすべきことの一つであることを意味する。その事は、私たちが現在の世界をそのまま放置しておいてよいということを意味しない。歴史を読むならば、あなたはこの世のために、最も奉仕したキリスト者が、次の世に最も思いをはせていたキリスト者であったということを思い出すであろう。キリスト者のこの世における証しの力が弱くなったのは、彼らが次の世のことを考えなくなった時からである。天国をねらえ。そうすればあなたは、この地上をも獲得するであろう。地上をねらうならば、あなたはどちらをも得ることができないであろう。」


 なんと明快な説得力のある論証でしょうか。天国に人生の目的を置くならば、天国はもちろんこの世をも得ることができる。しかし、この世に目的を置くならば、天国を失うのはもちろんのこと、この世をも共に失うことになるという。まったくそのとおりに違いないのです。

 ですから、宗教詩人バイロンもこのように言っています。


「信仰者とは、来世のために現世を犠牲にする人のことであり、不信者とは、現世のために来世を犠牲にする人のことである。」


 ただし、C・S・ルイスが言うように、来世のために現世を犠牲にすると言っても、それは現世を失うことにはならず、むしろ結果的には来世と共に現世をも得ることになる、という点を心に留める必要があります。


あなたも、もう一度立ち止まって、この重要なテーマについて真剣に考えてみてはいかがでしょう。



今日の一言: 死後の世界は間違いなく本当にある



鶴田健次


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2018.07.28 04:50 | 鶴田健次牧師より

牧師室より#395「試練を恐れなくてもよい理由」_convert_20180721003404 


『試練を恐れなくてもよい理由』



旧約聖書の民数記に12人の偵察隊の話が出てきます。約束の地カナンを攻略するための情報を集めるため、モーセは12人の偵察隊をカナンに遣わしますが、12人の中の10人はカナンの住民は巨人たちで、イスラエルには全く勝ち目がないという悲観的な報告を持ち帰りました。それに対して、残りの二人、ヨシュアとカレブは、他の10人と一緒に同じものを見たのですが、彼らの報告は他の10人の報告とは全く別のもので、必ずイスラエルは勝てるからすぐに攻め上るべきだという楽観的な報告を持ち帰りました。


では、なぜヨシュアとカレブは、同じものを見たにも拘らず全く違うことを感じたのでしょうか。それは、この二人が、カナン征服の可能性を、他の10人のように、自分達の強さという観点からではなく、神の約束と神の力という観点から見ていたからです。


 ですから、たとえ相手がどんなに強く見えても、それはどうでもいいことで、神が勝利を与えると約束されたのなら、敵が強くても弱くても関係なく勝利が与えられるのであり、この神の約束という視点から見るならば、どんな試練の中でも、恐れなくてもよい理由が見えてくるのです。


マタイによる福音書8章23-27節に、イエス様が舟の中から嵐を叱って静めるという話があります。イエス様が弟子たちと一緒に舟に乗って湖を渡っておられた時です。突然、湖に嵐が起こり、舟は大波をかぶって弟子たちは溺れそうになりました。しかし、イエス様は舟の中で眠っておられました。


そこで弟子たちがイエス様のところにやって来て、イエス様を起こして言いました。「主よ。助けて下さい。私たちは溺れそうです。」するとイエス様は「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ」と言われると、起き上がって風と湖を叱りつけられると、風は止み、湖は大なぎになった、という話です。


ところで、この時、イエス様は嵐が来ることを前もってご存知だったのでしょうか? もちろんご存知でした。とすれば、この出来事は嵐という問題が起る以前から始まっていたということになります。


つまりイエス様は、弟子たちのために特別な目的をもって、この一連の出来事を計画し、その中で弟子たちが嵐に出会うように導かれたということです。では一体なぜイエス様は彼らに嵐を経験させられたのでしょうか。 


 それは、弟子達に眠りから起こされたイエス様の反応を見れば分かります。イエス様は、「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ」とおっしゃいました。つまりイエス様は、弟子たちの信仰を成長させるためにこの出来事を用意されたのです。


 彼らは命の危険にさらされ、そんな状態にならなければ生まれない必死の思いでイエス様に助けを求めました。それによって彼らは、風と湖を従わせることの出来るイエス様を知り、イエス様に対する信仰を強めることができたのです。


 アライアンス・ミッションの創始者であるA・B・シンプソンは、クリスチャン生活について、次のように語っています。


 「もし霊的に成長したいと願うなら、神が私たちに送られるすべてのことを受容しなければならない。私たちは、今のレベルで満足しやすいが、そのような場合、神は試練を送り、神の恵みに頼らざるを得ないような状況に私たちを追い込まれる。それは、私たちの霊的成長を促すためである。それはあたかも、洪水を送り、低地に安住している私たちを高地に追いやるようなものである。あるいは、母鳥が、心地よい巣をわざと壊し、ヒナ鳥たちを何もない空間に突き落とすようなものでもある。そうなると、私たちには二つの道しか残されていない。今までとは異なった、より高度な方法を見つけて生きるか、あるいは、失敗の中に沈み込むか。生きる方法を見つけるか、死ぬか。高く飛ぶことを学ぶか、下に落ちて死ぬか、のいずれかである。」


つまり、神様が試練を素晴らしい目的のために用いておられるということが、試練を恐れなくてもよい理由なのだということです。



今日の一言: 試練は私たちを成長させる



鶴田健次


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2018.07.21 00:35 | 鶴田健次牧師より

牧師室より#394「愛は寛容である」 


『愛は寛容である』

                                                     

結婚式で読まれるコリント前書13章の『愛の賛歌』の中に「愛は寛容である」という言葉があります。つまり、愛の特徴の一つは「寛容」であるということです。もちろん、ここで言われている愛は、すぐに変わり易い感情的な愛ではなく、真実な愛、つまり意思的な愛のことです。


ですから、「寛容」ということも意思的なものです。まさにイエス・キリストがそのような寛容の持ち主でした。イエス様のもとにはあらゆる種類の人々がやって来ましたが、イエス様はそのすべての人々を受け入れなさいました。


罪深い生活をしていたサマリヤの女も、また嫌われ者の収税人ザアカイも、イエス様に受け入れられ、イエス様の寛容に触れて、その生涯が変えられた人たちです。そして、あのパウロもイエス様の寛容に触れ、180度の人生転換を経験しました。


パウロは、弟子のテモテに宛てた手紙の中で、「主はわたしを忠実な者と見て、この務めに任じて下さったのである」と書いています。もともとパウロは決して忠実な者などではなく、キリスト教に対する迫害の先頭に立っていた人でした。ですから、当時のクリスチャンの誰もが彼を恐れていました。


そんな彼が、外国に逃げて行ったクリスチャン達を捕らえるために、ダマスコという所に出かけて行く途中、復活のイエス様に出会うのです。そこで、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげのあるむちを蹴れば、傷を負うだけである」と言って近づいて下さったイエス様の寛容な人格に触れ、パウロは生まれ変わって、キリスト教の大迫害者から大伝道者に変えられていったのです。


その経験をもとに、彼は、「私は決して忠実な者などではなかった。いやむしろ私は、神をそしり、キリストを迫害する不遜な者であった。しかし主は、私の人生の汚点をことごとく十字架の血潮で洗い清めて下さり、あえてこの私を忠実な者とみなし、キリストの福音の使者という尊い務めに任じて下さったのだ」と告白しているのです。


私も、かつては神をそしる者、またイエス・キリストに対して不遜な者でした。ごう慢で、自己中心で、自分の事しか考えない、神も仏もそんなものは一切受け付けないという人間でした。そんな私のために長い間、誠心誠意、熱心に伝道をしてくれた友人に対し、どこまでも理屈をこね回して抵抗し、あげくの果ては、たとえ世界中の人がキリストを信じても、絶対にキリストなんか信じないと悪たれ口を叩いた者です。たとえ無知からとは言え、よくもこんな神を冒涜する言葉を口にしたものだと思います。


またクリスチャンになってからも大きな罪を犯した者です。しかし主は、こんな不遜な者を、寛容の限りを尽くして愛し、導いて下さいました。そればかりか、こんな私を忠実な者と見なし、福音の使者という光栄な働きに召し出して下さったのです。


このように、本当はそうでない者をそのように「見なす」ということは、余程の寛容がなければできないことです。人の能力を能力どおりに評価することは誰にでも出来ますが、能力以上に評価するということは、その人に対する信頼と期待がなければできないことです。


そして、「イエス様がこの私に大きな信頼と期待を寄せていて下さる」ということが分かると、私たちの内に、何としてもその信頼と期待に応えていこうという応答が生まれてきます。パウロは、このイエス様の信頼と期待を理解できたからこそ、「福音を宣ベ伝えないなら、わたしはわざわいである」と言ったのだと思います。


あなたは如何ですか? イエス様があなたを信頼し、また期待し、あなたの人生に素晴らしい計画を持っておられることをご存知ですか? 



今日の一言: 神は私に大きな期待と信頼を寄せておられる 



鶴田健次 


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2018.07.14 04:27 | 鶴田健次牧師より

牧師室より#393「ゴールデンルール」_convert_20180707021857 


『ゴールデンルール』



かつて全米だけでも1000店以上の店舗を持つ米国最大の百貨店であったJ.C. Penneyは、創業当時、ゴールデンルールの店と呼ばれていたことがありました。『ゴールデンルール』というのは、マタイの福音書7章12節の言葉である「何事でも人々からして欲しいと望むことは、人々にもその通りにせよ」という教えのことです。


創業者のJ.C. Penneyは彼のために働く人々を従業員と呼ばずに仲間と呼び、自分が彼らからして欲しいと望むことを彼らにもしたそうです。彼はこのゴールデンルールを生きることによって、ワイオミングの小さな店から始まったビジネスを全米一の百貨店に成長させたのです。


J.C. Penneyはこの聖書の言葉に従って、顧客を大切にし、愛と尊敬と親切と理解とをもって顧客満足を第一にした経営方針を徹底させました。それによって買い物客たちは満足し、また次もこの店に買い物に来たいと思うようになったのです。今ではこの顧客満足(CS)というのはビジネスの常識ですが、これがJ.C. Penneyの成功の秘訣でした。


この聖書の言葉はビジネスの世界だけでなく、すべての人にとって人生の成功と幸福の秘訣だと言えます。だから『ゴールデンルール』と言われるわけです。イギリスの著名な数学者であり、また哲学者でもある、ノーベル文学賞を受賞したバートランド・ラッセルは、『自らの幸福を望んでも、他人の幸福を望む心と一つにならない限り、それは何の役にも立たない』と言いました。つまり、本当の幸福とは、他人との関わりの中ではじめて実感できるということです。


あなたはこのゴールデンルールを生きてらっしゃいますか。自分がして欲しいと思うことを人にもその通りにする。家庭で、職場で、学校で、教会で、すべての人間関係のあるところでこのゴールデンルールを生きることができれば、あなたの人生は本当に豊かなものになるでしょう。


しかし人間の生まれながらの性質は、相手が自分に好意的な態度を見せてくれれば自分もその人に好意を表すという自己中心的なものです。実はそこが問題なのです。


イエス・キリストは、自分に好意的な人にだけ好意的でありなさいとは言われませんでした。「何事でも人々からして欲しいと望むことを、人々にもその通りにしなさい」と言われたのです。しかし、そうするためには、どんな人をも愛していこうとする心が私たちの中になければなりません。どんな人をも愛する心は、イエス・キリストが私たちの心の中心にいなければ生まれてこない心です。 

                          

使徒パウロはピリピ人への手紙で「キリスト・イエスの心をあなたの心としなさい」と言いましたが、キリストの十字架の愛を経験することなしに、私たちは人を本当の意味で愛する心を持つことはできません。


イエス・キリストは、「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなた方の聞いているところである。しかし、わたしはあなた方に言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と言われました。果たしてそんな事が私たちにできるでしょうか?


しかし、ここで私たちが忘れてはならない大切な原則は、イエス様が私たちに何かを命じられる時、私たちが必ずそれをできるようにイエス様が助けて下さるということです。


アンドリュー・マーレイは、「私と神の関係は、私と人との関係である。だから神との関係に失敗すれば、人との関係にも失敗する」と言いました。私たちも、まず神様との関係に成功し、『ゴールデンルール』によって人との関係にも成功し、豊かな人生を生きていきたいと思います。



今日の一言: 人からして欲しいと望むことは、その人にもしよう  



鶴田健次



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2018.07.07 02:20 | 鶴田健次牧師より
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